15 やがて雪はとける
月美の部屋をノックするとドアはすぐに開いた。ドアの向こうでは奏斗を待っていた舞が唇を尖らしていた。
「奏斗君たら遅いよ」
「ごめんね。僕が気を失っていたんだ」
「雪の中で何が起きたのか蘇芳様から聞いたよ。橡尾さんが妖狐だったなんて驚いたよ。しかも奏斗君がまた雪崩に巻き込まれたなんて私心配で……」
舞の顔が曇ると奏斗は慌てて元気な声を出した。
「舞ちゃん、僕はこの通り大丈夫だよ。ね、アヤメさん」
奏斗が言うと後ろではアヤメが頷く。舞は奏斗の違和感にすぐに気が付いた。いつもならアヤメのことばかり見ている奏斗がアヤメのことを見ない。舞は奏斗とアヤメを交互に見ると奏斗の腕に自分の腕を絡ませた。
「そっか。アヤメちゃんがいたなら安心よね。いつもありがとう、アヤメちゃん」
舞は奏斗にバレないように挑戦的な視線をアヤメに投げかける。しかしアヤメは気にする素振りを見せなかった。
「そんなことより月美さんの様子はどうなのかしら?」
「月美さんは目が覚めたよ。でも代わりに菊江さんが眠ったままなの」
月美が寝ていたベッドには菊江が眠っている。部屋に入ると傍らの椅子に座っていた月美は立ち上がり奏斗とアヤメに頭を下げた。
「私のために助けを呼びに行って頂いたと聞きました。お客様である皆様にご迷惑ばかりをかけて申し訳ないです」
「頭を上げて下さい。月美さんだって意識が戻ったばかりなんですから」
奏斗は心配そうに月美の顔色を見た。真っ青だった顔には赤みがさし、瞳にも生気が戻っていた。
「私はこの通り元気なんです。こんな話、信じてもらえないかもしれませんが、頭もすっきりとしてまるで今までの不調が嘘だったみたいに。でも目を覚ましたらおばあちゃんが蘇芳さんに抱えられて眠っていて……」
月美の声は震えていた。アヤメはそっと彼女の肩に手を置いた。
「菊江さんは大丈夫。彼女はとても強いもの。それはあなたが一番よく知っているはずよ」
アヤメの言葉はすっと月美の心に溶け込んで不安を拭い去って行く。
「そうですね。おばあちゃんは私よりもずっと強い」
月美の瞳に涙が光り、菊江の手を握る。その顔はお菊を見つめるお月の横顔と重なった。
「あなたに渡さなければいけないものがあるの」
アヤメは白い封筒を月美に差し出した。月美はそれを受け取ると首を傾げた。
「これは?」
「事情があってオーナーの橡尾はもうここに戻って来ないわ。これは白樺荘の所有者から預かった手紙よ」
月美が封筒を開けると中に入っていたのは数行しか書いていない1枚の紙切れだった。月美は紙から目を離すと困惑の表情を浮かべた。舞は興味深そうに身を乗り出す。
「月美さん、何て書いてあったの?」
「この手紙によると安全面の理由で頂上のスキー場は完全に封鎖が決まり、白樺荘も取り壊されるそうです。準備が整い次第、至急私たちも白樺荘を出ていくように書いてあります」
「え!? 封鎖? ここを出たら月美さんたちの仕事はどうなるの?」
「それについては中腹のスキー場にあるホテルで雇ってもらえるそうです」
「なんていうご都合主義! 無機質で同じ人間が考えたとは思えない通達ね」
舞は大袈裟に言うと冷めた目でアヤメを見た。
「そうかしら? 組織にいる以上は組織の決定に従う。人間の社会でもよくあることだわ」
奏斗はふたりのやりとりに冷や冷やとしながら間に入った。
「舞ちゃん、ホテルには救護室もあるし、天気が荒れると孤立してしまう白樺荘にいるよりも安心かもしれないよ。それにこの山にいることには変わりはないから」
「そうかもしれないけど月美さんたちにとって白樺荘は特別な場所でしょ」
舞の言葉に手紙を持ったまま俯いていた月美は顔を上げた。
「私、おばあちゃんと一緒に山を降りようと思います」
「え?」
驚いた舞と奏斗の声が揃う。
月美はまだ眠っている菊江を見た。
「今までの私は何故かここで働くことは戦いだと思っていました。でも眠りから覚めた今、もう戦いは終わったような気がするんです」
「戦い?」
