6 弧光
朝もやの中、灰はひとり山中を歩いていた。迷子とはいえ200メートルあるけば山道に出る。しかしあの駒といういかにも山に慣れていない女が無事下山できるのか心に引っかかった。
(やはり引き返すべきか)
そう思いながら足を止めると、ふいに空気がガラリと重苦しくなったのを感じた。それはよそ者を排除しようとするビリビリとした息のつまる空気だった。
「いるんだろ。敵意がむき出しなんだよ」
ところどころ紅葉し黄と赤の混ざる茂みから現れたのは大きな狼だった。明らかに昨晩事務所を襲撃してきた狼たちとはちがう覇者のオーラを身にまとっている。その狼のたてがみには弧を描いたような白い毛が生えており、木の間からこぼれる朝日に照らされて光っていた。
「お前が弧光だな」
「いかにも」
「わざわざ捕まりにやってきたのか」
灰は腰を低くし戦闘態勢に入った。するとどこからともなく無数のうなり声が響き、その振動が地を這って行く。
「やめておけ。ここは狼の縄張り。お前はその中に迷い込んだのだ。私が合図をすれば仲間たちはお前を八つ裂きにする」
先ほどから体中に伝わる殺気は弧光のものではなく、茂みに身をひそめる狼たちのものだった。
「で、俺をどうするつもりだ」
「どうするつもりもないさ。百緑が待ちわびていたキツネの兄弟がどんな奴か見定めに来ただけだ」
灰はふっと笑い腕を組む。
「それはご丁寧に。それで俺のこと何かわかったのかよ」
「ああ、頭領になる素質のない薄情な奴だということがわかったさ」
灰の目が怒りに揺れた。しかし弧光は動じることはない。
「あの女は山のことを甘く見ている。簡単に助ければまた山に来るだろう。あいつは少し身に染みた方がいいんだ」
「そうやってキツネは自分たちの裁量で物事を判断する。お前たちが動物たちを異次元に送り付け、助けた気になっていることもそうだ。狼を異次元に送ればそれで山を守った気になっている」
灰の顔がゆがむ。
「お前たち狼のせいで他の動物が危険にさらされているんだぞ」
「私たちは長い間、人目を避け生き続けて来た。山の神が山を守っている限り、キツネなどに頼らなくとも山は平和だったのだ」
いつの間にか狼たちのうなり声はやみ静寂が訪れていた。山の木々が何かを追い求めているようにざわざわと揺れ動く。弧光はゆっくりと瞬きをすると目を大きく見開いた。
「山の神を……彼女をこの山から奪い去ったのはキツネだ。それでもまだこの山の不和が狼のせいだと言えるのか?」
それは灰の知らない事実だった。困惑する灰に弧光はうっすらと笑みを浮かべた。
「その様子だと何も知らないようだな。仲間ですら自分たちの目的を遂げるための駒にする。だから私はキツネを信用しない」
「言わないのは何か事情があるんだろう。それにキツネでもお前たちや弱いものを守ろうと必死な奴もいるんだ。俺はそういう奴らを知っている」
灰の脳裏にアヤメや百緑、そして両親の姿が浮かんだ。彼らは九重会に関係なく、目の前にいる弱い生き物たちを助けようと尽力していた。しかし、弧光に灰の心は伝わらない。
「キツネは生き物を人間から守るためと言いながら狐の姿を捨て人間に姿を変える。お前もそうだ。本当は人間が好きで憧れているのだろう。そのような者が言うことをどうして信じられるのか」
弧光はゆっくりと歩きだす。隠れていた群れの狼たちも彼の後に続いた。
「おい、待て! どんな理由があろうと俺はお前を異次元に送りこんでやる。百緑には触れさせないからな」
金色の瞳がちらりと横目で灰を捉えた。
「私はどこへも行かない。たとえ1匹になろうとも。私のすべては山の神と共にある」
