13 美しい思い出 上
『美しい思い出』はアヤメ、百緑、双子が一緒に過ごしていた頃の話です。もっとさっくり5000字くらいでおさめたかったのですが、どうしてもおさまらなかったので上下に分けることにしました。時代は平安時代です。
『百緑』、その名をつけたのは鳩羽だった。自分の名に慣れるまで幼い彼女は時間がかかった。何度呼ばれても自分が「百緑」であることに違和感があった。その理由は初めての名だったからだけではない。今まで散々に厭まれてきたその色が『百緑』と呼ばれるには美しすぎると思ったからだ。
彼女が生まれた山は秋になると楓が美しい山だった。紅に染まる山の中で彼女の淡い緑色は目立ち、山の生き物たちからは「緑の化け狐」と呼ばれていた。幻影を見せる彼女の能力を生き物たちは恐れ、避けて嫌う。孤独な彼女にとって両親だけが心の支えだった。どんなにひどい目にあったとしても巣穴に帰れば両親が優しく涙を舐めてくれる。両親の太陽のように温かい黄色の毛並みは彼女にとって憧れだった。しかし、優しい両親は突然、力ある妖狐へと彼女の身を引き渡した。
愛する両親と引き裂かれる悲しみに彼女はその時のことをあまりよくは覚えていない。覚えているのは、すがりついても突き放されたこと。そして何故行かなければいけないのかを問うた時の冷たい一言だった。両親は目も合わさずに「弱すぎるから」と冷たく言い放った。その言葉は長い間彼女の心に突き刺さっていた。
彼女の面倒をみることになった白磁と鳩羽の夫婦は彼女を自分たちの屋敷へと招きいれた。白磁は平安京で稲荷の使いをしており、ほとんど帰ってはこない。屋敷を仕切っているのは鳩羽だった。京の都から南に位置するその屋敷は不思議な力で満ちている。人間の貴族とも引けを取らない見事な神殿造りの屋敷には、きらびやかな着物を纏った女房たちが歌を詠んだり絵巻物を見たり優雅な時間を過ごしていた。ただそこに人間は一人もいない。
「ここに住む狐たちは人間に化けて人間たちと暮らす練習をするのよ」
「人間と暮らす?」
少女はあどけない顔で鳩羽を見上げた。
「ええ、九尾狐の件はあなたも知っているわね? 九尾が殺生石へと姿を変えた今も人間たちの妖狐への恐怖は残ったまま。恐れを抱いた人間は非情よ。妖狐が身を守るためには完璧に人間に化けて共存していくしかないの。さぁ、あなたもやってみて」
鳩羽に促され人間に化けてみたが淡い緑色の毛に黄と緑の瞳はそのままだった。緩い癖のある淡い緑色の毛は彼女の肩先にかかり嫌でも目に入る。泣きそうになっている彼女を見て鳩羽は優しく笑った。
「大丈夫。力がつけば色も変えることができるわ。それにあなたの色は百緑色という美しい名があるのよ。あなた確か名前がなかったわね。これからあなたのことを百緑と呼びましょう」
「百緑……」
「そうよ、百緑よ。百緑色の髪には紅梅の小袿が似合うわ。ほらとっても素敵」
鳩羽が触れるとたちまちに百緑の着物の色が変わる。
「ここに住む子どもたちはあなたと齢も近いし、もちろんあなたと同じ妖狐だから自分の能力を隠すこともないわ。特に花菖蒲とはきっと仲良くなれるわよ」
「花菖蒲様? 狐姫様がここにはおられるのですか?」
百緑も狐姫の話くらいは耳にしたことがあった。九尾が長い眠りにつく前に産み落とした子。その子は生まれながらに花菖蒲のように美しい尾を持ち、並外れた力を持っているという。
「ええ、彼女は人間に狙われている身。だからこの屋敷に身を隠しているのよ。でも私たちは花菖蒲を家族だと思っているわ。九尾の娘だからって気兼ねすることはないのよ」
