2 白樺荘
「やっぱり標高が高いだけあってすごくいい雪! スキーにはもってこいのパウダースノーだね」
サラサラとした雪質を確かめながら舞は歩いていた。その少し後ろをついていく奏斗は楽しそうな舞に申し訳ない気持ちになった。奏斗はスキーができない。元々運動音痴の彼のことだ、練習したところですぐに滑るのは無理だろう。勾配のきついゲレンデを見上げると彼はごくりと唾を飲んだ。
「舞ちゃん、僕スキーは……」
言いかけると同じくゲレンデを見上げていた舞が怪訝な顔をしていた。
「舞ちゃん?」
「ねぇ、奏斗君、このスキー場なんかおかしいね」
「え?」
奏斗はゲレンデを凝視した。広いゲレンデに頂上へのびるリフトがあるが今は動いていない。白樺の林に遮られ微かに見える降り場は朱色の柱のようなものが辛うじて見えるだけだ。
奏斗が不可思議だと感じたのはその周辺だった。そのあたりは蜃気楼のようにもやもやとして空気が重く淀んでいる気がした。次第に淀んだ空気は集まっていき、四つ足の化け物のような形になっていく。
「確かにおかしい」
ただならぬその気配に冷や汗を浮かべる奏斗の横で舞は得意げな顔をしていた。
「だよね! このスキー場、客もいないしリフトも動いていないなんておかしいよ。スキーのシーズン真っ只中なのに。よっぽど人気がないのかな」
奏斗は驚きながら舞を見ると彼女はきょとんとした顔をしていた。
「どうしたの? 奏斗君」
「舞ちゃんにはあれが見えないの?」
「あれ?」
化け物は白い雪の中で灰のように黒く、定まらない形をゆらゆらとさせながら大きくなっている。
「何も見えないけど」
笑いながら首をかしげる彼女にはやはりそれが眼中に入っていなかった。
「そんな、あそこだよ。リフト降り場の—―」
奏斗がもう一度リフトの先を見上げると淀んだ空気は跡形もなく消え去り、雪と白樺の林があるだけだった。
「奏斗くん目が良くなったんだよね? だから遠くの生き物が見えたんじゃない?」
「あれは生き物じゃないよ。アヤメさんに聞いたら何かわかるかもしれない」
奏斗の口から出たアヤメの名に舞はムッとして眉を寄せた。
「心配いらないよ。だってもし近くに危険なモノがいるならあそこにいるアヤメちゃんや蘇芳様が気づかないはずないもん」
「そうだけど」
奏斗はアヤメたちの方を見た。彼女は奏斗たちのことなど見向きもせずに蘇芳と話し込んでいる。目を逸らす奏斗の腕に舞はそっと寄り添う。
「奏斗君、今回は人間である私たちの仕事だよ。奏斗君のパートナーは私でしょ。頼るなら私を頼ってよ」
寂しそうな舞に奏斗は申し訳ない気持ちになった。そして同時に奏斗は知らず知らずのうちにアヤメに頼りきっている自分が情けなかった。
「そうだね。ごめんね舞ちゃん。アヤメさんたちが安心できるように二人で頑張ろう」
「うん! 人間だって力になるって証明しなきゃね」
そう言って舞は奏斗の腕を引く。彼の背中を見つめるアヤメの視線に奏斗は気づかなかった。
『白樺荘』白いペンキでそう書かれた木製の看板が立てかけてある階段を上ると丸太でできた扉があった。
「こんにちは」
中に入るとロビーはとても温かだったが人の気配はなくとても静かだった。ずらりとレンタル用のスキーが立てかけられた先は小さな食堂へつながっている。建物内には観葉植物が立ち並び、インテリアは木で統一されていた。奏斗は九重会の事務所にも似たその場所がざわざわと落ち着かない気がした。
舞は受付にあるベルをチリンチリンと鳴らす。すると受付の奥の扉が開き中から女性が出て来た。その若い女性スタッフは青白く生気がない。
「いらっしゃいませ。スキーのお客様ですか?」
「私、先日お電話いたしました自然保護団体の職員で柳沢と申します」
すると女性は覚えがあるのかフロントのメモ紙をパラパラとめくった。
「九重会様ですね。自然調査をされるとのことで」
「そうです。それで山頂の調査に行きたいのでスキーはお借りできますか?」
女性は気まずそうにちらりと窓から見えるゲレンデに目をやった。
「申し訳ございませんがスキーはできないんです。このログハウスもお客様が間違ってスキーをされないように開けているんですよ」
