14 美しい思い出 下
それから数年の時がたち、屋敷の狐たちにとって百緑の存在は欠かせないものになっていた。
相変わらず将棋を指し、負け続ける灰を潤は飽き飽きしながら見ていた。
「いい加減諦めればいいのに。子狐の時から全く進歩してないじゃん」
「潤様、そんなことないですよ。私も一手間違えれば負けていましたから」
少女から女性へと成長した百緑が困ったように微笑む。茶色がかった長い髪が緩やかな曲線を描きながら紅梅色の小袿へ垂れていく。屋敷へ来てから数年がたつと、百緑はもうどこから見ても狐とは分からないほどに完璧に変化の術を使いこなし、自分の能力も制御していた。しかし、故郷の山へと帰ることは許されない。老齢の両親の元へと今すぐにでも帰りたいと百緑の想いは募るばかりだった。
「百緑、話があります」
ある日、呼び出され鳩羽の元へ行くと、そこには久しぶりに屋敷へと帰って来ていた白磁の姿があった。白磁は屋敷でも人間に化けることはなく4本の尾を悠々と揺らしながら百緑を出迎えた。百緑はいよいよ山に帰れるのだと心を躍らせた。しかし、返って来たのは想像もしていない話だった。
「百緑、そなたはもう我が家族の一員である。そなたが来てから好き勝手していた灰は謙虚さを知り、内向的だった潤もそなたと仲良くなろうと外に目が向くようになった。何よりも変わったのは花菖蒲だ。花菖蒲はそなたに心を開き、今では本当の姉妹のように仲睦まじい。だがそなたたちももう年頃。花菖蒲は1尾の蘇芳様に嫁ぐことが決まった」
それは百緑が初めて耳にすることだった。
「花菖蒲様が? 花菖蒲様はご納得しておられるのですか?」
「うむ。承知の上だ。蘇芳様はかねてより花菖蒲を妻にと言っておられた。それを花菖蒲も知っておる。覚悟はできていたのであろう」
驚いていた百緑だったが、続けて白磁の口から出た言葉がさらに彼女を動揺させた。
「花菖蒲は近々屋敷を出る。そこで我らはそなたの身の振り方も考えた。そなたには灰か潤と夫婦になってはどうかと思うておる」
百緑はしばらくの間沈黙した。灰や潤が嫌いなわけではない。ただ夫婦となれば余計に山へは帰れなくなる。山へ帰りたいと切に願っているのを知っている白磁や鳩羽がそのような話をするのは不自然に思えた。百緑は彼らが自分を山に帰したくない理由があるからだと確信せざるをえなかった。
「白磁様、私は幼い頃よりこちらでお世話となり、お二方には感謝してもしきれないほどです。灰様潤様も私にはもったいないほどのお方。ただ……その前に山へは返して頂けませんでしょうか? 妻となるのであれば両親にも会って決めたいのです」
「それはできぬ」
「何故ですか? 私の幻影の能力を使えば自分や家族の身を守るくらいはできます」
徐々に暗い顔になる鳩羽に対し、白磁は変わらず毅然としていた。
「その家族がもういないのだ。家族のないそなたの身の振り方を決めるのは我らの役目でもある。我らはそなたが大人になった時には、そなたを息子の妻にすることで本当の家族となろうと考えていたのだ」
「そん……な……。私の父さまと母さまはもう……」
「黙っていてごめんなさい、百緑……。あなたの両親はあなたがこちらに来てすぐに人間の手に落ちたのよ」
いつも気丈な鳩羽が力なく謝った。それが余計に現実味を増し、百緑の心を絶望させた。
「私が山に残っていれば父さまと母さまを守れたかもしれないのに」
床に手をつき震える百緑を鳩羽は見ていられなかった。
「いいえ、それは無理よ。あなたは人間に狙われていた。あなたの両親はあなたを守るために私たちを頼ったのよ」
荒くなる呼吸の中から百緑は声を絞り出す。
「何故私が狙われるのですか? 妖怪だからですか? 普通ではない色をしているせいですか?」
しかし鳩羽は首を振った。
「生まれながらに強い力を持つあなたは九尾の娘……花菖蒲と間違われたのよ」
百緑の心の中で何かが崩れていき、焦点の合わない目が苦悶の表情を浮かべる鳩羽をとらえる。
「あなたを守るのに普通の狐では弱すぎる。だから彼らは大事な娘を私たちに託したの。両親のあなたを守りたいという強い願いであなたは今ここにいるのよ」
