10 雪の中の想い
『あたたかい』
雪の波にのまれたはずなのに奏斗は心地の良い温かさに包まれていた。
目を開ければ目の前は真っ白で淡く光を帯びている。柔らかなその毛並みに奏斗は手を触れた。すると毛並みはゆるやかに波打ち金色の瞳が奏斗を見つめた。
「奏斗大丈夫? 冷たくはない?」
「僕は大丈夫。でもアヤメさんが……。僕のために本当にごめん……」
アヤメは重く冷たい雪に触れないよう自らの身体で彼の身体を包み込んでいた。奏斗は守られるしかない自分が情けなく、申し訳ない気持ちになった。
「そんな顔をしないで、奏斗。あなたは何も悪くない。私があなたに関わらなければあなたは危険な目に合うことはないんだもの」
狐姿の細長い瞳孔は奏斗を映すと丸みを帯びて潤む。
雪の中は静かだった。冷たさの中にふたりの体温だけが暖かく、心地良い。まるでそこには生き物がふたりだけしかいないようなそんな空間だった。
「アヤメさん、僕ね、こんな状況なのにアヤメさんとふたりでいられることがうれしいんだ」
耳に響くアヤメの鼓動に奏斗の気持ちが溢れ出す。
「雪で閉ざされたここでなら監視の目も届かないはず。アヤメさん、僕はアヤメさんの本当の気持ちが知りたい」
アヤメは少し戸惑うように目を離した。
「本当の気持ちなんて—―」
言葉を濁すアヤメを奏斗はぎゅっと抱きしめる。
「僕の知ってるアヤメさんは強いよ。でもいつも辛いことを我慢しているみたいにも見えるんだ。僕はずっと感じてた。アヤメさんが本当は九重会を抜けたいんじゃないかって。もしアヤメさんが九重会から逃げたいのなら僕も一緒に行く。僕はアヤメさんをひとりにしたくないんだ」
アヤメは奏斗の腕に身を任せ、首を横に振った。
「奏斗、九重会から逃げるなんて不可能なのよ。青鈍の目から逃れる手立てはないわ」
「でも—―」
奏斗の言葉を遮るようにアヤメは真剣な眼差しで彼を見つめる。
「それに九重会から逃げることが私の望みじゃないの」
「アヤメさんの望みって?」
「私の望みはあなたが生きぬくこと。どんなことがあっても自分の命を大切にして生きてほしいの」
奏斗はアヤメに触れる手に力をこめた。
「僕は生きるよ。アヤメさんが一緒なら僕はどこでだって、どんな状況だって生きる」
力強いその言葉から逃げるようにアヤメは目を伏せた。
「それはできないのよ」
「なんで? 僕が人間だから?」
「いいえ、あなたは気づいていないけれど、もうあなたは普通の人間じゃない。だから舞には見えない精霊の姿が見え、ノウサギはあなたが人間だと分からなかった」
「僕が普通の人間じゃないってどういうことなの?」
アヤメは奏斗に見えるように首を下げた。すると淡く光る身体の中で首元がより一層強く光を放っていた。
「ここはエネルギーの集まる場所。だから妖狐は他者を背にのせることを嫌うの。私はあなたが背に乗った時、九重会に気付かれないように少しずつあなたに力を送り込んだの。青鈍の目が届かない今なら私の持つすべての力をあなたに託すことができるわ」
そう言って小さく息をついたアヤメはかなり弱っているように見えた。考えてみれば精霊に攻撃されたくらいでアヤメがここまで衰弱するのはおかしなことだった。
「アヤメさんが弱っていたのは僕のせいだったの? 僕に力を分けたせいで……」
「この力はあなたに必要な力なのよ。九重会と関わりを持った人間はこの先必ず危険で過酷な目に合う。そしてあなたにはあなたの守りを必要とする人がいる。この力があれば私がいなくてもあなたは彼女を守り幸せに生きていけるのよ」
「アヤメさん、何を言っているの? 僕が守りたいのはアヤメさんなんだよ」
「いいえ、あなたが守るのは私じゃない。あなたの運命の相手はもうあなたのそばにいるわ」
アヤメの瞳に映し出されたのは一人、ログハウスで帰りを待つ舞だった。
「うそだ! そんなこと誰が決めたの? 自分の運命は自分で決める! そうでしょ? アヤメさん!」
奏斗は声を荒げた。しかしアヤメは落ち着いた声で答えた。
