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狐姫 ~生きとし生けるモノガタリ~  作者: 鴨カモメ
第伍話 キツネ姫と雪の雄鹿
52/84

5 触れられない気持ち

 ふうっと小さな息が洩れる。拳にした手はドアをノックする寸前で止まっていた。



 さっきまで奏斗はアヤメと食堂で過ごしていた。舞は食事を終えると席を立ち、片づけを終えた菊江も自分の部屋へと戻った。そしてとりとめのない話をしているうちに蘇芳は姿を消していた。

「蘇芳さんどこ行ったのかな」

「さぁ」

 奏斗の隣に座っていたアヤメは興味がなさそうに返事をした。気づけば食堂にいるのはふたりだけだった。アヤメの背に乗りここまでやってきたことが遠い過去のように思える。実際には数時間のその間に奏斗は彼女を失う恐怖を味わった。奏斗はアヤメに身体を向けて膝に置いた手に力を込めた。


「アヤメさん、さっきの花嫁の話だけど僕気になることがあるんだ」

「わかっているわ、奏斗。あの雪崩は自然に起きたものじゃない。きっとあなたたちが見た花嫁とも関係があるんだわ。でもこの件については私に任せて。解決したらまたあなたたちには仕事に戻ってもらうつもりよ。あなたはこれ以上首を突っ込まないで」

 厳しく言われても奏斗は身体を前へと乗り出し、アヤメに訴えかけた。

「でも聞いて欲しいんだ。僕たちの目の前で黒い靄の化け物が花嫁を雪崩で押し流した。僕は花嫁が流されるその瞬間、その顔をしっかりと見たんだよ。あの花嫁はアヤメさんにそっくりだった」

 アヤメの肩がぴくりと震える。その一瞬、動揺したようにも見えたが、彼女は落ち着いた口調で答えた。


「私は雪に流されてなんかいない。あなたの見間違いよ」

「見間違いなんかじゃない。アヤメさんじゃなかったら怖くてきっと動けなかった。僕はアヤメさんだから飛び込んだんだ」

 奏斗の声は力強く食堂に響いていく。アヤメは潤む目で奏斗を見上げた。

「人間の身体は脆い。あなたはもっと自分の身体を大切にするべきよ。あなたの命はあなただけのものじゃない。もしあなたの身に何かあったら――」

 アヤメはそこまで言うと言葉を飲み込んだ。

「もし僕の身に何かあったら?」

「もしあなたの身に何かあったら……舞や両親が哀しむわ。愛する人が突然いなくなるのは、人生を狂わせるほどの哀しみなのよ」


 アヤメは逃げるように奏斗から視線を外し、細い指で艶やかな髪を耳にかけた。横顔の瞳が光ると奏斗は思わずアヤメの頬を指で撫でた。温かいアヤメの頬が紅色に染まっていく。奏斗は自分がしていることにはっとして慌てて手を引いた。

「ごめん、アヤメさん。泣いているみたいに見えたから」

 しかし、そこに涙はない。

「泣いているのは私じゃなくて舞よ」

 アヤメは咎めるように奏斗を軽く睨む。

「奏斗が舞を守らなきゃいけないのよ。彼女、あなたが見つかるまでの間、ずっと不安で心細かったと思うわ」

「うん。ちゃんと謝るよ」

「今すぐに舞のそばへ行ってあげて。きっとあなたを待ってるわ」

 奏斗が頷くとアヤメはほっとして微笑む。

「また明日ね、奏斗」

 そうして奏斗は食堂を後にした。見送るアヤメが少し寂しそうに見えて舞の部屋の前へきても扉を叩けずにいた。


「アヤメさん大丈夫かな……」

 奏斗がそばにいたいのはアヤメだが、彼女がそれを望んではいない。そして舞の元へ行くのはアヤメとの約束だ。

コンコン

ノックをすると、間もなくして木の扉がゆっくりと開く。

「来てくれると思ってた」

 舞は涙を流しながら奏斗の胸に飛び込んだ。



 奏斗と別れたアヤメはひとりロビーへとやってきていた。彼女は壁に貼られた地図を見ながらじっと立っていた。

「それはこのあたりの古地図なんですよ」

 アヤメの後ろから声をかけたのは月美だった。地図はほとんどが山で村の名前は数えるくらいしかない。

「今はたくさんスキー場ができたのね」

「そうですね。スキー場を作るのに雪の精霊の怒りに触れるだとかで村人たちは猛反対したみたいですけど。でも小さな頃から住んでいた私は開拓されて良かったと思っているんですよ。他から人が流れ込んでくれば雪の精霊なんて古臭い伝承も消えて行きますから」

