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狐姫 ~生きとし生けるモノガタリ~  作者: 鴨カモメ
第肆話 キツネ姫と一途なオオカミ
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8 夜雀の恋

「なんだってあいつにあんなこと言ったんだよ。あれじゃあ狼がいるって言っているようなもんじゃないか」

 駒がいる部屋を出ると灰は百緑を訝しく見た。

「あの子なら大丈夫です。狼たちにとって悪いようにはならないでしょう」

「そう言い切れる自信はどこから来るんだ?」

「夜雀が彼女をここへと導いたからです」


 その言葉に灰は弧光のことがちらついた。

「キツネが狼たちから山の神を奪ったっていうのは本当なのか?」

 事務所のドアノブに手をかけていた百緑の手が止まる。

「誰がそれを?」

 百緑はドアノブを見たまま聞いた。

「弧光だ。俺は昨晩、奴に会った」

「弧光に?」

「ああ、あいつは『自分のすべては山の神と共にある』と言っていた」

「そうですか。そんなことを彼が……」

 目を合わせようとしない百緑に胸が騒ぐ。

「お前が夜雀をあいつらから引き離したのか? だとしたらどうしてそんなことをする必要があったのか……俺はそれが聞きたかった」

 何かがおかしい。大人になったというだけでは片づけられない壁が灰と彼女の間にはあった。

「では中でお話しましょう。灰様や皆に伝えねばならないことがあります」


 百緑はドアを引き、灰を中へと通した。ふたりを見て、たくさんの狐たちが手を止め頭を下げる。潤は紅に仕事を手伝わされていた。

「やっと戻ってきた! ねぇ、終業時間まだなノォ?」

 潤が百緑を見るなり弱音を吐くと、近くにいた三つ目狐が目を見せる。

「潤様、刻限にはまだ早いですぞ! 働きなされ」

 あからさまにがっかりしながらも潤がちゃんと仕事を続けるのを百緑は微笑んで見ていた。

「潤様、ありがとうございます。少し早いですが今日はここまでとしましょう」

「本当に! やったァ! 紅ちゃん、またゲームで遊ぼうよ!」


 喜ぶ潤に紅は「もうっ」っと呆れながら笑う。しかし、百緑が目くばせをすると紅は尾をピンと立て、顔を引き締めた。

「紅ちゃん?」

「潤様、遊ぶのは後ですよ。百緑様から大事なお話があります」

 潤が見ると、百緑はすべての狐たちが見えるように事務所の中心に立っている。

「灰様、潤様、そして皆に大事な話があります」

 真剣な百緑にそこにいる狐たちは何事かと息を飲む。事務所は百緑の言葉を待って静まりかえっていた。


「現在、九重会の支所で人間の職員がいないのはこの土佐支所だけです。九重会の決まりでは人間を一人雇わなければなりません。この支所でも人間を迎え入れる時がやってきました」

 事務所にいる狐たちは顔をあわせ困惑していた。灰にも嫌な予感がよぎる。

「皆が人間に良い感情を抱いていないこともよく分かっています。しかし、決まりは決まり。この九重会に身を置く限り、従わねばなりません。それでも彼女なら皆とうまくやっていけるでしょう」

 百緑と目が合うと灰の嫌な予感は確信へと変わっていた。


「本日より、楠駒を土佐支所の職員とします」

 ざわめいている事務所の中で灰はやっぱりとため息をついた。

「お前何を考えているんだよ。まさかあいつに同情したんじゃないだろうな」

「いいえ、ちがいます。彼女こそが適任なのです」

「あいつが拒否したらどうするんだよ」

 その強い口調にも負けない眼差しを百緑が返してきたので灰は戸惑いを隠せなかった。

「彼女は必ず受け入れます。これは彼女に会う前からすでに決まっていたこと。私はずっと町に下りて彼女を探していました。でもなかなか見つからなかった。それが今日偶然にも山に迷い込んで来たのです」


 潤はソファにもたれながら興味深くふたりの会話を聞いていた。

「だから市街地に行っていたんだネ。でも何ですぐに見つからなかったノ? たかが人間一人デショ? もしかして人間じゃないとか?」

「鋭いですね、潤様。でも彼女は人間です。ただし、普通の人間ではない。彼女は夜雀の娘です」

「夜雀の?」

 百緑は静かに頷く。

「先ほど灰様が言った通り、狼たちのもとから夜雀を引き離したのは私です。私は夜雀が人間へと姿を変える手助けをしたのです」

「神下ろしの手伝いをしたのか?」

「そういうことになります」

 人間になり山を捨てた夜雀はもう山に帰ることは許されない。夜雀だけが頼りの危機的な状況でその決断をしたことが、いかに危険なことか百緑ほどの妖怪が分からないはずもなかった。


「なんでそんなこと」

「他に方法はなかったノ?」

 灰と潤は百緑がしたことがとても信じられなかった。

「夜雀は山に居場所がなかったのです。私が夜雀に出会った時、彼女は人間に恋をし衰弱しきっていました。私はずっと山のために生きてきた彼女を自由にしてあげたかったのです」