舞は首をかしげ聞き返したが奏斗は雪の雄鹿と花嫁の戦いを思い出していた。あれはまさしく死闘と言っても過言ではない。結果としてお菊は菊江として月美のそばで生きる道を選び、軍配はお月に上がった。だが月美にその記憶はない。月美はゆっくりと言葉を選びながら話を続けた。
「私が何と戦っていたのか……それはわかりません。でも今は心がとても平穏なんです。今の私に分かることはおばあちゃんが誰よりも何よりも大事ということなんです。だから白樺荘がなくなるのならば山を降りて二人でゆっくり暮らしたいっていう気持ちが芽生えたんです」
戦いが終わった今、彼女の心に残っているのは憎しみや恐れではなく、菊江への愛情だけだった。
「だめだ。月美」
かすれた声が月美を呼ぶ。月美が驚いて声の方を見るとベッドの菊江がゆっくりと目を開けた。
「おばあちゃん!」
「悪いが話は聞いていたよ。月美は山をおりちゃいけない」
「でも白樺荘はなくなるのよ」
「白樺荘がなくなるのが運命であれば新しい場所へ行くのも運命だ」
「そんな……じゃあおばあちゃんも一緒にホテルで働こう。今までみたいに—―」
菊江は身体を起こすと首を横に振った。
「おれは山をおりるよ。月美なら一人でもしっかりやっていける。おれはこの山が好きだ。だから山を見ながら静かに暮らすさ」
月美は目を潤ませた。
「おばあちゃんは私と一緒にいたくないの?」
「そうじゃない。人にはそれぞれの道がある。お前も本当は感じているんだろう? 今、おれたちの前には新しい道が開かれたんだ。その道がほんの少し離れているだけさ。大丈夫、新しい道には必ず同じ場所を目指す人がいる。そして月美を必要としている人がいるんだよ」
菊江は腕を広げると月美を抱き寄せた。
「おばあちゃんと離れるのは寂しいよ」
自分の腕の中で涙を流す月美を菊江は幼い子供にするように優しく撫でた。
「やがて雪はとける。とけたら戻っておいで」
月美は頷く。奏斗は二人のことを複雑な気持ちで見ていた。
月美と菊江を二人きりにして部屋をでると奏斗はぽつりとつぶやいた。
「二人は前世のことも雪山でのことも覚えていないんだね」
アヤメは小さなため息をついて困ったように微笑む。
「それは仕方ないのよ。本来、前世の記憶は魂の奥底で眠っているもの。今回は二人を繋げる雪の精霊への強い想いが引き金となって一時的に目を醒ましたに過ぎないわ。それも橡が余計なことをしなければ彼らは現れなかったのよ」
奏斗はアヤメの言葉に黙り込む。舞はいつもとは様子のちがう奏斗の顔を覗き込んだ。
「奏斗くん?」
「本当に余計なことだったのかな? もし橡さんが何もしなかったなら今もお月さんは精霊を憎んで苦しんでいたし、精霊も花嫁を求めてさまよい続けていたってことだよね」
「当人たちが望んでいないのなら余計なことよ。物事を解決するには時期がある。それは他人が決めていいものではないわ」
奏斗は何も言い返せずに「うん」と小さく頷いた。アヤメは奏斗に微笑んだ。
「私は問題を解決するのに前世を思い出す必要はないと思うの。お菊とお月の問題も解決したわけじゃない。たとえ記憶になくとも彼女たちの魂は菊江と月美の中に生きて答えを探し続けるんだわ」
奏斗はズキズキと疼きだす胸に手をやった。それは自分の知らない誰かがアヤメを求めて這い出して来る感覚に似ていた。
『僕の中にも誰かが生きて……』
奏斗はアヤメを見た。アヤメの穏やかな瞳の奥には自分の姿が映っている。奏斗にはそれが傷の男の顔に見えた。
「アヤメちゃん、これからどうするの?」
舞が聞くとアヤメはロビーを指差した。
「舞も会っておいた方がいいと思うわ。あなたたちとはこれから付き合いが長くなるはずだから」
舞は困惑した顔で奏斗を見る。しかし奏斗は上の空でアヤメの声も聞こえてはいなかった。
3人がロビーへ行くと待っていたのは青鈍のお付きの男だった。そこに青鈍の姿はない。
「封筒はお渡し頂けたようですね」
「ええ」
「私は人が苦手なので助かりました」
「菊江は山を降り、月美は残るわ」
「そうですか。万事こちらの予定通りですね」
舞はアヤメと話す知らない男を見て奏斗の袖を引っ張ると小声で聞いた。
「あの人は誰?」
「彼は……」
奏斗もその男の名前は知らない。ただ分かっているのは5尾の青鈍の元にいる人間ということだけだった。