「菊江さんの言う通りあなたはよほど精霊の伝承が嫌いみたいね」

  月美は顔を曇らせた。


「おばあちゃんは雪の精霊に夢を見ているんです。雪はきれいなだけじゃない。簡単に人の命を奪います」

  月美はアヤメをまっすぐに見つめる。

「自然保護の方にこんなこと言っていいのかわかりませんが、私は人間が自然を守るべき立場ではないと思っています。人がいなくなればすぐに人が作ったものは飲み込まれてしまう。このスキー場だってそうです。スキー場として整備しなければ積もった雪は雪崩となり人を襲う。春になればまた植物は生え、動物が暮らしだすでしょう。いつの時代も人間は自然と戦っているんです」

 アヤメは月美の言葉を一語一句しっかりと聞いていた。何も言わないアヤメに月美は勢いで話したことを後悔した。

「すみません」

「いいえ、大丈夫よ。あなたの気持ちも分かるから」

 そう微笑むアヤメを見ているとこちらの心も穏やかになっていくような不思議な心地がした。


 ビュービューという風切音が外から聞こえ、アヤメは白く曇った窓を睨みつけた。月美も窓へと近づき、結露を手で拭うと外をのぞき込む。見えるのは闇の中を斜めに吹き付ける真っ白な雪だけだった。

「吹雪いてきましたね」

「そうね、だいぶ荒れているみたい」

「ここは標高が高いので大気が不安定なんですよ」

  窓を眺めている月美の向こうでぼんやりと怪しい光が浮かぶ。しかし月美は全く気付いていなかった。アヤメは瞳孔を細め吹き付ける雪の間を凝視すると頂上の鳥居の前には狐姿の蘇芳がいた。


「こんな天気だと明日の調査はやめた方がいいかもしれないですよ」

 月美はアヤメの方に向きなおったが、その奥では蘇芳はがにやりと笑い、鳥居をくぐっていく。

「残念だけど、そうも言ってられないみたいね」

「え?」

 ひとりごとのように小さな声で言ったアヤメの言葉を月美は聞き返す。しかし、すぐにロビーに佇む男に気付くと驚いて大きく目を見開いた。

「オーナー、いらしてたんですか? 全然気が付かなかった」

 橡尾はにこにこと笑みを浮かべ壁にもたれながら腕を組んでいる。

「つい先ほどからね。月美くんの体調が心配で様子を見に来たんだ」

「今はだいぶ楽です」

「それはよかった。でもいつまた悪くなるとも分からない。菊江君ももう休んでいるし、そろそろ部屋に戻ったらどうだい?」

 時刻を見るともう10時を過ぎていた。

「そうですね、じゃあ……」

「お疲れ様」

 月美の肩を橡尾はポンと叩く。月美はアヤメに一瞥するとロビーを後にした。


 月美の背中が見えなくなると橡尾の目からすっと笑みが消え窓を見つめる。先ほど月美が拭った窓はもう白くなりはじめていた。

「お連れ様が勝手なことをされているようですね。困りますよ、ちゃんと見張って頂かないと」

「それができるのなら止めているわよ。あいつは余計なことしかしないもの」

「一尾と九尾は誰にも止められない。困ったものです」 


  橡尾は一歩、また一歩と彼女との距離を詰めていく。アヤメはそれ以上近づくなと鋭い眼光で橡尾を睨む。

「あいつを止めなかった理由は他にもあるわ。もうひとり余計なことしかしない奴を私は見張っていたのよ」

「そんなに怖い顔をしないでくださいよ。美人が台無しですよ」

「あんた奏斗を惑わしたわね、あんたのせいで奏斗は危険にさらされたのよ」

「ふふ、ちょっとからかっただけですよ。まさか雪崩に飛び込むなんて思いませんでしたが。でも面白いですよね。前世の記憶などないくせに彼の心にあるのは花嫁姿のあなただった。では、あなたの心が求めているのは今の彼か、昔の彼か、私に見せてくださいよ」

  橡尾はアヤメの頬へと手を伸ばす。するとそれを拒むようにアヤメの身体を瘴気が覆い、橡尾は手を引いた。

「怖いんですか?」

「怖くなんてないわ。あんたが作り出すのは所詮偽物よ」

「ふふ、偽物ですか。ではもしその偽物に本物の魂が宿ったら、それも偽物なんですかね?」

 そう言うと橡尾は先ほど月美の肩を撫でた手を見つめ、ドアへとかざした。ドアはバタンと勢いよく開きロビーへと雪が舞い込む。橡尾が手を動かすと積もったばかりの雪が集まり、次第に形になっていく。それは立派な角を持つ大きな雄鹿の姿となった。指をはじくと雄鹿は吹雪をもろともせずに鳥居のある頂上へと走り去る。