「九重会に入った者の運命を決めるのは九尾よ。九尾の力は絶対。だから私達には二つの選択肢しかない。九尾の定めた運命に従うか、その運命を受け入れず消えるか」
「そんな……」
奏斗は絶望し、同時に嫌な予感がした。
「アヤメさんは受け入れたの?」
アヤメは何も答えなかった。
「ねえ、アヤメさん、僕に力を与えたのは九尾が決めたことじゃないよね? じゃあ僕にすべての力を送り込んだらどうなるの? 答えてよ、アヤメさん!」
必死に問い詰める奏斗にアヤメは静かに答える。
「私は解放されるわ。九重会から…そしてこの苦しみからも」
奏斗は自分の身体が震えているのを感じた。その震えが畏れなのか、憤りなのか言い表せない感情が彼の心と体を震わしていた。
「解放って消えるってこと?」
「人ならざる力を得るには犠牲が必要なのよ。15羽のウサギのように」
「アヤメさんを犠牲にしてまでそんな力いらないよ!」
震え声で叫ぶと急に息が苦しくなってきた。雪で閉ざされた空間の酸素が薄くなってきたのだった。アヤメは人間の姿になり、震える奏斗の頬に触れた。
「奏斗はそう言うと思った。だから言わなかったの。あなたが生きてくれることだけが私の救い。あなただけが私を助けることができるのよ」
奏斗ははっとした。それは永遠の命を持つ彼女の唯一の逃げ道なのかもしれなかった。奏斗を見つめるアヤメの瞳に熱がこもる。魂が解放された先に誰が待っているのか。それを考えるだけで嫉妬心がざわざわと彼の胸をかきむしった。
「解放されたらアヤメさんは好きな人に会えるの?」
アヤメはすぐに奏斗の言っている意味を理解していた。
「私の好きな人はもう死後の世界にいないわ。今、彼の魂は生まれ変わってこの世界を懸命に生きている。前世での記憶をなくした彼はもう新しい人生を歩んでいるのよ。私が邪魔をしなければ彼も菊江のように人間の伴侶を得て、人として幸せな一生を送るはず……でも—―」
そこまで言うとアヤメは言葉を詰まらせた。
「……でも私は精霊のようにただ待つなんてできない。私ではない誰かと生きる彼を見ていられないの。生きている限り彼のすべてを求めてしまうのよ」
その声は震え目には涙を浮かべていた。こんなにも辛そうな彼女を見るのは初めてのことだった。奏斗はアヤメが離れて行かないよう強く抱きしめた。
「アヤメさん、僕じゃダメなの? 僕じゃその人の代わりにはなれないの?」
アヤメの瞳が切なく揺れる。
「あなたもいずれ死に、私を忘れるわ」
「それでも……何度生まれ変わっても僕が恋をするのはアヤメさんだけだ」
彼女の瞳から溢れた涙が一筋流れる。
「彼も同じことを言ってくれたわ……。だからこそここで終わりにしなきゃいけないのよ」
アヤメは奏斗から身体を離した。
「もう時間よ。空気がだいぶ薄くなっているわ。このままだと死んでしまう」
そう言うと残りの力を奏斗へ送り込む。注ぎ込まれる熱く強いその力はアヤメの感情を奏斗に伝えた。それは寂しくて哀しくて、そして愛に溢れていた。
「いやだ! アヤメさんがいない世界なんて生きていても意味がないんだ」
「大丈夫。私がいなくてもあなたはひとりじゃない」
薄れていく意識の中でアヤメを見失わないように奏斗は必死だった。
『アヤメさん! 僕はアヤメさんを救いたい。こんな形ではなくアヤメさんを助けたい!!』
すると奏斗のポケットが眩しいほどに光輝いた。荒く呼吸しながら光をポケットから取り出すとそれは百緑に渡されたお守りだった。お守りはじょじょに形を変え、妖狐へと変化していく。
「4尾の……狐……?」
朦朧としながら奏斗はつぶやいた。妖狐が現れると不思議なことに雪の世界が消え、呼吸も楽になった。
その姿は奏斗が今まで出会った妖狐の中でも威厳に満ちた雄大な妖狐だった。妖狐は奏斗の方へ顔を向けた。妖狐の目が光り奏斗を包む。真っ白なその光はどこか温かく、アヤメが放つ光に似ていた。そしてしだいに身体の力が抜け、奏斗は意識を失った。
「お父様……」
薄れゆく意識の中、アヤメが小さな声でつぶやくのが聞こえた。