3 雪原の花嫁
二人がそれぞれ支度を終えてロビーに戻るとロビーのベンチに腰の曲がった老婆の姿があった。ベンチは元々スキー客用のものなのだろう、スキー板に囲まれた中にちょこんと老婆が座っているのは不思議な光景だった。
「あなたがたが自然保護団体とかなんとかの方かね?」
老婆は皺の中から緑がかった瞳をのぞかせて二人を見る。
「はい、自然保護団体九重会の橘と言います。月美さんのおばあさんですか?」
奏斗が言うと老婆はうんうんと頷いた。
「そうだよ。月美の祖母の菊江だ。おれはここで客に出すご飯を作っているんだ。こんなばあさんだけどね、おれの作る料理はうまいって評判なんだよ」
「へぇ! すごい楽しみだね! ね、奏斗君!」
舞が奏斗の袖に触れるのを菊江はじっとりと見つめる。
「あんたら付き合っているのかい?」
「いや――」
「え! そう見えちゃいますー? ふふ、照れちゃうね、奏斗君」
否定しようとした奏斗を舞は抑え込む。二人が恋人同士だと勘違いした菊江はなぜか暗い顔をしていた。
「この山には恋人に逃げられた精霊様がおられてね。恋人同士で行けば怒りを買うかもしれん。リフトの降り場近くに鳥居が見えるだろう。上に登ったらまずお社に挨拶するんだよ」
菊江は椅子から立ち上がると窓を指さした。その窓からのぞき込めば先ほどは白樺の林で見えなかった朱色の鳥居がはっきりと見えた。
「あれは鳥居だったのか……」
奏斗はつぶやきながら先ほど見た化け物を思い出していた。
「おばあちゃん、お客様に変なこと言わないでよ」
ロビーでの会話が聞こえていたのか月美はまだ青い顔をしたまま受付へと顔を出した。
「月美さん、休んでなくていいんですか?」
「はい、先ほどはすみませんでした。私は大丈夫ですから。あの、おばあちゃんの言うことは気にしないでくださいね」
しかし、菊江は難しい顔をして月美を諭す。
「月美、精霊様を侮ってはいかんよ。精霊様は雪崩で何もかも飲み込んじまう。ここにスキー場を作るのだっておれはどうかと思ったのよ。月美、お客様が帰られたらおれたちも山をおりよう」
「またその話? 山をおりたいならおばあちゃんだけおりればいいのよ」
月美が冷たく突き放すと菊江は哀しそうな顔をした。
「おれは月美が精霊様のところに行ってしまいそうで怖いのよ。昔から月美は精霊様の話が好きだったからね。おれは早くに死んじまった母親の代わりに月美を守らなきゃならねえ」
月美ははぁとため息をつく。
「守ってもらわなくても大丈夫よ。精霊様の話は迷信なんだから」
「その精霊様の話って?」
奏斗が聞くと月美は二人に作り笑いを向けた。
「精霊様が恋人を奪われた腹いせに山に来た人間を雪崩で飲み込むって言い伝えです。それくらいこの山は昔から雪崩が多いんですよ。何度も言いますが危険ですからコースには絶対に立ち入らないでくださいね」
「わかりました。お社に手を合わせて頂上だけ調査してきます」
にっこりと笑顔を見せる舞に月美は「約束ですよ」と念を押す。しかしログハウスを出るとすぐに舞は隠していた好奇心をむき出しにした。
「精霊様の話、奏斗君が見た何かと関係があるかもしれないね」
「でも舞ちゃん、今回の仕事は動物たちを異次元の森に保護することだよ。この件はアヤメさんたちに報告するべきだよ」
舞は奏斗の提案に暗い顔をして肩を落とす。
「奏斗君、そんなこと言って本当は私とじゃなくアヤメちゃんと仕事がしたいんでしょ。そうだよね、私なんて何の役にも立たないし……」
「そ、そういうわけじゃないよ!」
それを聞いた舞はパッと明るい顔をした。
「だったら二人で調べてみようよ! 大丈夫、アヤメちゃんもどこかから見守っていてくれるよ」
奏斗はアヤメと蘇芳がいた場所を見たがそこには蘇芳の車もアヤメの姿もない。
『アヤメさん……』
奏斗の吐いたため息が白くなって消えて行く。先ほど別れたばかりなのに奏斗の心はもう彼女を求めていた。
カタンカタンと無人のリフトが規則正しく動く。二人だけを乗せたリフトはゆっくりと頂上へと上っていった。下から小さく見えていた鳥居は次第に大きくなり、古くこじんまりとした社も姿を見せた。頂上の空気は先ほど怪しげな靄の化け物がいたとは思えないほど澄み渡り、清々しささえ感じる。
二人はリフトを降りると鳥居をくぐり小さな社に手を合わせた。
「本当に精霊様いるのかな。何も感じないけど。奏斗君は感じる?」
奏斗は首を横に振る。すると社の後ろをのぞき込んだ舞が声を上げた。
「見て、奏斗君」
社の後ろからは四つ足の生き物と思われる足跡が残っていた。それはメインのコースを外れた林間コースへと続いている。奏斗は黒い化け物の姿を思い出し息を飲んだ。しかし舞は躊躇することなく足跡を追って歩いていく。
「舞ちゃん、戻ろう。これは動物の足跡じゃないよ」
「もう、奏斗君たら。よく見て。これは鹿かカモシカの足跡だよ。しかもけっこう立派な子みたい。この子に聞けば異次元の森に行きたい動物たちを探せるだろうし、精霊のことも聞けるでしょ」
