7 遺された手記
百緑が後を追ってやってきても灰は何も言わなかった。灰が何を聞きたかったのか気になりだしていたのは潤の方だった。
「ねぇ、百緑に何を聞きたかったのォ?」
灰は不機嫌な顔でただただ山の中を前へと進む。
「それはあの女のことを終わらせてからだ。じゃないと人間の一人や二人どうでもよくなりそうだからな」
「えー! ねぇ百緑は灰に何を聞かれるか分からないのォ?」
潤の無理な質問に百緑は困りながら笑う。
「すみません、私には見当もつきません」
「えー! 紅ちゃんは? 灰の心読んでヨ」
「私は心は読めても心の声は聞こえません。それに潤様は人間の女の子が見たかっただけでしょ。邪魔しないでください」
紅はぷいっと冷たくあしらった。「紅ちゃん、誤解だよヨォ」潤は泣きそうな顔をして紅の後を追いかける。
「情けない奴だな」
灰が呆れてため息をつくと百緑はふふっと小さく笑っていた。
「でも潤様は昔よりずっと明るくなられましたよね。そして灰様はより強くなられました。おふたりはお互いに高め合い、理解し合っている。素晴らしい関係です」
「理解し合っているのはどうかな。あいつに何があって、ああなったのか俺にも分からない。いつも一緒にいても見ているものはちがうんだ。俺はずっとお前を見て来た。だから俺はあいつのようにごまかせないぞ」
灰は離れていても心の中でずっと彼女のことを見つめ続けてきた。灰の知っている百緑は聡明で優しく、傷つきやすい。それは支所長という責任ある立場になっても変わることのない、彼女の根本的な部分だった。
「お前は今、秘密を抱えて争いの中心にいる。本当は辛いんだろ」
「灰様……」
潤む百緑の瞳は灰の心を鎮めていく。
「お前が俺を頼りたくなかったのもわかる。俺はお前から任された仕事を責任持って果たさなかった。今の俺は潤のことを言えない情けない男だ」
灰は百緑に怒っていたのではない。百緑が頼るほどの男ではない自分が嫌だった。
「そんなこと――」
否定しようとした百緑を灰は手で制止する。
「この仕事が終わった後で全部まとめて聞いてやる。安心しろ、お前にどんな秘密があろうと俺は受け入れてやるから」
百緑は泣きそうな顔で微笑み、頷く。すると灰も安心して笑った。しかし灰は気づかなかった。灰が前を向いた後、背中を見つめる百緑の表情は灰が見たこともないほどに苦悶に満ちたものに変わっていた。
「ねぇちょっと! 灰! 早く来てヨ!」
先を進んでいた潤が大きな声で灰を呼ぶ。灰たちは駒のいた岩場に到着をした。そこから匂いや気を辿って後を追おうと思っていたが、灰は目を疑った。そこには岩にもたれかかりぐったりとしている女性の姿があった。頭を下げ、長い髪の毛でその顔は隠れていたが膝には灰のジャケットをかけている。それは駒に間違いはなかった。
「おい! まさか、ずっとここにいたのかよ。おい、駒!」
駒に返事はない。灰が肩を掴み再び名を呼ぶと、岩にもたれていた彼女は、支えを失いその場にうつ伏せに倒れてしまった。
その様子に皆が言葉を失っていた。
「そんな簡単に死なないデショ」
「いいえ、ありえますよ。人間は我々が思っている以上に弱いです。朝晩は冷えますから体力が奪われたのかもしれません」
紅は狐には考えられないほど簡単に命を落とす人間をたくさん見てきた。
「俺のせいだ……」
灰は片手で頭を抑え込む。潤は興味深げにしゃがみこみ、駒の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、この子めっちゃ寝てるヨ☆」
潤が駒の髪をかきあげると「ぐー」といういびきと共に眠る彼女の顔が見えた。頬にはほんのりと赤みが差し、血行も良い。駒は灰たちが来たことに気づかないくらい熟睡していたのだった。
「なんだよ! 驚かせるなよ!」
灰は大きな声をだしても駒に起きる気配はない。百緑は駒が寝ている岩の上にノートが置いてあることに気づいた。駒はこれを読んでいる間に眠くなり寝てしまったのだろう。そのノートを手に取ると百緑の眉がピクリと動いた。
「ねぇ、百緑、この子どうするノ~? 起こす? それとも山小屋まで運ぶ?」
潤は駒の頬をツンツンと突くが、彼女に起きる気配はない。ノートをリュックにしまうと百緑は首を振る。
「女の子一人を置き去りにするのは可哀そうです。それによほど疲れているのでしょう。ひとまず事務所に連れて帰ります」
