13 父と娘 下
「おい! 花菖蒲!」
灰がゆすってもアヤメは目を閉じたまま少しも動かない。近くの茂みではアヤメたちの様子を伺う怪しい人影があった。
「はぁおそろしやおそろしや」
「花菖蒲という名、そして6本の尾。間違いございませぬ。この妖狐こそ九尾玉藻の娘でありましょう」
微かに聞こえる声に灰が気づき大声を上げた。
「誰だ!!」
灰は念力で声のする茂みをかき分けた。すると出て来たのはおしろいを塗った貴族の男と陰陽師だった。
「見つかったか。まぁいい。九尾の娘は私の手にあると同じこと。まさか九尾の娘を捕らえることができるとは、なんという幸運。九尾の娘は強い式神になるぞ」
「お前たちがこの狐を使って罠をしかけたのか!」
灰が怒鳴ると陰陽師は扇子で口元を隠し笑う。
「いかにも妖狐を捕らえるため毒団子をまいたのは私だ。その団子を食べても死なない狐ならば妖狐だからな」
「なんてひどいことを」
「ひどい? 私は見ていたぞ。狐を殺したのはその娘だ。禍々しい瘴気で狐にとどめをさしていただろう」
「殺したのはお前たちだ!」
人の姿のまま牙を剥く潤に陰陽師が印を組む。
「ほほう、お前たちもなかなかの妖と見た」
危険を感じ取った灰が潤を掴み、もう片方の手でアヤメを抱き抱える。
「潤! このままじゃ俺たちも危ない! 逃げるぞ」
しかし、灰は見えない壁にぶつかり跳ね飛ばされた。見れば四方に印が組まれ結界が貼られていた。
灰と潤は変化を解き妖狐の姿になると人間たちに牙を剥いた。貴族はその恐ろしさに後ずさりした。
「おい、あの凶暴な奴らも式神にするのか?」
「いいえ、我らが必要としているのはその娘のみ。しかし、その娘も一筋縄ではいかないでしょう。奴らはこの娘の仲間。奴らには娘を服従させる人質となってもらいましょう」
陰陽師は札を1枚出すと結界の中に投げ入れた。
「汚い人間め」
札は巨大な獅子となり双子に唸り声を上げる。
「おい、潤!」
「分かっているよ!」
灰は気を失っているアヤメを担ぎ上げ、獅子に念力を使うが結界の中では力が発揮できず劣勢に立たされていた。
「私は名のある妖とも戦ってきた陰陽師だぞ。若いお前たちに負けはせん」
陰陽師の合図で獅子は吠え、灰を襲う。そこへ潤が飛び込み2匹は投げ飛ばされた。
「潤、助かったぜ。お前がいなけりゃやられてた」
「俺たちはここでやられるわけにはいかないからね」
灰は左半身、潤は右半身を負傷し二人はお互いを支え合うのがやっとだった。
「どうするの? このままじゃ捕まっちゃうよ」
「呼ぶしかないだろ。俺たちが知っている一番強くて怖い妖狐を」
灰と潤は目を合わせ同時に高い声で鳴いた。その声は天まで響き、雲がわれ、光が現れた。
光は次第に形を現し、輝きに満ちた狐の姿となる。
「おい、陰陽師! あれも妖狐か!?」
「あれは光に包まれた4尾の狐……。聞いたことがありますぞ。確か名は『白磁』。稲荷大明神の使いの妖狐だ!」
「稲荷大明神!? 神ではないか! 我らは神を敵にするのか!?」
貴族はあまりに尊大なその姿に畏れ腰を抜かしてしまった。
「くそ! ええい!!」
引くに引けなくなった陰陽師はさらに印を組み獅子をけしかける。しかし白磁が視線を送るだけで獅子はただの紙切れに戻ってしまった。白磁をとりまく雲から稲妻が走り雷鳴が響くと結界は打ち砕かれた。
「お、陰陽師! なんとかししろ!」
貴族の男が言うと陰陽師はすでに白目をむいて倒れていた。ゴロロと雲がまた鳴る。
「ひ、ひ、ひい! たすけてくれ!」
男は四つ這いになって逃げていった。
