7 雪の雄鹿
外は中から見ている以上にひどい吹雪だった。厚く着込んでいても突き刺すような冷たさが服の間から潜り込む。奏斗は老齢の菊江を案じていたが、吹雪の中立つ彼女は驚くほど凛としてた。その強い眼差しは真っ白で何も見えない頂上に向けられている。
「菊江、私が君を連れて行ってあげよう。少し怖いかもしれないからね、目を瞑っているといい」
蘇芳が菊江を抱きかかえると彼女は言われた通りに目をつむる。そして彼女を抱えたまま蘇芳が目で合図をすると奏斗の傍らには雪と同化してほとんど姿の見えない真っ白な狐が現れた。狐は奏斗に背を向けて伏せをする。
「乗ってもいいの?」
奏斗が聞くと狐はじとりと彼を見る。狐の代わりに答えたのは蘇芳だった。
「そんなことを聞く必要はない。君は姫君の背に乗る者だ。だからその者に君を拒む自由はないのさ。必要であれば百緑や鳩羽だって君を背に乗せなければならない。姫君の背に乗るということはそういうことなのさ」
奏斗は申し訳ない気持ちで狐にまたがると狐は吹雪の中を頂上まで駆け上がった。蘇芳もまた菊江を抱え、涼しい顔で前を進む。風は追い風となり蘇芳の背中を押していた。
(哀しい……恋しい……)
高い風の音は嘆き哀しむ女の声のように聞こえた。その声は何故か菊江の心を切ない罪悪感で満たした。彼女はその声が聞こえぬよう手でその耳を覆う。
「月美……月美……」
腕の中で耳をふさぎ、月美の名を呼び続ける菊江を見ると蘇芳は口の端をかすかに上げた。
「うっ」
狐は真っ白な猛吹雪の中、奏斗をドサッと投げだすとするすると逃げるように去っていく。
「待って!」
呼ぶ声もむなしく吹雪にかき消された。前を走っていた蘇芳の姿も見当たらない。奏斗は一人きりだった。立ち止まると身体はみるみる雪に包まれていく。ここがどこなのかもわからぬまま、雪に飲みこまれないよう1歩、また1歩と進む。すると奏斗を拒むように風が吹き付けた。凍った風が頬に当たれば刃で切られたような痛みが走った。それでも風に向かい歩くとぼんやりと見えたのは朱色の鳥居だった。雪は鳥居の中から吹き出していた。そして暗闇が渦巻くその中心にきらりと金色に光るものが見えた。
「アヤメさん!」
思い切って鳥居の中に飛び込むと中は風一つない静かな霧の世界だった。それは彼が雪崩に巻き込まれた時と同じだった。
「アヤメさん! どこにいるの?!」
奏斗の声は白い世界にこだまして消えて行く。
「菊江さん! 蘇芳さん!」
真っ白な世界の中、呼びかけても誰も答えない。まるでポツンと一人だけ別の世界に送り込まれてしまったようだった。
シャン シャン
鈴の音が響き、霧が流れ、目の前が開けていく。そこに佇むのは一人の花嫁だった。手に神楽鈴を持ち、憑りつかれているように無心で鈴を鳴らしている。
「アヤメさん!」
奏斗は急いで花嫁へと近づく、するとそれに気付いた花嫁が顔を上げた。それはアヤメではなかった。
「月美さん?」
名を呼ばれた花嫁は奏斗を睨む。花嫁の顔は月美のものではあったがどこかやつれ、老け込んでいた。そして虚ろな目には憎しみと哀しみが混ざり合っていた。
「そこをどけ。お前も私を邪魔するつもりか」
「邪魔? お前も? どういうことですか?」
わけが分からずにいると真っ白だった世界が暗くなり、彼らの上を大きな何かが覆った。それは津波のように大きく盛り上がった雪だった。そして次の瞬間、二人を飲み込もうと雪は勢いよく落ちてきた。
「危ない!」
