4 妖狐花菖蒲
「とりあえず、動物たちに聞き込みをしてみましょう」
アヤメはそう言うと高いヒールのまま藪の中へと入って行った。アヤメは山に残っているリスや狸たちに声をかけては聞き込みをし、話の最後には必ずその動物たちが今後どうしたいのかを聞いた。動物たちは他の山に移る者もいれば、異次元の森に移住する者もいる。移住する動物たちを車へと案内するのは奏斗の役目だった。
車のトランクを開けるとマンションの時のようにトランクの向こう側に自然あふれる世界が広がっていた。
「礼を言っているぜ」
動物の言葉がわからない奏斗のためにトロトロが通訳をしてくれるが、奏斗は自分の耳でその声を聞きたかった。
「ねぇ、トロトロ。どうして人間には動物の声が聞こえないんだろう」
残念そうに言う奏斗とチョコの中の小さな丸い目の視線がぶつかった。
「人間だって昔は聞こえていたんだ。でも人間は人間同士でしか通じない言葉をつくって自ら他の動物との隔たりを作った。その上、現代ではネットだの携帯だのに依存をして心の声を聞く耳を閉ざしてしまったんだよ。まぁ、お前はまだいい方だぜ。俺が溶けたチョコレートだとしか思えない奴には俺はチョコにしか見えない。もちろん俺の声も聞こえない。でもお前は人間以外の気持ちを考えることができるから、俺とこうやって話もできるんだ」
すると1匹のリスが奏斗の膝に飛び乗り何かを話すそぶりをして見せる。
「なんて言っているの?」
「リスはな。狐は信じる気になれないがお前が人間だから、お前を信じるって言っているぞ」
奏斗はリスの言っていることに矛盾を感じていた。
「何で狐はダメで人間だといいの? むしろ山を崩してひどいことをしているのは人間なのに」
「お前がいかにもお人よしそうだからだろ」
トロトロの言葉にリスは「ちがう」とでもいうような意思表示をした。
「んー。それは興味深いな」
「なんだよ、ひとりだけ分かってずるいよ」
奏斗は子どものように駄々をこねた。
「この山の動物たちは子どものころにイタチから人間について学ぶらしい。それによると人間は悪い奴だけじゃないって教えられているみたいだぞ」
「人間を憎んでいるイタチ先生が? 本当は人間が好きなのかな?」
リスはくるくるとその場を走りまわると車のトランクの中へと消えていった。
「好きだったのに裏切られる方が余計に憎らしくなるだろ」
チョコの塊が分かったような口をきいた。
ふたりが話をしているとアヤメが戻ってきた。山の中を分け入ったとは思えないほどアヤメの服は新品のようにきれいだ。
「何かわかったか?」
「どうやらイタチはこの山で生まれたわけじゃないみたいよ」
トロトロが聞くとアヤメは車のトランクを閉めながら答える。
「菅原が小学生の時に他の山から拾ってきたらしいわ」
「地主の菅原さんが?」
奏斗が驚いているとアヤメは腕を組んで頷いた。
「そう。たまたま遊びに行った先に、今の大松山みたいな山を崩しているところがあってね、そこで母親とはぐれたイタチを拾ったらしいのよ。それでひとりで生きていけるようになるまで菅原が世話をしてからあの大松の下でイタチを放したみたい」
「自分を放した山を崩す菅原が許せなかったのか」
「あのイタチは変わった色をしているから菅原だって忘れないはずよ。それに本部から送られてきた資料によると複数の作業員がカマイタチを受けた際に、大きな銀色のイタチを目撃したって証言しているのよ。それなら菅原だってイタチを疑ってもおかしくないわ」
アヤメとトロトロの見解は概ね一致していた。しかし、奏斗は何か心につ引っかかりがあった。イタチの奏斗を見つめる目が誰かを憎んでいるようには思えなかったのである。
「まだいたのか」
奏斗は考え事をしていて気づいていなかったが、菅原がすぐ近くまで来ていた。手には先ほどよりも大きな捕獲用の罠を持っている。
「菅原さんこそ、また鼠捕りですか? ずいぶん大きな鼠ですね」
アヤメが作り笑いを浮かべるがその目は笑っていない。
「いや。お前も分かっているんだろ? 俺は鼠を捕っていたわけじゃない」
「あのイタチを捕まえるんですか? あれは雄ですから狩猟の許可があれば捕まえることができますけど許可は取りました?」
菅原は言いにくそうに山の頂を見た。大松が露わになった山肌を見下ろすように生えている。
「そんなものはいらない。お前、あの風をカマイタチと言ったな。誰に言っても信じないと思っていたが、あいつは俺が小学生の頃から生きているんだ。30年も生きているんだぞ! あれは化け物だ。誰かがあいつを始末しなきゃいけないんだ」
言っていることとは逆に、どこか弱気な雰囲気をアヤメは見逃さなかった。
「あなた、本当は私たちに助けを求めているんじゃないですか?」
心を見透かされていた菅原はぐっと拳に力を込めた。
「あのイタチが怖いんでしょう? ひどく人間を恨んでいるあのイタチが」
アヤメは菅原にねっとりと言った。その顔は人の心をかき乱すことを楽しんでいるように薄く笑みを浮かべている。
「あいつは俺を恨んでいるんだ。だから不気味な騒ぎを起こして俺を苦しめるんだ」
「山を崩すのをやめますか? でもこれだけ伐採が進んでいたら後にはひけませんよねぇ」
菅原は持っていた罠を地面に投げつけた。金属でできた頑丈な罠はガシャンと大きな音を立てる。
「あいつの気が済むなら服だけじゃなくて身体ごと俺を切ればいいんだ。これ以上、工事ができないなら俺に残るのは借金だけ。どうせ死ぬしかないんだから」