「灰、潤」
雷は消え、あたりが静かになると白磁は初めて声を発した。双子にとってその落ち着いた声は轟音で鳴り響く雷鳴よりも恐ろしい声だった。
「父上、申し訳ありません」
耳が垂れ下を向く二つの頭から小さな声が重なった。
「神に仕える私の身は私のものではない。それはそなたらも承知していたはず。その禁忌を犯してまで私を呼ぶとは」
双子は顔をあげることもできずただ震えていた。しかし白磁から出たのは双子が予想もしていない言葉だった。
「灰、潤、顔を上げよ。そなたらは間違っていない」
双子は驚き顔を上げた。白磁の顔は和らぎ双子に問う。
「まだ幼いそなたらのこと、自らの力を過信し人間に捕まっていてもおかしくはなかった。だがそなたらは迷うことなく私を呼んだ。それは何故だ?」
灰と潤の視線が揃って気を失っているアヤメへと注がれる。
「俺たちがどうにかなったら辛いのは花菖蒲だ」
「花菖蒲はまた自分を責めるだろうからね」
白磁はアヤメへと近づく。
「花菖蒲」
呼びかけにアヤメは静かに目を開けた。
「お父様……。お父様が助けてくれたのね」
起き上がろうとすると身体を走る痛みに顔を歪めた。
「そなたはまた他者の苦しみをその身に受けたのか。そなたが受けたその毒は長い年月をかけ、そなたの中に溜まっていくのだぞ」
「いいの。これは私がいなければ受けなかった苦しみだもの。でも私は苦しみを取り除くことができても救うことはできない。九尾の娘であっても私は何もできないのよ」
アヤメの傍らには狐の亡骸があった。白磁がその亡骸に触れると狐は光となり天に帰っていく。
「花菖蒲、己が九尾の娘であることに囚われてはいけない」
「私のせいで苦しんでいる者がいるのに私は目を背けて生きていくなんてできない」
そう言いながらよろけるアヤメの身体を灰と潤は両側から支えた。
「離して! あんたたちだってボロボロじゃない! 私はあんたたちに支えられなくてもひとりで立てるわ」
「うるさいぞ、花菖蒲。お前がなんでも勝手にやるように俺たちも勝手にやっているだけだ」
「そうそう、こうして支え合った方が俺たちも楽だしね」
ふたりから伝わる温もりに不思議と体の痛みは和らいでいく。
「あんたたちなんて……本当に大嫌いよ」
そう言いながらもアヤメはふたりの兄に身体を預けていた。
「花菖蒲! 灰! 潤!」
大きな声で名を呼ばれ、声の方を向くと狐姿の鳩羽が走ってきていた。後ろには百緑の姿もある。2匹は急いで来たあまり毛並みは乱れ、息も上がっていた。
「お母様」
「ああ、よかった」
鳩羽は人間の姿になると子どもたちを強く抱きしめた。
「人間の腕はとても便利ね。まとめて抱きしめられるもの」
そう言いながら鳩羽は腕に力をこめる。
「く、くるしい」
「い、息ができないよ!」
腕の中であえぐ息子たちを鳩羽は目を潤ませて睨みつける。
「これだけ心配させておいて! 苦しいのも少しくらい我慢しなさい!」
「百緑! お前告げ口したな!」
鳩羽の腕の隙間から灰が言うと百緑はおろおろと眉をㇵの字にして泣きそうな顔をした。
「申し訳ございません。でもお屋敷にひとりでいたら、このまま皆様がお帰りにならなかったらどうしようって心配でいてもたってもいられなくなってしまって」
鳩羽は今にも泣きだしそうな百緑を手招きするとみんなまとめて抱きしめた。鳩羽は自分の着物が少し濡れているのに気づくとアヤメの頭を優しく撫でた。鳩羽と白磁は瞳を合わせ頷き合う。白磁は再び光の塊となり天へと舞い上がった。
「花菖蒲、そなたの痛みは我々の痛み。そなたが我々の魂の一部であることを忘れてはならない」