パタン。百緑は気を失いその場に倒れた。真っ暗闇のまぶたの奥で優しい両親とアヤメの笑顔がゆらりゆらりと揺れていた。
それからしばらくの間、百緑は床に臥せ、ふさぎ込んでいた。毎日のように灰や潤が様子を見に来ても百緑は御簾を下ろし誰のことも拒絶した。もちろんアヤメが彼女の元へと行くことはない。
甘い香りが御簾からすり抜け、涙の枯れ果てた百緑の元へと届く。百緑が起き上がるとそこには桃色のかわいらしい花をつけた枝が御簾の隙間から差し込まれていた。
「百緑、俺だ」
自信に満ちた低い声。桃の花は灰が持ってきたものだった。
「灰様」
久しぶりに自分の名を呼ぶ百緑の声を聴き、灰の心は嬉しさと愛しさで震えていた。
「聞いてくれ、百緑。今、心の整理がつかないことは分かっている。でも俺は親が決めたからじゃなくお前と一緒になりたい。小さな頃から俺がお前を守るって決めたんだ。お前が望むならなんだってしてやる。俺にお前を守らせてくれないか」
「灰様、ありがとうございます。でも……私は……」
言葉に詰まる百緑に灰は拳を握りしめる。御簾越しに困惑する百緑の表情が見える気がした。
「そうだよな……。お前より弱い俺がお前を守れるわけがない。将棋だってお前には勝てないんだ。でも俺は必ずお前よりも強くなる。お前のために俺は厳しい修行にも耐えてみせる。強くなって必ずお前の元に行くよ。だから待っていてくれ」
灰はそう言うとその場を立ち去る。百緑が残された桃の花を手に取ると花びらがひらりひらりと舞い落ちた。
「遅かったわね」
いつものように木の上でアヤメが微笑む。桃の木は彼女の成長に合わせるように大きくなり、長く伸びた枝には桃の花が見事に咲き誇っていた。
「これを手折ったのはアヤメ様ですね?」
アヤメは百緑が手に持っている枝を見るとふふっと笑った。
「それを持っていけば百緑が話しをしてくれると言ったの。そしたら喜んで持って行ったわ。あいつはあなたに夢中なのよ」
百緑の顔は沈んでいた。しかし再びアヤメを見上げると彼女の瞳は強い意思を持って光った。
「私は灰様、潤様どちらとも夫婦にはなりません。いつまでも誰かに守られて生きていくのは嫌なのです。私は山に帰り両親とともに生きていきます」
「もう決めたのね。あなたは強くなった。もうどこに行っても大丈夫よ」
桃の木の若葉を見ながらアヤメが微笑む。その若葉がいずれ木を覆う大きな葉となることが今の百緑には簡単に想像できた。
「ただ私はアヤメ様が心配です」
「心配には及ばないわ。私はあなたの両親が亡くなっていたことも灰や潤との縁談も初めから全部知っていたの。それなのにあなたとお友だちごっこをしていたのよ」
百緑はまっすぐにアヤメを見つめていた。その視線に恨みや怒りは一切ない。あるのはアヤメのことを包み込む温かさだけだった。
「アヤメ様が私に百葉という名を下さいました。私は百葉でいる間、寂しさも自分の背負った運命も忘れて普通の少女でいられた。アヤメ様もきっとそうだったのですよね」
その言葉にアヤメは自嘲気味に笑う。
「子ども染みた都合の良い考えよね。例え名前を変えたとしても九尾の娘である事実からは逃げられないのに。私はもう『アヤメ』とは名乗らない。『花菖蒲』として蘇芳に嫁ぎ、九尾の娘として生きていくわ」
「蘇芳様の妻になってアヤメ様は幸せになれるのですか?」
「幸せになれるかなんてどうでもいいのよ。蘇芳はただの色好きじゃない。力のある神や精霊を選んで妻にしているの。だから人間も蘇芳には手を出せないわ」
百緑はしばらく沈黙し、そして口を開いた。
「蘇芳様に守ってもらうのですか? あんなにも九尾の娘であることを嫌っていたあなたがそれを利用するのですか?」
アヤメの顔はみるみる赤くなり唇を噛みしめた。
「守ってもらって何が悪いの? 私のために犠牲になる狐だっている。あなただってそうよ! それに九尾と同等の力を持つ蘇芳の申し入れを断れば父さんと母さんはただじゃ済まない。力があったって誰も守れやしない! 私は初めから強くなんてないのよ!」