「彼は桂川零。青森支所の人間よ。齢は確か舞と同じだったわね」
舞は目を丸くして桂川をじっくりと見る。桂川の眉間には深い皺が刻まれ目の下にはクマもある。やつれたその顔は実年齢よりも老けて見えた。
「じゃあ青森支所でもこの山の動物たちの保護に?」
「保護? 保護などとは馬鹿馬鹿しい。私と青鈍様は玉藻様、そして桐生様にお仕えしているのです」
桂川の細い目は明らかに舞を見下していた。舞は苛立ちながら桂川を睨みつけた。
「人間のせいで住む場所をなくした動物たちを救うことのどこが馬鹿馬鹿しいのよ」
「九重会の人間がここまで無知だとは驚きました。この山の所有者は桐生様です。この山のスキー場もホテルも我らが管理しているもの。もちろんこの白樺荘も。それが何を意味しているのかあなただって分かるはず」
舞も奏斗も彼の言葉に耳を疑った。
「じゃあ精霊の山を切り崩してスキー場にしたのは九重会ってこと?」
桂川は感情のない顔で静かに頷いた。
「何故そんなことを!?」
「人間は数多の自然を破壊してきました。精霊のこの山も人間が切り崩せば再生は不可能だったでしょう。玉藻様と桐生様は人間よりも先回りして山を買い上げているのです。そしてその一部を開拓しています。九重会とは人間に娯楽を与え、自然を管理する団体。しかし自然を壊す以上、あぶれた生き物たちが出る。彼らを異次元の森へ送るのがあなた方の役割です」
「そんなの聞いてないわ!」
舞は叫んだ。
「聞いていないのであればあなたがたの関係はその程度ということです」
「何ですって?」
「舞ちゃん、落ち着いて。きっと話せない理由があったんだよ」
「蘇芳様は何でも私に教えてくれるわ」
蘇芳に秘密と言う概念はない。舞には九重会のことを誰よりも知っているという自負があった。
「舞、蘇芳はあなたに隠し事をしていたわけじゃないわ。蘇芳は聞かれなければ答えない。そういう男よ」
「そうね。蘇芳様はそうだわ。ワケありなのはアヤメちゃんでしょ? アヤメちゃんはどうして黙っていたの? 奏斗君に幻滅されたくないから? それとも奏斗君が離れていくのが怖いから?」
しかしアヤメの返事の代わりに聞こえたのは桂川の大きなため息だった。
「はぁ……見苦しい。久しぶりに外へ出ましたがやはり人間と一緒にいるのは疲れます」
「さっきから聞いていれば『人間』『人間』って。あなただって私たちと同じ『人間』じゃない」
桂川は鼻で笑った。
「同じ? 私はあなたと同じではありません。私は人間である自分を恥じて生きてきました。人間の器を捨てたいと願っていた私に優しい青鈍様は手を差し伸べて下さった。私は自由に動けぬ青鈍様の代わりに手となり足となる。私は『人間』ではなく青鈍様の身体の一部なのです」
淡々と語る桂川の目の焦点は合っていない。舞は恐れすら感じ、眉をひそめた。
「あなたおかしいわ」
奏斗は彼の瞳を見てはっとした。桂川の瞳の中で黒い狐が笑っている。しかし舞はそのことに気付いていない。
「もういいでしょう」
アヤメは舞と桂川の間に入り、視線がぶつかるのを避けた。奏斗が次に彼を見た時には桂川の瞳にいた黒い狐は姿を消していた。
「花菖蒲様、あなた様の存在は唯一無二。愚かな私情で動く人間とはちがうのです。あなた様の身体には玉藻様から受け継いだ気高き血が流れています。どうかそのことを忘れて下さいますな」
桂川は舞に取っていた態度とは打って変わってうやうやしくアヤメに一礼をした。
「私はいつでもお母様と共に生きている。そう伝えてちょうだい」
アヤメの言葉に反応してロビーにある観葉植物が一斉に嵐にでもあったような激しく葉を揺らした。桂川は初めて笑みをこぼした。
「青鈍様も喜んでおられます。青鈍様と私はそのお言葉を聞きにここまで来たのですから」
奏斗はアヤメを見た。彼女に雪の中で見たような憂いはない。アヤメの瞳は清々しく澄み、晴れやかなその顔が奏斗の心を不安にさせた。奏斗にアヤメの心は分からない。ただ確かなのは雪の中で消えることを望んでいた彼女が自ら進んで九重会に留まるという選択をしたということだった。
葉の音が止むと桂川は満足そうに一呼吸ついた。