その声はアヤメの耳にいつまでも響き渡っていた。
気付けばアヤメと白磁、奏斗は雪の中へ戻っていた。
「今でも覚えているわ。あの時のぬくもりを。お父様の言葉を」
「それでもそなたは度々、自分を犠牲にしてきた。そしてとうとう自分の命までも投げ打とうとしている。彼にとってそなたは魂の一部。そなたは彼の魂を殺そうとしているのだ」
「私の魂は彼の魂ということ?」
「そうだ。彼を救う道はただひとつ。そなたが生きることだ」
「でも……生きていれば彼が他の人と結ばれるのを見なくてはいけない。それが彼の命を救うため九尾と交わした約束。でも私には耐えられなかった。私には精霊のように自分のために生まれ変わってくれるのを待つなんてできないのよ」
下を向くアヤメは大きな腕に包まれた。見上げれば人の姿になった白磁の優しく強い眼差しがあった。
「ああ、そなたは精霊とはちがう。そなたには力がある。運命を変えることができるのは強い力と強い意思のある者だけ。九尾の娘であり強い力を持つそなたなら九尾とは異なる新しい未来を創り出すことができるだろう」
「私が新しい未来を創り出す?」
「今こそ九尾から得た力を使い、そなたの大事な者のために新たな未来を切り開くのだ」
「私の大事なひと……」
奏斗を想うだけで愛おしい気持ちが胸いっぱいに広がる。
「九尾ではなく、私が未来を創る。彼のための未来を—―」
アヤメの頬に赤みがさし、瞳に輝きが戻る。
「花菖蒲、そなたの力に限りはない。時が来た時、我ら家族は必ずやそなたの助けとなろう」
白磁はそう言うと元のお守りに戻っていた。
アヤメはお守りを握りしめ、奏斗の唇に自分の唇を重ねた。首元が熱くなり力が溢れだして身体に染みわたっていく。
アヤメはコートのポケットから梅の実を取り出し、自らの瘴気を当てた。すると中に閉じ込められていた蘇芳の力が解放され、実は小さな芽を出した。芽はみるみると木に成長し、根は雪をかき分け成長していく。アヤメは奏斗を抱え枝につかまると成長を続ける枝は雪を出て、ふたりを雪の外へと連れ出した。
アヤメはまだ寝ている奏斗をそっと雪の上へ寝かせた。奏斗の頬に赤い花びらがちらちらと舞い降りる。
梅の大木は季節外れの花を咲かせ、真っ白な雪に赤い花が映えた。それは息を飲むような美しさだった。梅の木の上で揺れる人影がアヤメに声をかける。
「おかえり姫君。また私の力を勝手に使ったみたいだね」
その声は蘇芳のものだった。あたりに精霊の姿はもういない。蘇芳は梅の枝を手折ると奏斗へと投げつけた。鋭い枝先は奏斗の心臓を狙う。アヤメは蘇芳を睨み上げたまま枝を掴み取った。
「あんたは嫌いだけど、あんたには利用価値があるわ」
そう答えたアヤメは以前にも増して強さがみなぎっていた。蘇芳は恍惚の表情を浮かべた。
「それでこそ姫君だ。やはり君を私のモノにしたいね」
「あんたが欲しいのは私の力でしょ。この力、あんたにだけは渡さない」
蘇芳はふっと笑うと横目で山の下の方を見た。
「元気になってくれてよかったよ。でも少し遅かったね。君を心配して彼女が直々においでになったようだ。これであの姉妹も感動の再会といったところさ。だが私はあの姉妹があまり好きじゃないんだ。どうにも陰気くさくてね。私は一足先に戻って菊江を月美の元へ送り届けよう」
蘇芳の腕の中では菊江がまだ眠ったままだった。
「彼女によろしく伝えておいてくれ」
そう言うと蘇芳はその場から軽やかに飛び去った。アヤメの耳には微かにスノーモービルの音が聞こえていた。