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狐姫 ~生きとし生けるモノガタリ~  作者: 鴨カモメ
第伍話 キツネ姫と雪の雄鹿
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4 精霊の伝承

「目を覚ませ」

 心臓に響くような低い声に奏斗は目を開けた。目の前はまぶしいほどに真っ白な世界で何も見えない。しかしその声は奏斗のすぐそばで聞こえていた。

「アヤメさん、アヤメさん!! 返事をして! アヤメさん!!」

 奏斗は前も後ろも分からないままアヤメの姿を探した。すると細かな雪の粒が奏斗の耳元に吹き付け先ほどと同じ声が聞こえた。

「惑わされるな。あれはお前の花嫁ではない」

 奏斗は拳を握りしめ、雪がついて見にくくなった眼鏡を投げ捨てた。


「嘘だ! あれは僕の——」

 言いかけると突如として激しい雪のつぶてが奏斗の身体を打ち付ける。奏斗はその強さに思わず腕で顔を覆った。奏斗が覆いを取った時、それはまるで台風の目の中にいるように穏やかで、そこだけがぽっかりと空間が開けていた。

「我が見えるか」

 奏斗は目を見開き目の前に立つ巨大な黒い靄の化け物に言葉を失った。それは奏斗が山の頂上で見た化け物と同じだ。4つ足でありながら頭も尾もなく、ただただ巨大で煙のようにゆらゆらと揺らめいている。

「化け物だ」

「我は化け物に見えるか。では彼女にも今は化け物として映るのだろうな」

 悲しみを帯びた声は靄全体から響いていく。山に吹く冷たい風とともに化け物も次第にうすれ消えて行った。

「ちょっと待って!」

 そのあまりに切ない声色に奏斗は手を伸ばし呼び止めたが、その手を掴んだのは白い手だった。


「奏斗!」

 それは必死な顔で彼の名を呼ぶアヤメだった。

「アヤメさん」

「バカ奏斗! 何で雪崩の中に飛び込むなんて無茶なことをしたのよ!」

 アヤメの瞳は奏斗を責め怒っていた。奏斗は目の前にアヤメがいる、それだけで嬉しくて彼女を抱きしめる。

「よかった。アヤメさんが無事で。本当によかった」

「何を言っているのよ。それはこっちの台詞よ」

 アヤメは彼の腕に身を委ねて、声を震わせた。


 舞い上がっていた雪が落ち着いていき、真っ白な世界が次第に陰影をつけて浮かび上がっていく。かすかに白樺の林が見えてくるとアヤメは奏斗の腕を離れようとした。しかし奏斗はアヤメを離そうとはしない。

