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狐姫 ~生きとし生けるモノガタリ~  作者: 鴨カモメ
第伍話 キツネ姫と雪の雄鹿
56/84

9 本当のあなた

 お菊は雄鹿の首元をそっと抱きしめた。雄鹿もまた愛おしそうにお菊に身を寄せる。

「お菊、我と共に行こう」

 彼女は雄鹿から身体を離し、涙ぐみながら顔を上げる。しかしお菊が返事をするよりも早く叫んだのはお月だった。

「私を置いて行かないでくれ! お菊!!」

 悲鳴が切なくこだまする。雪の精霊が創り出した世界はどこまでも白く、そして、寂しい。


「またお前はお菊が選ぶ道を邪魔するのか」

 雄鹿は角をお月に向け睨みつけた。

「かわいい娘を化け物の嫁にしたい親がどこにいる! お前が……お前がいなければ!!」

 唇を噛み残った片腕を伸ばすと、お月の腕は炎となって雄鹿の雪をとかした。雄鹿のいた場所に残ったのは黒いもやだけだった。もやの中に怪しく光る瞳がゆらゆらと揺れていた。


「あれは!」

 それは奏斗が見た化け物と同じだった。

「お菊! それが雪の精霊の正体だ! おぞましい化け物め!」

 自身も腕を失い上半身だけになったお月が叫ぶ。お菊は黒いもやに包まれ涙を流した。

「お菊、我が恐ろしいか? 我はそなたを誘い込むために足跡を残し、そして雪でできた美しい器も手に入れた。そなたが美しい器を望むならまた手に入れよう」

 お菊は静かに首を振った。

「美しい器なんていらない。あなたがこの姿なのは雪の穢れをすべてその身に受けているから。あなたのおかげで美しい雪が降る。あなたが清らかな精霊であることは私が一番知っているわ」

「お菊! そいつが清らかなわけがないだろう! そいつは魂ごと私を殺そうとしたんだよ!」

 お菊はお月の言葉に震え声で答えた。

「それは私のせいよ」

「あんたのせいでなんかあるものか! 全部そいつが悪いんだ! そいつは雪崩で村人を襲ってきた恐ろしい奴だ」

 すると黙って聞いていたアヤメが口を開いた。

「精霊は村を襲っていないわ。精霊が雪崩を起こすのは山に新しい命を吹き込むため。お菊の言う通り純粋で清らかな存在である精霊に人を襲う力はない。精霊の孤独につけ込んだ奴が力を与え、あなたと争うように仕向けたのよ」

 狐姿のままのアヤメは厳しい顔つきをしていた。

「そんなこと信じられない!! 現にあいつは人を殺しているんだよ! 私の夫はこの化け物に殺されたんだ!! こいつは人殺しの化け物だ!!」

 叫ぶお月をお菊はまっすぐに見つめた。


「お母ちゃん、精霊はお父ちゃんを殺してなんかいない」

「じゃあ誰が—―。誰があの人の命を奪ったと言うんだよ!」

 黒いもやがお菊を気遣うようにゆらゆらと揺れる。そしてお菊はお月に向かってはっきりと言い放った。

「お父ちゃんを襲ったのは私よ」

 お月はその耳を疑った。

「なんだって?」

「お父ちゃんは15になったら私を精霊の元へやるという約束を守らなかった。私の魂はウサギの魂。殺された15羽の魂はお父ちゃんを許さなかったのよ」

「そんな—―」

 うなだれるお月に精霊が追い打ちをかける。


「わかっただろう。お菊は我のために生まれてきた娘なのだ」

「うっうう……」

 お月は嗚咽して泣いた。しかしそれを拭う手はもうない。

「それでも……たとえそうだとしても……お菊は私の娘だ。普通の娘に育って子を産み幸せな人生を送ってほしかった。私はそんな娘の幸せを見守りたかったんだ」

「お母ちゃん」

 お月の元へと行こうとするお菊をもやが引き留める。

「いくな、お菊」

 お菊は首を横に振った。

「お菊の心は生まれた時からあなた様だけを求めていた。それしか知らず、ただそのためだけに生きていた。でも菊江はお菊とは違う。今の私はお菊であり菊江なの」

「お菊……」

 お菊は黒いもやをすり抜け羽衣でお月の身体を包み込んだ。

「私は月美のそばにいる。これからも月美の幸せを見守りたいから。だからお母ちゃん、どうか月美の元へ戻って。わがままなのは分かっている。でも月美を助けられるのはお母ちゃんだけなのよ」