「あんた何をするつもりなのよ」

「姫がさっき言っていたじゃないですか。『余計なこと』ですよ」

  橡尾は笑いながらそう答えた。

 


 オレンジ色のランプの光が小さな部屋を柔らかに照らす。丸みを帯びた小さな手が奏斗の手を握りしめていた。奏斗が常に想う彼女の手とはまるでちがう。奏斗はそんなことを思いながら触れ合う二つの手をぼんやりと見つめていた。


 舞は奏斗を部屋に入れ、ベッドへと腰かけた。こすれて赤くなった目に奏斗は罪悪感を感じた。

「心配かけてごめんね、舞ちゃん」

 舞の瞳は潤み、涙がひとつふたつと零れ落ちる。

「そう思うのなら私のそばから離れないって約束して、奏斗君」

 そうして舞は奏斗の手を握った。それからどれだけの間、こうしているのか、二人の手の間は汗でしっとりと湿っていた。


 奏斗の肩に彼女は頭をつけてぴたりと寄り添う。

「私はこれから先もこうやって奏斗君が生きているって感じたい。奏斗君の温かさを感じると安心するの」

「僕も舞ちゃんの気持ちがわかるよ」

 そう言った表情は切なさで満ちていた。知りたくもないのに彼が誰を想っているのか舞には分かってしまう。彼女はつないでいる手に力を込めた。

「ううん、ちがう。奏斗君は分かっている気になっているだけだよ」

「え?」

 奏斗は驚きながら舞のことを見た。舞は泣くことも忘れ必死な顔をしていた。


「妖狐は不死身で薄情なんだよ。アヤメちゃんだって同じ。奏斗君は騙されているんだよ」

「舞ちゃん、何でそんなひどいこと――」

 ショックを受けている奏斗の声を舞は遮った。

「今日、奏斗君を助けてって言った時、私と違ってアヤメちゃんはすごく冷静だった。奏斗君の命が危ないのに涙のひとつもこぼさなかったんだよ。奏斗君のことが本当に大事だったらもっと取り乱すはずだよ。アヤメちゃんにとって私たちが生きる時間は一瞬の出来事。だから今死のうが何十年後に死のうが同じなんだよ」

 訴えかける彼女をなだめるように奏斗はゆっくりと話し出した。

「それはちがうよ……舞ちゃん。不老不死で長く生きているからこそアヤメさんは全部知っているんだ。儚い命の尊さも、それを失う哀しみも。取り乱しても何もできないからアヤメさんはいつも冷静であろうとする。僕はアヤメさんが人間よりも人間の気持ちを理解していると思う」

 舞は辛そうに顔を背けた。

「舞ちゃんのところに行くように言ったのはアヤメさんなんだよ。僕は自分のことばかりで舞ちゃんが僕のことで苦しんでいるって知らなかった。アヤメさんは舞ちゃんの気持ちを僕よりもずっと分かっているんだよ」


 熱を帯びた瞳でアヤメのことを語る彼に舞は鼻で笑った。

「アヤメちゃんに私の気持ちが分かっている? そんなわけないじゃない。じゃあアヤメちゃんも苦しんで隠れて泣いてたっていうの? あのアヤメちゃんが?」

 握られていた手の力がゆるみ、二人の手が離れた。

「舞ちゃん?」

「奏斗君がそこまで言うのなら確かめてきてよ」

「舞ちゃん……アヤメさんのところに行ってもいいの?」

「行けばいいじゃない。私は妖狐にそんな情があるなんて信じない」

 舞は俯き唇を噛みしめた。

「ありがとう、舞ちゃん」

 奏斗は急いで舞の部屋を出て行った。舞はまだ奏斗の温もりが残る自分の手を見つめる。

「奏斗君のバカ。手なんて繋がなければよかった」

 最後まで握り返されることのなかった手で舞は頬に落ちる涙を拭った。



******

 温かい室内にいても吹雪の夜は落ち着かない。それは小さな頃から変わらなかった。寝返りを打つと隣のベッドでは菊江が静かな寝息を立てている。月美は菊江を起こさないように隣のベッドへと入った。

 その穏やかな寝顔をのぞき込み、皺だらけの顔に触れる。すると月美の心にとめどない愛情が湧き上がり、ざわざわとした心の中は穏やかになっていく。

 顔を上げると窓はカタカタと小刻みに揺れ、強い雪はまるで部屋の中へと入りこもうとしているかのように激しくガラスを打ち付けていた。

「雪の精霊なんて大嫌い」

 月美は厳しい顔で雪を睨みつけると菊江の横で自身も眠りについたのだった。



※9/29手直ししました。


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