「では私はそろそろいきます。車に青鈍様を待たせておりますので」
そう言うと桂川は白樺荘を後にした。ぱたんとドアが閉まると重かった空気が心なしか軽くなった気がした。舞は奏斗の腕を掴んだまま桂川の出て行ったドアを睨む。
「あんな奴が九重会にいるなんて最悪よ」
舞はそう言い捨てたが奏斗には桂川への感情が何も湧き上がらない。桂川は最後まで奏斗と目を合わせようとすらしなかった。唯一感じたことと言えば桂川は不思議な男だった。今別れたばかりなのにもう桂川の顔を思い出せない。奏斗は桂川という人間がそこに存在していなかったような気さえしていた。
それから彼らは慌ただしく帰りの準備に取り掛かった。特に舞は蘇芳がすぐに山を降りるというので休む間もなく大きなボストンバッグを抱えて白樺荘の前で蘇芳の車を待った。
「二人での仕事楽しみにしていたのにこんなことになるなんて。あいつの言う通り私たちのしていることってバカバカしいのかな」
見送りに来た奏斗の前で彼女は暗い表情を見せた。山は前日の嵐が嘘のように晴れ渡っていた。白い山に水色の空が近い。木が伐採されたゲレンデに生き物の姿はない。山の生き物たちはゲレンデの端に残された少ない木々の中で生きていくしかなかった。
「舞ちゃん。僕はけして馬鹿馬鹿しくなんてないと思う。住む場所を奪ったのが人間であれ妖狐であれ、立場の弱い生き物たちが困っていることには変わりないんだから」
「そっか。この山の動物たち保護してあげられなかったね」
「きっとここの動物たちはどんなに住む場所を追われても異次元の森には行かないよ。ここの動物たちは雪の精霊と共に生きる道をすでに選んでいるんだ」
奏斗は山の頂上にある鳥居を見た。そこに黒い化け物などもういない。その代わり1羽のウサギが鳥居の周りを跳ねまわり山の奥へと消えていくのが見えた。
「舞ちゃん、僕はこれからもアヤメさんのそばで自分の出来ることをしていくよ」
「奏斗君は昔から変わらないね」
奏斗は彼女の言葉に思い悩む顔を見せた。舞は奏斗のそんな顔を見るのは初めてだった。
「奏斗君?」
「……舞ちゃんの言う通り僕は簡単には変われないんだ……僕は他の誰にもなれない。ずっとそのことを考えてたんだ」
舞は奏斗の頬にキスをした。奏斗が驚いて頬を抑えると舞はにっこりと笑った。
「他の誰かになんてなる必要ないよ。私はそのままの奏斗君が好きだよ」
「舞ちゃん……」
奏斗が彼女の名を呼んだその時、白く光るセダンが白樺荘の前に停まった。窓が開くとサングラスをかけた蘇芳が片手でハンドルを握っていた。
「舞、行くよ」
「はい。蘇芳様」
舞はバッグを抱えたまま後部座席へと乗り込む。
「またね、奏斗君」
蘇芳は車を発進させた。窓の外では一人、白樺荘の前に立つ奏斗がどんどんと小さくなっていた。それと共に舞の顔も暗くなっていく。
「アヤメちゃん来ませんでしたね」
「舞、まだ姫のことを気にしているのかい?」
「いつも奏斗君はアヤメちゃんしか見ていない。アヤメちゃんも何か吹っ切れたみたいで怖いんです。このままアヤメちゃんが奏斗君を奪ってしまったら…」
舞の声が震える。蘇芳の唇がふっと緩んだ。
「何も恐れることはない。長きにわたって積もった姫の想いが雪崩を起こしただけさ。雪はやがてとける。とけた雪は川となりいずれは大海に飲み込まれる運命だ。姫の想いも同じこと。どんなに荒れ狂おうともいつかは九尾に飲み込まれる。君は姫が飲み込まれる様を舟の上から見ていればいい。最後に残るのは姫ではなく君なのだからね」
「蘇芳様、本当のことを教えてください。桂川というあの男も知らないような真実を」
「本当のこと? 真実というのは君が見ているすべてさ」
「そんな……」
「姫も言っていただろう。私は聞かれたことしか答えない。だが君が彼や桂川よりも特別な人間であることにはちがいないよ。特別な私の元にいるのだからね」
舞のコートのポケットからカサっと乾いた音がした。取り出して見るとそれはアヤメが包んだ梅の実だった。舞は梅の実が入った袋をつぶれそうなほどに強く握りしめた。蘇芳はルームミラー越しにそれを見ると上機嫌に笑い、スピードを上げてトンネルを走り抜けた。