 静かに話しを続けるその黄と緑の瞳に映っていたのは遠い過去の景色だった。



 ********

 夜雀は儚く小さな妖だ。星空をそのまま身に纏ったかのように輝く小鳥は美しい鳴き声で狼たちを導く。弧光の山を守る夜雀は山を守ることで神としての力を得た特別な夜雀だった。夜雀は使いである狼とともに行動し、山の無事と繁栄を祈っていた。そうは言っても人間がまだ少ない時代には生き物たちは互いに支え合い、山を脅かす者など現れなかった。


「三つ目狐、今日は何をして遊びましょう?」

「これは夜雀様、新しい遊び道具を用意して待っておりましたよ」

 そう言って三つ目狐が出したのは立派な将棋盤だった。

「まぁ、また人間からくすねて来たのですか?」

「なに、埃をかぶっていたのをちょいと拝借しただけですよ。我々には時間がありすぎる。将棋は時間をつぶすのにちょうど良いですぞ。ホッホッホッ」

 山に住み着いていた三つ目狐は夜雀の良い遊び相手だった。夜雀は自分を頼り山に来る者を拒まない。そんな彼女を妖怪も動物も慕っていた。

 それが遊ぶ余裕もなく山を守ることになったのは人間が増えてからのことだった。四国にいる狼たちは人間に追われ、夜雀を頼って彼女の山に集まってきた。優しい夜雀は狼たちを守り、彼女の山にいた狼たちは生き延びた。


 時が経つと狼は絶滅したことになっていた。しかし狼の存在を強く信じる人間もいる。その一人が今まで山のことだけを考えて生きてきた夜雀の心を変えた。勘のいいその男は夜雀が狼を隠してもかなり近くまでやってきてしまう。最初こそ警戒していた夜雀だったが、頻繁に山へとやってくるその男を見ているうちに彼女はあることに気づいた。


 男はただ狼を探していたのではない。山の神に感謝し、生き物たちを愛していた。男は小鳥に話しかける。

「君たちの山は素晴らしいね。こんなにも緑が美しい山は見たことがない。ここには素晴らしい山の神がいる。狼が見つからないのもきっと山の神の愛が深いからなんだろうね」

 山の美しさに触れる度、男は山の神を称えた。夜雀は山を守る者として生まれた。山を守ることは呼吸をするのと同じくらいに当たり前のことだ。男が夜雀を褒める度に彼女の心は高鳴る。夜雀は敵であるはずの人間に初めて認められる喜びを教わった。


 いつしか彼女は男が来ることを心待ちにし、男のために狼の足跡や痕跡を示すようになっていた。それを見た男は歓喜し山の神に感謝した。夜雀の胸は熱くなり、男に近づきたいそう思うようになっていた。しかし、狼たちはそんな夜雀を許さない。

「夜雀よ、お前は山を守るために生まれて来た。それが人の子に近づき、我々を危険にさらすとは正気の沙汰ではない」

 若い弧光は夜雀を責め、夜雀は自分の運命を嘆いた。

(私が山を守るのは当然のこと。離れなければいけないのに心は彼へと引き寄せられてしまう)

 そして事態はどんどんと悪い方へと進んでいく。夜雀は男を忘れることができなかった。その結果、多くの証拠を得た男は『狼はいる』と世間に発表をした。すると山に狼を探す人間が増えた。自責の念と男への恋心で弱っていた夜雀にとても山は守れない。すると山から人間を追い出す役目を買って出たのは三つ目狐だった。


「夜雀様、私が行って人間を追い出しましょう。なんせ同族ですら気味悪がった私ですからね、怖がらせることには自信がありますよ。ホッホッホッ」

 そうして三つ目狐は人間たちを脅し人間を追い出したがそれも長くは続かなかった。今度は興味本位で三つ目狐を探す者たちが山へとやってくるようになったのである。

 夜雀はさらに弱り、狼たちを人目から遠ざけるのはもう限界だった。するとそこへ救世主のごとく現れたのは百緑だった。百緑は旅の途中で三つ目狐のことを聞きつけ紅とともにやってきた。当初、百緑は人間に見つかり困っている三つ目狐を助けるつもりでいた。しかし、三つ目狐が助けを求めたのは夜雀のことだった。

「どうか苦しんでいる夜雀様をお助けください」

 三つ目狐は藁をもすがる思いだった。


 その頃、夜雀は男の身を案じていた。狼に関する新しい情報もなく、証拠を得ようと躍起になった男は無茶をするようになっていた。そして男はとうとう深い山で道に迷ってしまった。憔悴する男を見ていられなくなり助けに行こうとすると弧光はそれを許さなかった。

「行くな、夜雀。すべてあの男が悪い」

 夜雀は涙を流した。弧光の言う通り、山の危機はあの男が作り出したものだ。しかし、元を正せば夜雀が男の言葉に心を躍らせ、山を守る役割をおろそかにしたのが原因だった。愛する男を助けることのできない無力さと罪の意識がますます夜雀を弱らせていく。