 お月を包み込んでいた羽衣が淡く光った。その光は凍てついたお月の心を温かく照らした。

「お菊、信じていいんだね」

 お菊は頷く。するとお月の顔は穏やかになり、身体を形作っていた雪がキラキラと溶けていった。


「お月さんの身体が—―」

「大丈夫、お月の魂が月美の元へと戻っていくのよ」

 溶けた雪が空へ舞い上がっていくのをお菊は見届けた。


 お月がいた場所には羽衣だけがふわふわと漂っていた。お菊は羽衣を手に取り精霊の元へと戻る。もやの中に浮かぶ瞳は哀しみと絶望に満ちていた。

「あなた……ごめんなさい」

 お菊は羽衣を精霊に優しく振りかざすと羽衣は鈴となり、音を立てながらもやの中に吸い込まれていく。シャンシャンという鈴が鳴り続け音とともに黒いもやは晴れて行った。15個の鈴がもやのあった場所に浮いている。


「もやが消えた」

 鈴だけが揺れシャンシャンと音を立て続けている。

「もやは人間が出した穢れ。私は精霊の妻となりその穢れを浄化する仙女になりはずだった」

 お菊は透明になった雪の精霊に手を伸ばす。すると鈴は一層高い音でそれに応えた。

「お菊、そなたは我ではなく人間として生きる道を選んだのだな」

 鈴の音の中に落ち着いた低い声が響く。

「私の命はもうあなた様だけのものではなくなってしまった」

 俯くお菊のまわりを15の鈴が取り囲む。

「人の世界は複雑だ。そなたの魂は人の世界にからめとられてしまった」

「あなた……」

 お菊は顔を上げた。

「そなたは誰のためでなく自分のために生きればいい。我の命は永遠。この山に雪が降る限りそなたをここで待とう」

「いつか…いつか必ずあなたの元に」

 お菊はゆっくりと目を閉じた。すると身体は小さく縮み、肌には無数の皺が刻まれて行く。それとともに白い世界が晴れていき雪の積もった白樺の木が現れた。気づけば奏斗たちは元の世界に戻ってきていた。


「菊江さん!」

 倒れている菊江に駆け寄ろうとした奏斗よりも早く、さっと降りてきた人影が菊江の身体を抱き起こした。

「蘇芳さん! 今までどこにいたんですか?」

 驚きながら聞くと蘇芳は鼻で笑う。

「ずっと見ていたよ。君が気づかなかっただけでね」

 感情が見えない無機質な瞳に、背がゾクゾクと寒気がした。微かにも動かない菊江の身体に不安がよぎる。

「菊江さんは?」

「よく眠っているよ。彼女は精霊の穢れを浄化した後だ。長い休息が必要なのさ。そして目が覚めた時には何も覚えていない。ここでのことも。雪の精霊のこともね」

「そんな……」

「忘れるというのは罪深いね。忘れられた者がどんなに傷ついていてもそれに気付きもしない。あてのない希望、果たされることのない約束。儚い人との縁は不幸しか生まない。君もそう思うだろう?」


 蘇芳が話しをふったのはアヤメだった。金色に輝く瞳の奥に哀しみと怒りが滲む。それは蘇芳のいうことが正しく、アヤメにも約束を交わした人間がいたということを示していた。

 奏斗の心がざわめく。アヤメの心を傷つけるほどに支配するその存在に激しく嫉妬をしていた。

 アヤメの代わりに蘇芳の問いに答えたのは精霊だった。

「例え果たされることがなくとも約束があるから生きていけるのだ。愛する者によってついた傷ならば、その傷すらも慈しむ。それが分からないのは自分しか愛していないからだ」

蘇芳は鼻で笑った。

「私はこの世界のすべてを愛しているよ。だからこそ君たちの争いに力を貸したんだ。今頃お月の魂は月美に戻り目を覚ましているだろう。結局幸せになったのはお月だけ、お月が憎くはなのかい? それならログハウスごと月美を流し去ってしまえばいい。君が望むならまた協力してもいいんだよ」


 蘇芳の言葉に奏斗は顔をしかめた。

「力を貸すって……精霊に力を与えたのは蘇芳さんですか?」

「本当にあんたは余計なことしかしないわ」

「本当に余計なことだったかい? 私が力を貸さなければ、お菊を奪おうとする精霊とそれを阻止しようとするお月の戦いは終わらなかった。精霊はいつまでも来ない花嫁を求め続け、お月の魂は憎き精霊を求めて肉体を抜け出す。そして魂が抜けて衰弱していく月美に菊江の心配は尽きない。君がいくら自分を犠牲にしても何も解決しないんだよ。物事を解決できるのは傷つくのを恐れずに立ち向かった者だけさ。だから逃げてばかりの君の問題はいつまでも解決しないんだよ」