思わず身を呈して花嫁の盾となり目をつぶる。しかし雪は彼らに落ちることはなく何かにぶつかって爆発したように激しく散った。奏斗が恐る恐る目を開けると目の前には大きな白狐の姿があった。
「アヤメさん!!」
二人を守ったのは狐姿のアヤメだった。6本の尾は氷つき、鋭い歯がのぞく口からは赤い舌が出て、ハァハァと荒く息を切らしている。アヤメは奏斗が見たことがないほどに衰弱し、疲弊していた。アヤメはふらふらとよろめきながら花嫁の前に立つ。その様子では彼女が花嫁を守っていたのが一度や二度ではなかった。奏斗はアヤメへと走り寄り、凍ったアヤメの身体をさする。すると普段はふわふわの毛は凍り付き、パリンパリンと音を立てた。
「アヤメさん、ごめんね! 僕がもっと早くに気付いていれば!」
「奏斗……」
身体をさするのに一生懸命になっていた奏斗は熱のこもる彼女の瞳に気付かなかった。
「やっと来たか」
落ち着いた低い男の声が響くと真っ白な靄が晴れ、大きな影が現れた。その先に立つのは雪の雄鹿だった。奏斗はその神々しさに言葉を失った。きめ細やかな雪でできた雄鹿は氷の瞳と角を持ち、悠然と奏斗たちを見下ろしていた。
「この化け物め!」
花嫁は雪の雄鹿を見るやいなや目を見開き、花嫁衣裳を引きずって走り出そうとした。しかし、アヤメは花嫁と雄鹿の間に立ち、花嫁の動きを阻止する。
「狐め! 邪魔をするな! 今度こそわしの命を持ってこやつを封印してやるのだ!」
「行かせないわ。あなたの魂はもう新しい人生を歩んでいるのよ」
花嫁は神楽鈴を振り上げアヤメの身体を打ち付けた。白い毛の間から血がにじむ。
「落ち着いて下さい!」
奏斗は鈴を持つ花嫁の腕を押さえた。すると奏斗の掴んだところから腕は溶け、鈴とともに落ちた。残っていた手はさらさらと粉雪になって風に舞い、神楽鈴だけが雪の上に転がっていた。奏斗の手には突き刺すような冷たさが残っていた。
「まさか雪でできているの?」
「そうよ。精霊も花嫁も雪でできているの。この花嫁は彼女の肉体から抜け出た魂の依り代にすぎない。もし依り代が崩れ去れば、依り代と一緒に魂も崩れるわ」
アヤメが反撃もせずにぼろぼろになるまで精霊の攻撃を受けていたのは雪の花嫁を壊さないためだった。痛々しく身体を傾ける狐姿のアヤメを奏斗は支えた。
花嫁は腕がなくなったことなど気にもせずに怒りに満ちた目で雄鹿を睨んでいる。
「月美さんはどうしちゃったの? まるで別人みたいだ」
「別人と言ってもいいのかもしれないわ。今目の前にいるのは前世の彼女だから」
「前世の?」
奏斗は雪の精霊の伝承を思い出した。精霊には結ばれることは叶わなかった花嫁がいた。
「じゃあ月美さんが精霊の花嫁?」
雪の雄鹿が目を光らせ、再び大きな雪の波を作り上げた。
「月美!!」
その時、菊江の声が響いた。アヤメは奏斗を背に乗せてその場を離れる。花嫁は逃げずにただ自分に襲い掛かる雪を見つめ固く口を結んでいた。
「アヤメさん! 月美さんが!」
アヤメの首にしがみつきながら奏斗が言うとアヤメは金色の目で優しく奏斗を見つめた。
「大丈夫。あなたは菊江さんを連れてきてくれた。ここからは菊江さんが彼女を守るわ」
するとアヤメの言った通り、菊江が雪の波と花嫁の間に飛び込んできた。
「月美!」
雪の波が花嫁を飲み込もうとするのを菊江は花嫁に抱きつくように身体を張ってかばう。その瞬間、雪の波は時が止まったように固った。菊江は耳鳴りがするような静けさに閉じていた目を開けた。
花嫁は情愛に満ちた瞳で菊江を見つめていた。
「お菊……」
菊江は花嫁の顔を見ると激しく動揺した。