しかし、初めて会ったアヤメはとても仲良くなれそうな雰囲気ではなかった。たじろぐ百緑にアヤメは一瞥するとするりとその場を去り、その後は顔を合わしてもまるで百緑のことなど見えていないようだった。
一方、灰と潤は百緑をすぐに気に入り、毎日遊びに付き合わせた。双子と遊んでいる間も百緑はアヤメのことを気にしていた。相変わらずアヤメはまるで気まぐれな猫のようにふらりと外に出て行ってしまい帰ってこない。百緑にはアヤメが自分を避けている理由が分からなかった。
「はぁ」
「おい、俺との勝負の途中でため息なんてつくなよ」
「灰、百緑はつまらないんだよ。僕だってつまらないもの」
「そういうわけでは……」
灰と百緑は将棋盤をはさみ向き合っていた。ふたりの勝負を見守るように座っていた潤も百緑のため息の理由を興味深そうに待っている。
「花菖蒲様は私がお嫌いなんでしょうか」
神妙な面持ちの百緑から出た言葉に双子は同時に鼻で笑う。
「なんだ、そんなことか。気にするなよ、あいつはみんなが嫌いなのさ」
「みんなが嫌い?」
「そう、みんなが嫌い。自分も嫌い。生き物ぜんぶ嫌い。だからひとりが好きなんだよ」
百緑はなんだか心が苦しくなった。
「本当にそうなんでしょうか?」
「ああ、そうだよ! そんなことより次の手を打てよ。お前の番だぞ」
百緑が駒を動かすと灰はニヤリと笑う。
「王手だ。また俺の勝ちか! お前弱いなぁ」
「ちょっと、灰。調子に乗らないでよね。百緑はね――」
潤と百緑の目が合うと彼女は寂し気に微笑み首をふる。
「潤様、私は弱いのです」
「気にするな百緑! 俺が強すぎるんだよ!」
上機嫌の灰に潤はぶすっとむくれていた。
「あなたたち、また百緑を独り占めにして遊んでいるの?」
ちょうど通りかかった鳩羽が声をかけると双子はあからさまに嫌な顔をした。
「独り占めじゃないよな」
「僕たちはふたりだからね」
小さな声で話す双子に鳩羽の拳が飛ぶ。
「百緑、無理して付き合う必要なんてないのよ」
「無理だなんて、そんなことないです」
困ったような笑みを浮かべる百緑に鳩羽はやれやれという顔をした。
「そんなことあるわ。百緑、自分の時間は必要よ。誰かのためではなく、自分のために使う時間がなければ自分を見失ってしまうわよ。さぁ、分かったならあなたたちは母さんと修行よ!」
両手で双子を引きずって鳩羽はその場を離れて行った。
「自分のための時間……」
ひとり残された百緑に春の風がそよぐ。彼女は目を閉じ、それを身体いっぱいに吸い込んだ。風はほんのりと甘い香りがした。百緑はその香りに引き寄せられるように屋敷を出て裏山へと足を伸ばす。
小高い丘になっているその山は頂上が桃色に色づいている。桃の花は散り始め、花びらが風に乗って彼女の元まで届いていた。百緑の故郷に桃の木はない。目の前に広がる桃の木がより一層彼女の心を寂しくさせた。
「お父さま、お母さま」
永遠の命を持つ百緑とはちがい、普通の狐の命は花のように短く散っていく。その時まで1秒でも長く両親のそばにいたかった。ぽたぽたと落ちる涙が足元を覆う花びらの中に吸い込まれていく。
「泣き虫」
突然降って来た声に驚き、百緑が見上げるとそこには、白い狐が桃の枝の間からこちらを見ていた。ふんわりと舞う6本の尾は金色の光を放ち、大きな花弁のように空に向かっている。その尾で身を包むと次の瞬間現れたのは少女の姿だった。木の上に腰かけるその姿は華やかで、まるで天女のようだった。
「花菖蒲様」
名を呼ばれるとアヤメは腕を組みぶすっと不機嫌な顔をした。