「アヤメさんを離したくない」

「奏斗、舞が見たら哀しむわ。彼女、あなたを助けるために泣き叫んで私を呼んだのよ」

「舞ちゃんが?」

 幼い時から何故かアヤメをライバル視している彼女が助けを求めるなど奏斗は信じがたかった。アヤメは力が緩んだ腕からそっと抜け出し微笑む。


「それだけ舞はあなたのことが好きなのよ」

 すっかりと視界が開けるとアヤメの肩越しに舞の姿が見えた。舞は雪に足を取られながら走り寄り奏斗に抱きつく。

「奏斗君! 無事で良かった……」

「ごめんね、舞ちゃん」

 腰が抜けた舞を支えると二人は抱き合うような恰好になった。アヤメは目を逸らすと、雪崩の惨状を見る。くっきりと残る獣の足跡が山頂へと続いていた。

「これは……」

 アヤメと目が合うと様子を見守っていたノウサギは足跡を追うようにぴょこぴょこと走り去って行った。


 ロッジに戻るとそこには蘇芳の姿があった。

「蘇芳様、帰られたんじゃなかったのですか?」

 舞が聞くと蘇芳は微笑みを浮かべる。そして泣きじゃくったせいで赤くなった舞の頬を優しくなでた。

「かわいそうに、よほど怖い思いをしたんだね。実はちょっと事情が変わってね。君たちの任務に水を差す輩がいるようだ。だから君たちと一緒に行動することにしたんだよ」

 アヤメは白々しい蘇芳の言葉に冷たい目を向けたが、奏斗はほっと胸を撫で下ろしていた。


「よかった。僕たちだけではどうにもできないと思っていたんです」

「誤解してもらっては困るよ。これはあくまで君たちの任務なんだからね」

 奏斗は「はい」と頷く。それでもアヤメが傍にいてくれる。それだけで嬉しかった。


「それで、頂上で起きたことなんですが――」

 話し始めようとする奏斗を蘇芳は手で止めた。

「君、舞を見てごらん。ひどく疲れているよ。それは一体誰のせいなんだろうね。話は少し休んでからだよ」

 確かに舞は疲弊しきっていた。アヤメは奏斗の背中をぽんと叩く。

「あなたも疲れたでしょ。少し休んで」

 しかし不思議なことに奏斗は全く疲れを感じていなかった。元々運動音痴で体力がない彼のことだ。奏斗は自分でも驚いていたが、不可思議な体験に興奮しているだけなのかもしれないと部屋へと帰った。


 蘇芳は奏斗の背中を見送ると横目でアヤメに視線をやる。

「あんなものに会えば普通の人間ならばひとたまりもない。それなのに彼はずいぶん元気じゃないか。姫君、この彼の変化は九重会にとって大問題になるかもしれないね」

 アヤメがゲレンデを見上げる。朱色の鳥居の傍らには4つ足の化け物が寂し気にロッジを見下ろしていた。彼女が睨みつけると化け物は靄のようにゆらゆらと消えてなくなる。

「問題なんてないわ。優しすぎる奏斗には必要な強さよ」

「君は過保護だねぇ」

 呆れながらも蘇芳は愉快そうに笑っていた。



 夕食の時間になると20人ほどが座れる食堂に奏斗たち4人が席についた。

 給仕は月美と菊江だけで奏斗とアヤメも夕食を運ぶのを手伝った。

「本当に2名様分でよろしいのですか?」

 月美は不思議そうにしながら蘇芳とアヤメの席に茶を運ぶ。

「いいのよ。それよりまたあなた顔色が悪いわ。休んでいた方がいいんじゃない?」

 身体を気遣うアヤメに月美は微笑む。

「いいえ、仕事ができなければ帰らなきゃいけませんから。私は帰りたくないんです」

「どこまでも頑固な子だよ」

 菊江はため息まじりによっこいしょと近くの席へ腰かけた。

「おばあちゃん、お客様の前なんだから休むなら裏で休んでよ」

 奏斗は祖母に厳しい月美に内心焦りながら、愛想笑いを浮かべる。

「あの、僕たちなら全然かまわないですよ。ね、舞ちゃん」

「うん」

 舞は元気なく答えた。すると蘇芳が菊江に声をかけた。


「そうだ、菊江、あの話をしてくれよ」

 いつの間にか蘇芳と菊江は話をしていたのか、蘇芳はなれなれしくその名を呼んだ。月美は怪訝な顔をして蘇芳を見る。しかし蘇芳は月美に近づき優しい笑みを向けた。

「君も小さな頃から好きだった話だと聞いているよ」

 気付けば蘇芳に手を取られ月美も食卓の輪に入っていた。

「あの話って何ですか?」

 奏斗が聞くと月美はひとつ重い息を吐いた。

「どうせ精霊の言い伝えでしょう? 蘇芳さん誤解ですよ。私は別にあの話が好きで聞いていたわけじゃないですから」

 月美の言葉に菊江の目が一瞬、寂し気に潤む。

「大人になって聞くとまた一味ちがうものさ。さぁ、菊江話してくれ」

 菊江は蘇芳に言われた通り静かに語り出した。


「この山はね、昔からそれはそれは大雪の降る山だった。今でもたくさん降っているがね、昔はすべてを雪が飲み込むのではないかと恐れを抱くくらいもっとたくさんの雪が降っていたそうな。そしていつしか村人たちは雪を降らせるのは雪の精霊のせいではないかと考えるようになった。