灰は駒を抱えた。駒はぐっすりと眠っていたが、灰が置いていったジャケットを握りしめたまま離そうとしない。灰の心がチクリと痛む。
「悪かったな」
駒は気持ちよさそうに灰の腕の中で眠り続けていた。
まぶしさで目を開けると、カーテンの隙間から強い西日がこぼれていた。起き上がるとそこにあるのはゴツゴツした岩ではなく柔らかな枕だった。自分がいたのは山の中のはずだった。それが今、温かい部屋のベッドに寝転んでいる。
「おい、起きたのかよ」
木のドアが開き入ってきたのは灰だった。駒は「ギャ」と小さな悲鳴をあげると毛布で顔を隠した。
「ちょっと! ノックくらいしなさいよ! こっち見ないで! 化粧落ちているから明るいの耐えられない!」
「ヨダレたらして爆睡してたくせによく言うぜ」
「うそ……もうお嫁にいけない」
灰は呆れながらズカズカと部屋に入りベッド脇の椅子へと腰かける。
「あんなところで寝ていたらお嫁にいくどころじゃないだろ」
「でも灰が助けてくれたじゃん」
話しているだけで何とも言えない疲労感に襲われる。駒は灰にとって苦手なタイプの女性だった。
チラチラとオレンジ色の光が差し込む窓をのぞくと窓の外には見渡す限り山が広がっていた。
「こんな山の中にマンションがあるんだ? だから灰は山に詳しかったんだね」
「お前何で山道を探さなかったんだよ」
「だって辿り着く気がしなかったし、灰が来てくれる気がしたから4日は待とうと思ったんだ。ほらチョコレートは8枚あるし。あ! そういえばせっかくチョコレートあげたのにまたリュックに戻したでしょ」
床には駒のリュックが置いてある。チョコレート以外にも無駄にたくさん入っているのだろう。男の灰が持ってもそのリュックは重かった。
「俺はチョコレートは食わない」
「本当、素直じゃないんだから」
駒はクスクスと笑った。化粧も落ち、疲れてはいたが駒は十分にかわいらしい女の子だった。
「お前化粧はしない方がいいな」
「え! その方がかわいいってこと?」
灰は潤のようなことは慣れない。小さく「ああ」というとブスっと目を逸らす。予想外の言葉に駒は驚き頬を染めた。
コンコン
「はい」
ノックの音に思わず駒は返事をする。
「百緑です。入っていいですか?」
美しく澄んだ女性の声に駒は胸がドキドキとしていた。「はい」と言うとドアを開けて入ってきたのは、その声に見合う、いやそれ以上の美貌の持ち主だったので駒は見とれてしまった。
「すみません、声が聞こえたので。お腹空いていますよね。果物を持ってきました」
その手にはかごいっぱいの柿や蜜柑を持っていた。百緑の両目は明るい茶色になり、より人間らしく変化をしている。
「めっちゃ綺麗! 灰の奥さん?」
「そんなわけないだろっ!」
「だよね」
駒の反応が気に食わないのか灰は眉間にしわを寄せた。
「おい! 『だよね』ってなんだよ!」
「だって礼儀正しいし、『百緑』さんていう上品な名字が灰には似合わないでしょ。それに灰とちがってずっと大人な雰囲気!」
「俺だってお前よりずっと大人なんだぞ!」
「はいはい」
百緑はふたりのやりとりを微笑みながら見ていた。
「私たちは幼馴染なんです」
「へぇ、幼馴染ねぇ」
灰は百緑に席をゆずり面白くなさそうに窓の外を眺める。駒はそんな灰を見ながらニヤニヤと笑った。
「今日はもう遅いです。明日、町まで送りますからゆっくりしていってください。この部屋は空き部屋なので好きに使っていいですよ」
「よかった! 灰と同室だったらどうしようかと思った」
「お前な」
「ごめんごめん、一人で過ごすにはもったいないほどいい部屋だから。景色もすごくきれいだし」
駒は夕日に暮れる窓の外を見た。雲の間から黄金色の光の筋が山に向かって降りている様は神々しくもある。
「すみません、ひとつ聞いてもいいかな?」
柿を剥き始めていた百緑は顔を上げた。
「ふたりは山の中に住んでいるんでしょ? だったら狼って見たことある? どうしたら会えるのかな?」
「お前な――」
まだそんなことを言うのかと諫めようとした灰は駒の顔を見て口を閉じた。それは軽い気持ちで聞いているには、あまりに真剣な顔だった。百緑もまた手を止めて駒をじっと見つめている。