「その名前嫌いなのよ。九尾がつけた名だって呼ばれるたびに頭をよぎる。屋敷にいれば『花菖蒲花菖蒲』って呼ばれるでしょ。だからひとりでいたの。あなたを避けていたわけじゃないわ」
「知っていたのですか?」
アヤメは百緑の反応が面白いのか、ふふっと笑ってみせた。
「ええ、何でも知っているわよ。あなたが灰にわざと負けていることもね」
「それは……」
百緑は気まずそうに目を逸らす。
「あいつは根が単純だからすぐに手が読まれるのよ。本当は将棋の才能なんてこれっぽっちもないのに、あなたのおかげで強いと勘違いしているわ。あなたの哀れみを知らないのは本人だけよ」
「哀れみだなんて。私は灰様に嫌な思いをしてほしくないだけです」
「ふうん、優しいのね。でもわざと負けるなんて私には理解できないわ」
からかうように笑うアヤメに百緑は顔が熱くなるのを感じた。
「当然です。みじめな想いなどしたことのない花菖蒲様に弱い者の気持ちが分かるはずありません」
静かに声を荒げたその様子を鳩羽や双子が見ていたら、驚いていたにちがいない。しかしアヤメは相変わらず笑みを浮かべていた。
「本音が出たわね。避けていたのは私ではなくあなたの方よ」
百緑ははっとした。九尾の娘として生まれた時から大切に守られ、その姿は美しく、何よりも強大な力を引き継ぐアヤメは百緑の持っていないすべてを持っていた。彼女を見ると自分のみじめさが一層際立ち、目をそらしてきたのだ。
「許してください。私は花菖蒲様のように強くはなれないのです」
俯き涙をこぼす百緑にアヤメは木の上から手を差し伸べた。
「花菖蒲様?」
差し出されたその手を百緑は思わず掴んだ。するとアヤメは彼女を木の上へと引き上げた。木に登ると少しの高さなのに世界はまるで違って見える。見渡す限り広がる桃の花はまるで天空の花畑のようだった。
「百緑、見て」
アヤメは舞い散る花の中、指をさした。そこにはまだ芽吹いたばかりの小さな若葉があった。日に照らされ淡い緑色に輝くそれは百緑と同じ色をしていた。
「あなたはこの若葉と同じよ。小さな若葉は新しい世界に恐れを抱いているだけ。今は小さく弱いように見える若葉だけど雨や風にも負けずに木を守る葉が弱いはずがない。あなたはきっと強くなるわ」
アヤメが言うと不思議なことに小さなその葉は大きな力を秘めている気がした。
「私が強く?」
「ええ。それに強さはひとつとは限らないの。灰は桃の花のような強さを持っている。あいつは散ることで次はもっと美しい花を咲かせてみせると燃える奴なの。潤だってそうよ。面倒なくらいに打たれ強いわ。だから遠慮なく勝っていいのよ」
アヤメは百緑の髪についた花びらを取り微笑みかける。それはあどけなさが残る普通の少女の笑顔だった。この方のことをもっと知りたい、もっと近づきたい、百緑は心からそう思った。
「花菖蒲様、またここに来てもいいですか?」
「もちろんよ。でもここでは花菖蒲ではなくアヤメと呼んでちょうだい」
「アヤメ様」
名を呼ばれたアヤメは嬉しそうに笑う。
「私はあなたを百葉と呼ぶわ。これはふたりだけの呼び名よ」
黄と緑の瞳が輝き頷く。
「きれいな瞳ね。私は好きよ」
それから百緑とアヤメ、ふたりは互いに心を許し合える友となった。
「くそ! また負けた!」
広い屋敷に悔しそうな灰の声が響く。
「おいもう1局やるぞ」
灰が駒を並べ直そうとすると潤が嫌そうな顔をした。
「もう終わりにしてよ。弱すぎる灰と勝負しても百緑だって面白くないよねぇ」
「そんなことないですよ」
百緑が困ったように微笑むと灰はふんっとへそを曲げた。潤はそんな灰を気にせずに待ってましたと自分が用意してきたものを百緑の前で広げる。