大雪が降れば大きな雪崩が起きる。雪崩は村の場所を変えてもまるで狙っているかのように村を襲った。精霊は村人から畏れられ厄介者になった。しかし、精霊に悪気はなかった。精霊はただ侘しい山にひとりきりでいることが寂しくて村を羨ましく眺めていただけだった。すると精霊の心に反応して惹きつけられるように大雪は村へと流れる。社の一つでも立てて精霊を大事にすれば変わったかもしれない。でも毎年降る大雪のせいで貧しい村人たちは社など立てる余裕などなかった。

毎年雪は激しさを増す。雪嵐はまるで『寂しい……寂しい……』と嘆いているように悲痛な音に聞こえた。そしていつしか村人たちは雪の精霊が求めているものを感じ取るようになっていた。

そんなある年、村に一人の女の子が生まれた。女の子の両親は子どもに恵まれなくてね、やっと生まれたその子は少し変わっていた。女の子は皆が忌み嫌う山の精霊が大好きだった。そして年頃になるとおかしなことを言い始めたそうな。

『私は雪の精霊様の嫁になる』

 それに喜んだのは村人だった。自ら精霊の元に嫁ぎたいと言い出すなど村を救うために生まれてきたのだと村人たちは信じて疑わなかった。人柱がたてば雪崩も起きなくなるだろう。ただ女の子の母親はかわいい娘が人柱になるなど受け入れることはできなかった。夫は子どもが生まれてすぐに亡くなっていた。母親にとって女の子は命にも代えがたい存在だった。だから母親はこっそり女の子を遠くに嫁にやってしまったのさ」

 菊江はそこまで話すとひとつ息をついた。

「それで雪崩は止まらなかったんですね?」

 身を乗り出して話を聞いていた奏斗は次の言葉を待ちきれずに聞く。菊江は静かに首を横に振った。


「いや、止まったよ。女の子の母親が代わりに人柱になったんだ。それ以来ぱったりと雪崩はおきなくなったというがね。でも山を削ったことを精霊様は怒っているんだろうね。スキー場ができてからは毎日のように小さな雪崩がおきるようになった」

「そうですか。スキー場で雪崩が起きたら大事故になりますもんね」

 すると菊江の顔は曇った。何か話そうと口を開いた菊江を遮るように月美が割り込む。

「スキー場は再開しますよ。今は雪崩への対策を協議しているところなんです」

「そんなものは無駄だよ。花嫁の亡霊が精霊に出会わない限り雪崩は止まないさ」

「おばあちゃん!」

 ガタンと音を立てて月美が立ち上がる。その激しい音に皆の視線が集まり月美ははっとして目を泳がせた。奏斗も食い入るように月美を見上げる。

「花嫁の亡霊って?」

「そんなものいませんよ。樹氷を見間違えたお客様が騒いだだけです。それに雪崩が起きるのは精霊のせいではありません。木を切ったことで雪を抑えるものがなくなり、ちょっとの衝撃で雪が滑ってしまうのだとオーナーが言っていました。お客様を入れないのはお客様を危険にさらさないため。ただそれだけですから」