「しっかりしてくれ。お前がいなくなれば誰が山を守るのだ」

 それは刃となり夜雀を突き刺す言葉だった。羽ばたく力を失った夜雀受け止めたのは7尾の狐だった。狼の群れのうなり声が響く中、夜雀は薄緑に輝く温かい毛に包まれていた。

「あなたは?」

「私は百緑です。話は三つ目から聞いています。こんなにも弱ってかわいそうに」

 弧光は突然現れた百緑に牙を剥く。

「よそ者が勝手なことを言うな。これは私たちの問題だ」

 百緑は紅に目で合図をする。すると紅はじっと夜雀のことを探るように見つめた。

「夜雀様の心にあるのは人間への恋心だけです。このままでは山を守るどころか夜雀様のお命も危ないでしょう」

「いい加減なことを。夜雀は死なない」

 百緑の背の上で力なく横たわったままの夜雀に百緑の瞳が哀し気に揺れる。


「不死身の我らは身体ではなく、心が死んでしまうのですよ」

 百緑は夜雀に静かに語り掛けた。

「あなたの望みは?」

「あの人の傍に行きたい。あの人のことだけを考えて暮らしたい」

 その小さな声を聞き届けると百緑は自分の気を送り夜雀を人間の女へと変化させた。夜雀の瞳から喜びの涙が零れ落ちる。

「あなたは今まで十分に山を守ってきた。これからは自分の生きたいように生きなさい」

「ありがとう。ありがとう」

 そう言って男の元へと向かった夜雀は山を振り返ることはなかった。男は夜雀とともに人間の世界へと下りた。そうなっては狼たちになす術はない。

「取り返しのつかないことをしてくれたな」

 残された狼たちの怒りは百緑へと向けられたのだった。



 *******

 百緑は夜雀が人間になるまでの話を終えると駒のいる隣の部屋を見やる。灰もまた同じ方を向いてため息をついた。

「それで、人間になった夜雀が駒を産んだってわけか」

 どうみても今どきの女の子である駒が夜雀の娘であることは信じがたいが、駒の話とも辻褄が合い、それが真実と認めざるを得なかった。

「神を下りたのに山に戻ったから夜雀は死んだのか?」

「夜雀は死んでいません。消えたのです。死とは肉体の死。魂は生まれ変わり、また生死を繰り返す。しかし山の禁忌を犯した夜雀は消失しました」

 夜雀はもういない。残されたのは夜雀の娘である駒だけだった。


「夜雀の娘。そして灰様と潤様。条件は揃いました。……とうとう時が来たのです」

「時ってなんだよ?」

「この現状に決着をつける時です」

 いつも賑やかな事務所の中はまるで葬式のように暗く沈みこんでいた。

「みんな暗いネ。大丈夫?」

「優しい百緑様がこれから戦いに身を置かれる。それが辛いのです。……ただそれだけです」

 そう言いながら紅自身も泣きそうになっていた。


 アオアオ―ン

 その時、遠吠えが響いた。遠吠えは何度も何度もこだましながら繰り返す。警護にあたろうと狐たちが動き出すと、百緑はそれを止めた。

「大丈夫、この建物に人間がいる今、狼たちはそう簡単に近づいて来ないでしょう」

 百緑の言う通り、しばらくたっても狼の遠吠えが近づいてくることはなく襲ってくる気配もない。すると灰はその鳴き声が妙だということに気づいた。それは昨晩のように殺気を帯びたものではなく誰かに呼びかけるようなそんな響きだった。


「まさか」

 灰は走り事務所を出た。

「ちょっと灰!? どこ行くノ?」

 隣の部屋に行くと案の定、駒の姿はない。ベッドの上には小さな方位磁石と電池の切れたスマートフォンが置いてあった。


「夜雀は磁場を狂わせる。だから方位磁石は意味をなしません」

 気付くと灰の後ろには百緑がいた。百緑は窓の外を見る。その景色は昼間とは違い暗闇に包まれていた。その中を狼の鳴き声が響き続ける。

「お前、わざと駒を行かせたんだな」

「狼たちはここに匿われた人間がただの人間ではないことに気づいています」

 淡々と語る百緑は灰の知っている彼女とは別人のようだった。


「あいつを囮にする気なのか?」

「彼女は九重会の一員です。そのために働いてもらったまでのこと」

 その冷たい瞳にぞっと寒気がする。

「お前おかしいぞ! 山に慣れていないあいつに何かあったらどうするんだ!」

「彼女は迷いませんよ。何も見えないような夜の闇の中であったとしても、心の目で行きたい場所に飛んでいく。それが夜雀です。彼女なら必ず弧光の元へたどり着くでしょう」

 狼たちにたどり着いたとしても、駒が無事でいられる保証はない。それでも百緑は弧光に近づく手段として駒を利用した。

「百緑、お前……」

「王将を取るためには小さな『駒』を捨てて行く。それが灰様の戦法でしたよね?」

 夜の闇の前に黄と緑の瞳が光る。恐怖を感じるほどに美しいその輝きに灰はごくりと唾を飲んだのだった。











次話は3月3日金曜日に投稿予定です。

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