「残念ながらそれは答えることができませんね。ご覧の通りここは僻地です。私たちはずっとここに住んでいるわけではないんですよ」
その答えに駒はがっくりと肩を落とす。百緑は困ったように笑った。
「どうしても会いたい理由があるんですね。それはあのノートが関係していますか? すみません。拾った時に少し見えてしまったんです」
駒は驚いた顔をしたが、すぐにリュックを漁ると1冊のノートを出した。
「これを?」
百緑は頷く。灰は使い古して色あせたノートをのぞき込んだ。
「それなんだよ?」
「私のお父さんが遺した手記」
今まで明るかった駒の瞳には暗い影が落ちていた。百緑は静かにそんな駒の様子を見ていた。
「お父様は亡くなられたのですね。よかったらどうして狼に会いたいのか、お話を聞かせてはもらえませんか? 何か力になれるかもしれません」
駒は頷き、ノートのページをめくる。どのページも男性らしいしっかりした文字がびっしりと並び、時折葉や動物のイラストも見えた。
「私のお父さんはずっと狼を探していたんだ。でも見つけられずについこの間、死んじゃった」
「それで父親の無念を晴らすために来たのか?」
駒は首を振る。ノートは自然に関することばかりで狼に関する情報はない。そして『妻と共に山へと上る』という記述を最後に白紙が続いていた。
「私はお父さんが大嫌いなの。お父さんが一生かけても見つけられなかった狼のことも嫌い。狼のせいでお父さんは山にばかり行って、そのお父さんのせいでお母さんはずっと寂しい思いをしてた。だから私はお母さんに言ったの。『そんなに寂しいならお父さんと一緒に山に行けば』って」
そこまで言うと駒は唇を噛みしめた。そして再び口を開く。
「そしたら二人で行ったはずなのにお父さんしか帰って来なかった。慣れない登山で足を滑らせて崖から落ちたんだって。遺体も見つからなかった。お父さんはそれから山には登らなくなった。私があんなにお母さんのために山に行かないでって言っていたのに、お母さんが死んだら山に行かなくなったの。それで勝手に病気になって今度は私を置いて呆気なく死んじゃった。だからお父さんも嫌い」
「それが何で狼探しに繋がるんだ? お前だって狼なんて見たくもないはずだろう?」
すると駒は白紙のページをめくり、あるところで止まった。それは1枚だけヨレヨレと歪んでいるページだった。灰は駒が開いたページに目を落とした。そこには震え歪む文字で駒への言葉が書き記されていた。
『駒へ
君が自分を責めることはない。悪いのはすべて私だ。お母さんはきっと狼のところにいる。私は生まれ変わってももう二度と彼女に会うことはできないだろう。それが私へ架せられた罰なのだ。どうか君には母さんの命を繋げてほしい。君の幸せを心から願っているよ』
駒の瞳から涙が零れ落ちる。
「私はお母さんに会うために狼を探しているの」
百緑は袂からハンカチを出すとそれで駒の涙を拭った。
「そうですか」
まだこぼれそうな涙を抱えながらも駒の瞳には強い意思が宿っていた。百緑は駒の耳元で囁く。
「やみくもに探しても狼はみつかりませんよ。狼を探したいのなら目に映るものを信じてはいけない」
「え?」
目の前にある百緑の瞳が一瞬、黄と緑に輝いた気がして、駒は瞬きをした。溜まっていた涙がポロリと百緑の袖に落ち染み込んでいく。どんなに見つめても百緑の瞳は茶色いままだった。
「ごめん、高そうな着物濡らしちゃった」
申し訳なさそうに言うと、百緑は目を丸くしてすぐに笑いだした。
「いいんですよ。それより良かったら果物も食べてくださいね。チョコレートだけでは物足りないでしょうから」
駒は喜んで百緑の剥いた柿を頬張った。
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その夜、一人部屋にいた駒は山に犬のような鳴き声がアオアオ―ンと響くのを聞いた。鳴き声は呼応しながらずっと彼女の耳に響く。それは駒を呼ぶように何度も何度も聞こえて来た。
(近くにいる)
そう思うといてもたってもいられなかった。ふと夜の山で動いてはいけないという言葉を思い出す。夜の山がいかに危険か、実際に何も見えない山の中で一人でいるのは恐怖と不安に満ちていた。しかし、それでも駒は行かずにはいられなかった。重いリュックを背負うと、灰や百緑に気づかれないようにこっそりとマンションを抜け出したのだった。