 月美の青白い顔はさらに青ざめているようだった。また倒れはしないかと奏斗は内心ハラハラとした。しかし彼女の瞳には何かに抗おうとする強さが感じられた。


「月美、お前そんなことを言って――」

「私この言い伝えが大嫌いよ。寂しいなんてくだらない理由で雪崩を起こしたり、人柱を立てたり……。振り回される人間の身にもなってほしいとずっと思っていたのよ」

 それを聞いた菊江は寂しそうに目を瞑る。月美はそんな祖母の姿を見ないように顔を背けた。そして一呼吸置くとテーブルへと顔を向けた。


「このようなお願いは大変失礼だと分かっているのですが……。皆さんのお仕事が終わって山を降りる時、山の麓まで祖母も連れて行ってはくれませんか?」

 その提案に奏斗と舞は驚いたが蘇芳は笑顔を浮かべていた。

「それはかまわないよ。菊江、私の車に乗るといい」

「いいえ、蘇芳さん、そんなのはいけませんよ。これ、月美、なんてこと言うんだい。それにここはどうするんだよ。オーナーと二人で切り盛りできるのかい?」

 菊江は月美を諭したが彼女は本気だった。

「オーナーにも話はつけてあるわ。正直、おばあちゃんといると心が休まらないのよ。こんなところまでついて来て私はもう子供じゃない。だから放っておいてほしいのよ」

 食堂に気まずい空気が流れる。その空気を変えようと口を開いたのはアヤメだった。


「ひとまず夕飯を食べましょう。せっかくの温かいご飯が冷めてしまうわ」

「そうだね! 頂きます!」

 奏斗も気を遣いながら菊江の作った夕飯を食べる。アヤメは味噌汁をよそうと月美の前へと置いた。

「あ、私はご一緒には――」

「いいじゃない。客って言っても私達しかいないんだから」

 アヤメに促され味噌汁に口をつけると優しい味が口いっぱいに広がった。

「私にはあなたの気持ちが分かるわ。でも菊江さんの気持ちも分かる。大切な相手がいると心配は尽きないものなのよ」

「……分かっています」

 月美は菊江をちらりと見ると俯いた。菊江は何も言わず黙って座っていた。そのしわくちゃの顔からは感情は読み取れない。蘇芳は笑顔を浮かべ、月美と菊江の気まずい空気を楽しんでいるようだった。


「そういえば君たち山の上でどんな生き物に出会えたのかい?」

 九重会の事情など知らない二人の前で蘇芳はわざとらしく聞く。するとアヤメは冷たい目で睨んだがもちろん彼がそんなことを気にするわけもない。舞は持っていた椀を置き、小さな声で答えた。

「ノウサギと……あと足跡がありました」

 それに食いついたのは月美だった。

「足跡?」

「はい。大きな足跡。鹿かカモシカか……とても大きかったので鹿かもしれません」

「そんな大きな鹿なんて聞いたことも見たこともないですよ」

 月美が言うと蘇芳は怪しげに笑う。

「もしかしたら白い鹿なのかもしれない。雪のように真っ白な鹿なら雪の中では目立たないからね」

「雪のように真っ白な鹿……」

 彼女は眉間に皺をよせ蘇芳の言葉をそのまま繰り返した。

「真っ白な鹿は神の使いとも言われているね。もしかしたらその鹿が雪の精霊なのかもしれないよ」

 その口調は冗談めいていたが、目は笑っていなかった。


「蘇芳、軽率なことを言うべきじゃないわ。月美さん、気にしないでね」

 アヤメは月美に微笑みかける。

「やっぱり私、まだ仕事があるので戻りますね」

 月美は作り笑いを返すと立ち上がり、その場を後にした。


 月美がいなくなるのを見計らって奏斗は菊江に声をかけた。

「菊江さん、さっき言っていた花嫁って……」

 奏斗はどうしても自分が見た花嫁姿のアヤメのことが気にかかっていた。

「ああ、たくさんのスキー客が見たんだよ。白無垢を着た花嫁の姿をね。スキー場が営業していた間、女が雪崩に飲み込まれたってここに飛び込んできた客が後を絶たなかった。でもいくら探しても女は出てきやしない。でも考えてみれば客が言うような女なんているはずないんだよ」

 二人はただ黙々と山を登る花嫁のことを思い出し顔を見合わせた。

「僕も見たんです」

菊江は目を見開く。


「そうか……お前さんも見たのかい」

「はい」

「あれは亡霊だ。雪の精霊に嫁ぐはずだった娘の亡霊が今も雪山をさまよっているんだよ」

 菊江はそう言うと目の前で手を組み拝み始めた。

 奏斗はアヤメのことを見つめた。耳にシャンシャンという鈴の音が響く。雪に飲みこまれた彼女を亡霊と呼ぶにはあまりにも美しく、その姿は彼の心に焼き付いて離れなかった。

挿絵(By みてみん)



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