そう叫ぶと優しいそよ風が菅原を包み込む。しかし、次の瞬間には風がピタリと止み、空気がうなりだした。
ゴゴゴゴゴゴ……
その不気味な音に菅原の手が恐怖で大きく震える。
「カマイタチだ……」
アヤメはじっとその気配をさぐっていた。そして次の瞬間、彼女は見えないほどの速さで奏斗の前に立ちふさがると、空気の刃が彼女の身体を斜めに切り裂いた。
鎖骨の上をなぞるように白いシャツが赤く滲んでいく。
何が起きたのかわからない奏斗の鼻をアヤメの長く艶やかな髪がくすぐった。
「本当に切ったのか? ギン」
奏斗の耳に菅原の声がこだましていた。
¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
「アヤメさん怪我をしているの?」
奏斗の問いにアヤメは答えなかった。彼女は大量の血を流しながら何事もないように立っている。その姿が菅原の目には気味悪く映った。身体の奥底にある第六感が彼女に近づいてはならないと警鐘を鳴らしている。
「お、お前、何者なんだ」
菅原は恐怖で立っているのがやっとだった。
アヤメは奏斗に背を向けたまま山に潜むイタチと睨みあっていた。
「身を呈して守りましたか。命拾いしましたね、飼い主さん。でもあなたは早く薬を塗らないとその血は止まりませんよ」
「奏斗を狙ったな」
アヤメには誰の声も聞こえてはいないようだった。彼女の身体をまたも黒い霧が覆い始める。しかも今度は先ほどとは比べ物にならないほどの勢いで、身体全体から漂い始めていた。
「私は狙ってなどいませんよ。風が切るものを決めるのです」
イタチはそう言ったがアヤメは信じていない。怒りに満ちたその目はすでに人間のものではなかった。
「ヤバイ。マジギレしてるわ」
トロトロが言った。
「え? アヤメさん怒るとこれが出るの? 何なのこれ?」
自分が原因でアヤメが怒っていることなど知らない奏斗は、周りに広がっていく霧を指して言う。
「あぁ、マジギレすると出るんだ。何百年も生きているんだから、このキレやすい性格どうにかなんないかね。この黒いのあんまり吸わない方がいいぞ」
奏斗はトロトロにそう言われて出来るだけ吸わないように息を止めた。
「俺もコレ苦手なんだよなぁ。これは人間も妖怪も関係なく力を奪っていく瘴気だ。あぁ気持ち悪い……」
トロトロは目をぐるぐる回しながらポケットの奥へと身を隠した。
アヤメは怒りが収まらないのか、黒い靄はどんどん濃くなっていく。
バタンッ
音の方を見ると菅原が地面に倒れていた。黒い霧を吸ってはいけないことなど知らない菅原は普通に息をしていたからだ。
奏斗もまた、息を止める限界が近づいていた。奏斗はアヤメを止めようと手を伸ばし、腕を掴む。するとアヤメが振り返った。
振り向いたアヤメは奏斗の知っているアヤメではなかった。尖った長い耳と頬まで裂けた口、つり上がった目元には金色の隈どりのような化粧が施されている。それはまるで狐面のような顔であった。
「うわっ!!」
驚いた奏斗は思わず口を開き、息が苦しかったのもあって黒い霧を肺いっぱいに吸ってしまった。すると電気のスイッチを切っていくように末端から感覚がなくなっていく。ゆっくりと身体が地面に向かう感覚はまるでスローモーションのようだった。
霞んでいく視界の中、白い大きな花弁が目の前で広がった。その中央は金色に輝き、この世のものとは思えない美しさだった。6枚の花弁が見事に咲き乱れる。
「きれいな花菖蒲だなぁ」
薄れゆく意識の中、大きな花菖蒲の中央に白い狐の姿が現れた。その花菖蒲が狐の尾だと気付いた時、奏斗の意識はなくなっていた。
「これで心置きなくあんたを消せるわ。任務を遂行するにはアンタを消すのが一番だと思っていたのよ」
六尾の妖狐の姿になったアヤメは倒れている奏斗を守るように立つと牙を剥いた。
「何百年たっても惚れた男に醜い姿を見られたくないとは、何て健気なんでしょう。あなたの噂はとても有名ですよ。人間の男の転生を追いかける哀れな姫だとね」
「なんとでも言えばいいわ」
アヤメはじりじりとイタチとの間合いを詰めていく。イタチも威嚇しながら身を低くして相手の出方を伺っていた。
「キツネの姿までさらしているのに、彼はあなたに気付いていない。鈍い男と哀れな姫の物語はさぞかし滑稽なんでしょうね」
アヤメはそれ以上言うなとでもいうように、うなりながら飛びかかる。いくら大きなイタチといえども、妖狐の前では狼と鼠ほどのちがいがあった。力では叶うはずもなく、イタチはその俊敏さでするりとアヤメの牙をよけた。
「噂通り、あなたの頭の中は男のことだけ。大妖怪である6尾の狐がカマイタチを受けても何も感じないとは本当に哀れでなりませんよ」
「ごちゃごちゃうるさいイタチだ」
アヤメはとうとう前足でイタチを捕らえた。そしてイタチに食らいつくようにその大きな赤い口を開ける。
ゴゴゴゴゴ……
風鳴りの音にアヤメは口を閉じる。見ると山の方から風の刃がアヤメめがけて渦を巻いていた。アヤメはそれをよけるために宙を舞うと、行先を失った刃は車にぶつかって火花を散らした。艶やかな車体には斜めに走る大きな傷がついている。
地面に着地したアヤメは人間の姿に戻っていた。
「どういうこと?」
「だから言ったでしょう。あなたは大事なことを見落としていたのですよ」
車に当たり分散した風はかすかに潮の香りがしていた。