「分かったようなことを言わないで」

 アヤメはグルグルと唸り声を上げる。美しい毛並みはお月を守って攻撃を受けていたせいで乱れていた。いつもならすぐに人間の姿になるのにまだ狐姿のままの彼女は人間に変化するだけの力が残っていないようだった。


「アヤメさん、無理をしないで。だいぶ弱っているみたいだ」

アヤメの身体は奏斗が支えていないと今にも崩れてしまいそうだった。蘇芳はふたりを見て笑う。

「ああ、だいぶ弱っているよ。今すぐに助けが必要なほどにね」

「そんな! アヤメさんを助けるにはどうすればいいんですか? 僕にできることは?」

 アヤメは力なく首を横に振った。

「僕は無力だ。アヤメさんに何もしてあげられないなんて」

「そう君は彼女を苦しめるだけだ。しかし安心したまえ。私が姫のために助けを呼んでおいたよ」

「蘇芳……余計なことをしないで!」

 蘇芳はニヤリと笑った。

「もう遅いね、ほらやってきた」


 ぴょこぴょこと現れたのは雪崩から奏斗と舞を救ったノウサギだった。

「あの時のウサギさん?」

 ノウサギはピクピクと鼻を動かし奏斗のことを確認すると耳をぴんと伸ばし警戒心を露わにした。

「せっかく助けてあげたのに。あなたはやっぱりただの人間だった。人間は何もかも奪う。精霊様の花嫁様も奪いにきた。精霊様を苦しめる人間は許さない」

 ノウサギは怒りに満ち、奏斗を睨み上げる。

「ウサギさん、誤解だよ!」

「信じない。人間は信じられない」

 そして奏斗から離れると地面に足を打ち付けだした。

「ここのノウサギたちは雪の精霊の使いなのさ。彼らは精霊を妄信し、雪を穢す人間を毛嫌いしている。だから君たちが精霊の世界に行っている間に、人間が精霊を脅かしにきたと教えてあげたのさ」

 そう言って奏斗を指差した。

「蘇芳さん、何でそんなことを?」

「雨降って地固まると言うだろう? 今、姫に必要なのは心をかき乱すような嵐さ」



 ダンダンという足音は増えて重なりどんどんと大きくなっていく。山の頂上を見上げると鳥居の前にはおびただしい数のノウサギがいっせいに足を打ち付けていた。そしてその衝撃で積もった雪の塊がくずれ、地面の雪を巻き込みながら大きな波になっていく。ウサギたちが足を踏み鳴らすたびに雪はどんどんと崩れていき奏斗たちめがけて流れ込んでくる。蘇芳は菊江を抱えてひょいと空へ飛び立つ。


「雪崩だ……」

「そう雪崩をおこせるのは精霊だけじゃない。村を襲った雪崩はすべてこのノウサギたちの仕業さ。ノウサギたちが起こす雪崩は容赦なく人を襲うよ」

「やめて! ウサギさん! 話をきいて」

 奏斗は弱っているアヤメを守るように立ちノウサギたちに訴えた。しかし奏斗の声は雪崩の音にかき消されてしまう。例え聞こえていたとしてもその巨大な雪の流れを止めるのは不可能だった。

 精霊の鈴がシャンシャンと鳴り、ノウサギたちの耳がいっせいに精霊の方へ向く。しかし雪崩の勢いは止まらない。


アヤメはふいに精霊を見た。雪の塊は精霊をすりぬけて轟音を立てながら近づいてくる。

 そしてとうとう大量の雪がふたりに襲いかかった。その瞬間、奏斗の身体は温かく柔らかな毛に優しく包み込まれていた。

「アヤメさん!」


 ゴオオという音が響き雪は木々をなぎ倒しながら落ちていく。ノウサギたちが足を踏み鳴らすのをやめると、やがてふたりがいた場所に静寂が訪れた。

 雪崩は木々ごと押し流し、倒れた白樺の枝が雪から飛び出ていた。蘇芳はその上に降り立つ。

「助けようと思えば助けられたのに、わざと助けなかったね」

 精霊の鈴が雪交じりの冷たい風に揺れる。

「我には分かるのだ。我と同じく人に恋をした哀しき狐の心が」

 雪景色に鈴の音だけが寂しく響きわたっていた。



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