「ねぇ百緑見てよ! これ今都で流行っている絵巻物だよー! 『楓の君』っていう若君と姫君の話なんだけど絵がとってもきれいなの! 百緑も気に入ると思うなぁ」
百緑はそのきらびやかな絵巻物を食い入るように見つめた。そこには楓が舞い散る中、見つめ合う男女の姿が描かれていた。
「素敵……」
すっかり見とれている百緑に灰も気になったのか横目でちらりとのぞき込む。百緑の反応が嬉しかったのか潤は調子に乗っていた。
「ね、いいでしょ! 百緑の故郷は楓がきれいだっていうし、いずれは僕と百緑もこの絵みたいに――」
「へっなんだよ、こんなの。描いてないだけでこの男には他にもいっぱい女がいるんだぜ」
「ちょっと灰。そういうこと言うのやめてよ」
話を遮られた潤が灰を睨む。
「本当のことだろ。一尾の蘇芳もたくさん妻がいるっていうしな。世の中そんな男ばかりだぞ。でも俺はもう一人の女しか妻にしないって決めているんだぜ」
百緑は灰を見上げ首を傾げた。その無垢な瞳に灰の耳は真っ赤に燃え上がっていた。
「花菖蒲様ですか?」
「ゲホッゲッホ……何てこと言うんだよ!」
むせる灰の背中を潤はバシバシと容赦なく叩く。
「百緑、灰はね、百緑のこと――オエッ! 何すんだよ! 灰!」
「お前こそ何を言おうとしているんだよ!」
双子は取っ組み合いの喧嘩を始めたが、百緑はもうその光景には慣れっこだった。むしろ双子が喧嘩をしている間は邪魔が入ることなく絵巻物を見ることができる。絵巻物は見れば見るほどに美しく、心を奪われた。百緑はそれをアヤメにも見せたいそう思った。
「潤様、絵巻物お借りしますね!」
百緑は喧嘩をしている双子を置いて、巻物を握りしめながら走り出す。辿り着いた先にはいつものようにアヤメが桃の木にもたれかかっていた。百緑に気づくと彼女は人懐こい笑みを浮かべる。桃の木はたくさんの葉が生い茂り、青々と輝いていた。
「そんなに急いでどうしたの? それは絵巻物?」
「はい! とても素敵なんです! アヤメ様、アヤメ様はお慕いしている殿方はおられますか?」
木に登った百緑が絵巻物を広げるやいなやそんな質問をしたのでアヤメは目を丸くした。
「いないわね」
百緑はがっかりとうなだれる。彼女から事情を聞くとアヤメは笑いをこらえられなかった。それでも百緑は絵巻物の中で見つめ合う男女を飽きずにいつまでも見ていた。
「そんなにいいもの?」
「ええ、とても。色づく楓の下で見つめ合うふたり……。私の山には楓がたくさん生えていましたから、私にもいつかこの『楓の君』のような方と見つめ合える日がくるかもしれないと思うと胸が高鳴ってしまいます」
うっとりと語る百緑にアヤメはふうんと巻物を見つめた。
「あなたが夢見ているところ言いにくいのだけど。私、この話知っているわ。楓の君は女たらしで一人の女と長く続かないの。秋に別れを告げるから楓の君って呼ばれているのよ。この絵は『君とのことは秋の楓と同じ。最後には美しい思い出にして終わりにしよう』なんてのたまう場面ね。本当に勝手な男だわ」
「そんな」
衝撃を受けた百緑の瞳がうるうると涙ぐむ。アヤメはその涙を自分の裾で拭った。
「物語は物語よ。幸せな話がいいのならあなた自身が楓の下で幸せになればいいわ」
「私がですか?」
「そうよ、あなたにもきっと現れるわ。その時には私も協力するわよ」
百緑は嬉しそうにアヤメの手を取った。
「約束ですよ! 私もアヤメ様がお慕いする方ならどんな方でも応援しますから!」
「ありがとう。その気持ちだけで嬉しいわ」
絵巻物に夢中になっている百緑をアヤメは微笑みながらずっと見守っていた。