「え! どうしてですか?」
舞の声にはがっかりとした響きがあった。その横で奏斗は内心ホッとしていた。
「お客様が滑るには危険があるので封鎖しているんです。調査の時にはリフトを動かしますから頂上だけにして頂けますか。コースには立ち入らないようにお願いします」
「危険って雪崩ですか?」
奏斗の質問に女性は目を泳がせ小さな声で答える。
「ええ、事故が起きてはいけないので」
「残念だね、奏斗君」
「う、うん」
女性はほっとした表情を見せ、フロントの棚から紙を一枚取り出すと奏斗の前へ差し出した。記入している奏斗の隣で舞がそれをのぞき込む。二人の距離感に女性は何気なく質問をした。
「部屋は一緒にされますか?」
「え!」
声を裏返す奏斗に舞はニヤリと笑う。
「何? 奏斗君同じ部屋がいいの?」
「ち、ちがうよ! 絶対に別でお願いします!」
全力で言う奏斗に彼女は肩をすくめる。
「傷つくなぁ。私は一緒でもいいのに」
「舞ちゃん! いくら幼馴染でも舞ちゃんは女の子なんだからそういうこと言っちゃだめだよ!」
めずらしく舞に説教をする奏斗に彼女は嬉しそうな顔をした。
「奏斗君、私のことちゃんと女の子だと思ってくれているんだ」
「当たり前でしょ」
奏斗は舞が喜ぶ理由が分からないまま、残りを書き終えた。
「お二人は幼馴染だったのですね。仲がよかったので勘違いしてしまって」
女性はふふっと笑っていたが奏斗から申し込み用紙を受け取ろうと手を伸ばすと身体がぐらりと傾いてその場に倒れ込んでしまった。目の前で急に女性が倒れたので驚いた奏斗は受付に身を乗り出した。女性は頭に手を添えてうずくまっている。
「大丈夫ですか?!」
「……はい」
声をかけられた女性はかすかな声で返事をした。机に手をかけて立ちあがろうとしたがまだ眩暈がするのか目の焦点が合っていない。その顔は先ほどよりも青白く唇は紫色になっている。
「大丈夫です。いつものことなんで……少し時間を置けば治りますから」
「でも――」
心配した奏斗が中へ行くよりも早く、受付の奥のドアから長身の男性が現れて彼女の身体を支えた。
「月美くん、大丈夫かい?」
「オーナーすみません」
「ほら、無理はいけないよ」
男性に抱えられ女性はかすかに頬を染めて俯く。
「ご心配をおかけしてすみません。彼女、貧血持ちなんですよ。さぁ君は中で休もうね」
オーナーと呼ばれた男は片手で彼女を支えながら奏斗たちに笑顔を向けると女性を受付の奥へと連れて行く。そして男だけすぐに戻ってきて爽やかな笑顔を浮かべた。
「ここからは私が代わってお受けしますね。私はオーナーの橡尾です。そして彼女は草野月美くん。彼女は体調不良を押して仕事をしてくれていたんですよ。この通りスキー場は営業していないですからね。今は彼女と彼女のおばあさん、そして私の3人しかいないんです」
橡尾は30代半ばといったところか、甘いマスクにかすれた声で女性を惹きつける不思議な魅力があった。舞も瞳をとろんとしながら橡尾に見とれている。
「そうなんですね。僕たち何も知らなくて、もし大変でしたら他に宿を探しますけど」
「いえ、気にしないでください。彼女のおばあさんもお客様を楽しみにしていましたからね」
そう言って奏斗へと手を伸ばす。奏斗は持っていた申し込み用紙を出すと橡尾は紙ではなく奏斗の手を握った。
「え?」
奏斗の手を掴みながら彼は満面の笑みを浮かべる。
「すみません、きれいな手をしていたのでつい」
そしてするすると奏斗の手を撫でるように紙へと手の平をすべらせ、そのまま申し込み用紙を受け取った。
「ではお二方が支度をしている間にリフトを動かしておきますね。この山には生き物がたくさんいますからね。見たこともないモノに出会えるかもしれませんよ」
橡尾は部屋の鍵を渡すと笑顔のまま、部屋へと向かう奏斗たちを見送った。
奏斗は橡尾に握られた手をじっと見つめる。生暖かくしっとりとした彼の手はどこか気色が悪く、皮膚ではない何か大事なものに触れられた気がした。
「橡尾さんってイケメンなのにソッチの人なのかな」
舞は残念そうに呟いた。