奏斗はもう一度足跡を見た。深い雪に二つに割れた蹄の跡、その後ろには副蹄の跡が残る。それは確かに鹿などに見られる足跡だった。
「本当に行くの?」
「私たちが働いているのは普通の自然保護団体じゃないんだよ。多少の危険は覚悟の上でしょ?」
「それはそうだけど」
整備されていないコースには雪が積もり足が取られる。
「あーあ、スキーがあったら楽だったのになぁ」
二人は足元に注意しながら、林に囲まれたなだらかな坂道を下っていった。
しばらく人が入っていないコースには生き物たちの足跡がたくさんついていた。柔らかな日差しに木についた霧氷がきらめき、枝に積もった雪は風に乗ってさらさらと舞っていく。
「きれいな場所だなぁ」
歩き進めるうちに奏斗はいつしか自然豊かな美しい雪山に心を奪われた。林間コースをだいぶ降りてきていた足跡は急に向きを変え急斜面の崖を登り出す。舞はそれを見上げため息をついた。
「さすがに崖の上は追えないか」
木の並ぶ崖の奥に何かが動く。素早く動く小さなそれを目で追うと舞は顔を輝かせた。
「ノウサギだ!」
ノウサギは舞の声に身体をびくっとさせ逃げようとしたが、隣にいる奏斗に動きを止めた。奏斗は警戒するノウサギに優しく微笑みかける。
「こんにちは、怖がらないで。言葉も分かるから」
ノウサギは瞬きもせずに赤い目に奏斗を映し続ける。そして鼻先をぴくぴくと動かすと小さな声を出した。
「あなた本当に人間?」
「うん、人間だけど君に危害を加えるつもりはないよ。僕たちは住処を失った生き物たちを助けるためにやってきたんだ」
「助ける? じゃあお家を返してくれるの? ここに私のおうちがあったの。でも人間の乗った大きな怪物が来て木を全部切って行ったの」
「怪物?」
「そう、冷たい身体に大きな唸り声をあげていた。あれは人間に操られた怪物」
小さく震えながら答えるノウサギに奏斗の心は痛んだ。ノウサギの言う怪物は山を切り崩す重機だ。小さなノウサギにとって大きな重機は恐ろしい怪物に映ったのだろう。
「ごめんね、僕は君の家を元通りにすることもできないんだ。僕たちにできるのは人間のいない世界に連れて行ってあげることだけなんだよ」
ノウサギは哀しそうにあたりを見つめた。
「そうなんだ。だったら私はここにまた木が生えるのを待つよ。お家がなくなってもまた木が生えれば新しいお家を作れるもの。今までだって、精霊様が雪崩で木をなぎ倒しても春にはまた新しい木が生えてきたの」
奏斗と舞は気まずそうに目を合わせる。スキー場として開拓されたこの場所に木が生えることはもうない。
「ノウサギさん、ごめんね。ここは――」
奏斗が事情を話そうとしたとき、急にノウサギはピンと耳を立て二本足で立ち上がった。
「どうしたの?」
「誰かが精霊様を呼んでる」
「え、精霊様を?」
奏斗と舞は耳を澄ました。すると風の音に混じって確かに小さな鈴が同時にたくさん鳴っているような音が聞こえてきた。それはコースの下の方からゆっくりと近づいてくる。目を凝らすと雪の中を真っ白な衣装を着て歩く人の姿が見えた。
「なんか普通じゃないよ、あの人……」
舞は怖いのか奏斗の腕を掴む。少しずつ近づいてきた女は白無垢の花嫁衣裳を着ていた。
「花嫁だ」
「花嫁? こんなところにいるはずないじゃない! ということは……雪女?」
「雪女……」
奏斗の喉がごくりと鳴った。女が歩くたびに小さな鈴のたくさんついた帯飾りがシャンシャンと音を立てる。俯き気味に歩く女の顔は綿帽子で見えないが、奏斗は何故かその花嫁に釘付けになった。
ダンダン ダンダン
ノウサギが足を踏み鳴らし舞と奏斗の注意を引く。
「精霊様がいらっしゃる。二人とも早くこちらに登って!」
奏斗はハッとして舞の身体を支え自身も崖の上へと乗りあがる。ノウサギは絶えず足を踏み鳴らすと、それに応えるように遠くの方からも無数のダンダンという音が聞こえてきた。その音は次第にゴオという地鳴りのような音となり、頂上から白い噴煙が下り落ちてくる。
「雪崩だ」
吹き付ける氷まじりの冷たい風と共に二人の目の前を雪の塊が流れ落ちていく。すさまじいその勢いは鉄砲水のように押し寄せて先ほどまで二人がいたコースを瞬く間に飲み込んでいった。雪の塊の先にはまだ女がいる。女は逃げる様子もなく立ち止まっていた。
「あぶない!」
女が雪に飲み込まれそうになるのを見ていられずに舞は目を手で覆った。花嫁は雪崩に飲み込まれる寸前に顔を上げこちらを見た。奏斗は凛と立つ女とはじめて目があった。その一瞬、時が止まった。
『アヤメさん?』
動き出した時間とともに大量の雪が花嫁姿のアヤメに食らいつく。
「アヤメさん!!」
叫びながら奏斗は崖の上から飛び降りていた。まだ押し寄せる雪が奏斗の身体を巻き込んでいく。奏斗は必死でアヤメの元へ行こうともがいていた。
「うそ、奏斗君?」
巻きあがる雪の噴煙に奏斗の姿は見えない。突然の出来事に舞は何が起きたのか理解できずにいた。