「お菊? あんたは月美じゃない……似ているけどちがう。月美はどこにいったんだい!?」
「母が分からないのかい? お菊」
その切なげな瞳に菊江の心は張り裂けるように痛み、菊江は耐えきれずうずくまる。花嫁は幼子をあやすように残された腕で菊江の曲がった背中をさする。
「大丈夫だよ、お菊。私があんたを守ってやるからね」
花嫁の声は菊江を混乱させ、息もできないほどに胸がしめつけられた。
雄鹿は固まった雪の波の上から二人を見下ろしていた。
「守る? 我は彼女を傷つけない。彼女を苦しめているのはお前だ」
「化け物がわかったようなことを。お前がいなければ家族で幸せに暮らしていたんだ」
花嫁が片手を上げると手は赤く光る粉雪となり雄鹿にまとわりついていく。花嫁の身体から離れた赤い粉雪は火の粉となって雄鹿を溶かしていた。
「幸せかどうかは彼女が決めることだ」
雄鹿は足を振り上げて花嫁の元へと飛び降りた。火の粉は雄鹿の身体を溶かす代わりにとジュッという音を立てて光を失った。花嫁の身体は削れ、雄鹿の身体は溶けていく。
「このままだと相討ちになるわ。菊江さん思い出して! 本当のあなたを!」
うずくまったままの菊江を見てアヤメの顔にも焦りが浮かんでいた。雄鹿の前足は花嫁の身体を崩し去ろうと蹄を向け、花嫁は雄鹿を溶かしてやろうとその身を赤く光らせた。
「いけない!」
雄鹿と花嫁に向かってアヤメの身体が動く。しかし、奏斗は彼女を支えていた腕に力を込めてそれを止めた。アヤメは驚き奏斗を見る。
「奏斗?!」
シャリ―ーン
次の瞬間、雄鹿の氷でできた固い蹄は花嫁ではなく落ちていた神楽鈴を踏みつけた。鈴はバラバラになり砕け散る。鈴は全部で15個あった。その鈴のひとつひとつが解き放たれたように透明な子兎となって、うずくまっている菊江のまわりを跳ねまわる。菊江は俯いていた顔を微かに上げた。
「……兎?」
透明な子兎は七色にほんのりと光り、白い世界を鮮やかに照らす。それはどこか懐かしく温かな光だった。菊江が手を伸ばし兎に触れると15匹の子兎は光輝く一反の布となって菊江の身体にまとわりついた。布がその身体を全て覆うと中から出てきたのは巫女姿の若い女だった。淡く色づく薄布は風に揺らぎながら彼女のそばを離れない。その姿は羽衣を纏う美しい仙女そのものだった。女は立ち上がりその顔を上げた。
「あれは羽衣? 菊江さんは仙女だったの?」
奏斗が聞くとアヤメは頷く。
「正確に言えば菊江は仙女になるために生まれた人間だったのよ。でも彼女は前世で仙女になるための羽衣を失ったの」
仙女の羽衣は風に揺れる度にシャランと心地よい鈴の音を響かせた。花嫁は目を見開き仙女を食い入るように見つめる。そして目が合うと大きな声で叫んだ。
「お菊!!」
「お母ちゃん……」
仙女の瞳から涙が一筋こぼれて落ちた。あふれ出る涙は雪の結晶となり、花嫁の怒りを沈めるように静かに火の粉を消していった。しかし、すでに花嫁の身体は半分になり、足のなくなった身体では動くこともできなかった。雪の雄鹿も立派な角は溶け、身体も崩れかけていた。それでも3本になった足でゆっくりと菊江へと近づく。雄鹿は涙を流す菊江の顔を覗き込んだ。それまで冷たく厳しかった雄鹿の氷の瞳に温かさが宿る。
「ずっと待っていたぞ。我の花嫁よ」
「あなた様……」
そう答えた声は哀しみに震えていた。
お読み頂きありがとうございます。次話は雪の精霊とお菊のお話です。8だけで短編のような回になります。更新が遅れていますが今後ともお付き合い頂けると幸いです。