アヤメははっとした。目の前の百緑は瞳に涙をためて微笑んでいる。彼女は大きなため息をついた。
「煽ったのね」
「アヤメ様の本当の気持ちが知りたかったのです。アヤメ様が他者との関わりを避けていたのは自分の運命に大切な者を巻き込まないため。本当は誰よりも他者を思いやり、ひとりで傷ついていたのを私は知っています」
「買い被りよ」
百緑は自分のために命を落とした両親とアヤメの姿を重ねた。
「でも……だれも傷つかないというのは間違いです。白磁様と鳩羽様、そして私もアヤメ様の不幸の上には幸せになれないのです。アヤメ様は私の知っている誰よりも強い方。アヤメ様ならできることがあるはず」
「簡単に言うわね」
呆れながらアヤメが笑う。百緑は持っていた桃の枝をアヤメに手渡した。
「約束を覚えていますか?」
「ええ、忘れないわ」
アヤメは桃の枝を見つめ、そしてそれを空に向かって振り上げた。すると満開の桃の花はたちまちに燃えるような紅色の葉へと変化した。季節外れの楓の葉に百緑の心が切なく反応する。春風に乗った楓は絶え間なく降り注ぎ百緑の視界を奪う。
「あなたと交わした約束も今では美しい思い出。さようなら、百葉」
声が響いたかと思うと風は止み、そこにアヤメの姿はなかった。
「本当に勝手な方」
百緑はこぼれる涙をぬぐうと静かにつぶやいた。
山へ帰るという百緑の決断を鳩羽は止めなかった。百緑ならばそうするだろうと彼女は考えていたのだろう。縁談話も白紙となり、百緑は身ひとつで山へと帰ることとなった。
「百緑」
屋敷を出ようとした百緑を引き留めたのは狩衣姿の立派な青年だった。御簾越しには気づかなかったが百緑が床に臥せている間に双子は元服の儀を終え、その見た目はどこから見てももう大人の男性だった。
「よくお似合いです」
白緑は微笑む。
「百緑、山に帰るの?」
「ええ、両親のそばで穏やかに暮らしたいのです」
彼女は寂し気に微笑んだ。
「百緑、お、俺は縁談がなくなっても百緑のことずっと想っているよ。ここを離れて百緑の山で暮らしてもいい。だからいつか俺と……」
潤が頬を染めた百緑に手を伸ばすと彼女は静かに首を横に振る。
「ありがとうございます。でも私にはまだ誰かと夫婦になることが想像できないのです。幼い頃に見た絵巻物を覚えていますか? 私はあの絵のように美しい楓の下で想い合う方と見つめ合う日をまだ夢見ているだけなのですよ」
彼女に触れようと伸びた手は力なく垂れ下がった。
「そっか。俺がそうなれるように頑張るよ」
緑色の髪が風になびき、彼女はそれをそっとおさえた。
「お元気で、灰様」
そう言うと百緑は狐の姿となり飛び去っていった。
「いいの? 百緑はあなたを灰と……」
残された青年に鳩羽が声をかける。彼は百緑が見えなくなってもその方角を見つめたままだった。
「いいんだ。今の俺じゃ灰にも敵わない」
「そう」
鳩羽は成長した息子の横顔を見て微笑んだ。
「それにしてもあなたも自分のことを『俺』と言うようになったら屋敷の者はますます灰と見分けがつかなくなるでしょうね。でも今はあなたしかいないから間違えようがないけれど」
灰は百緑が去るよりも早く白磁と共に旅に出ていた。
「花菖蒲もお嫁に行けば寂しくなるわ」
小さくため息をつく鳩羽に潤は向き直る。
「母さん、寂しがってる暇なんてないよ。俺も修行する。修行して誰より強くなるヨ」
唇を噛みしめる潤の背中を鳩羽はやれやれとさすり「覚悟しなさいよ」と笑った。
アヤメは桃の木の上で飛び去って行く7尾の狐の姿を見送った。
「百緑、あなたはきっといつか故郷を出て再び外へと出るわ。あなたにはまだ知らないことがたくさんあるのだから」
散った桃の花びらが吹き荒れ、枝は意思を持っているかのように大きくしなり、急激に成長していく。太い枝が彼女に絡みつき締め付けていくとアヤメの身体から黒い瘴気がにじみ出る。瘴気が木を包みこむと、枝は縮み、何事もなかったように元の木に戻っていた。
アヤメは木にもたれて瞳を閉じると静かに眠りについたのだった。