弧光はそう言い残し茂みの中へと消えて行った。
キツネが夜雀を奪った理由、それは百緑が知っているはずだった。百緑は何か重要なことを隠している。灰は駒のことも忘れ事務所へと急いだ。
灰が事務所へ帰ると百緑の姿はなかった。心の中では消化不良のモノがぐるぐると渦巻く。
「おかえりなさいませ、灰様」
「百緑はどこに行ったんだ?」
不機嫌な灰の様子に紅は潤の方を見た。潤にもまた灰が不機嫌な原因を知る由はない。
「カリカリしてどうしたノ? 百緑なら仕事で市街地だヨ」
「市街地? 何でそんなところに行く必要があるんだよ。あいつ狙われている自覚あるのか」
「そんなに百緑が心配なの? 灰は過保護だネ~☆ 市街地には狼なんていないヨォ。あ、でも狼みたいな人間に百緑がナンパされないか心配ってこと?」
潤が茶化しながら笑う。
「もう、潤様ったら。狼はとても一途な生き物なんですよ。狼の番は一生添い遂げるんです。片方が死んでしまうと残された方も弱って死んでしまうこともあるんですから」
紅は恋愛ドラマでも語るように目を輝かせていた。
「紅ちゃんって意外とロマンチストなんだね☆」
「ええ、まぁ」
照れながら笑う紅を灰は睨んでいた。
「よく笑っていられるぜ」
紅は灰が毒を吐く理由も分からずに戸惑っていた。潤は灰に近づくとTシャツの胸ぐらを掴む。
「何なの? 帰ってくるなりイライラしてさ。自分がうまくいかないからって紅ちゃんに八つ当たりしないでよネ」
「離せ、潤。俺は今すごく機嫌が悪いんだ」
「奇遇だネ。俺もお前のせいですごく機嫌が悪いヨ」
事務所の家具がしだいにカタカタと揺れ出し、ペンや書類が浮かび上がる。双子の喧嘩を初めて見る狐たちはにらみ合う大妖怪にただただ恐怖するしかなかった。
そこへトコトコとやってきたのは三つ目狐だった。その口に咥えているものからは甘い香りがしている。
「やっぱりな。キツネ姫の予想通りだぜ。すぐにカッとなって喧嘩して迷惑をかける」
明らかに三つ目のものではないその声はトロトロのものだった。ビニール袋に入った茶色い塊には小さな目が二つ呆れて灰を見ていた。
「なんでお前がいるんだよ」
「お前たちが百緑の足を引っ張っていないか見て来いって言われているんだよ」
灰と潤はお互いにつかみ合っていた手を離した。
「クソ! 花菖蒲、余計な真似しやがって」
「なんか喧嘩する気うせちゃったヨ」
三つ目狐は三つの目で灰をのぞき込む。
「ところで迷子の女の子は無事送り届けてくださいました?」
灰は気まずそうに目を泳がせた。
「え! 迷子って女の子だったノ? かわいかった?」
先ほどまでいがみあっていたのが嘘のように潤が目を輝かせると、隣の紅が睨む。
「かわいいなんてあるわけがない。スマホ依存で方位磁石の見方もわからないような奴だ。それにバカみたいにチョコレートばっかり持って来て、1枚足りないとか言っていたんだ。きっと昨日のチョコレートもあいつが落としたにちがいないぜ」
そこまで言うと灰はトロトロと目が合った。百緑が昨日拾ってきたチョコレートは他の動物が誤って食べないようにすぐに処分していた。トロトロはとろとろとしたところなら、どこへでも移動できる妖怪だ。だとしたら目の前のチョコレートはどこから調達したものなのか。灰の脳裏に嫌な予感がよぎる。
「ところでお前どうやってこっちきたんだよ?」
「そりゃ、三つ目狐にチョコレートを溶かしてもらったんだよ。俺と三つ目狐は古い友達だからな」
三つ目狐もうんうんと頷いている。
「昨晩、仕事終わりに泥遊びをしていたらドロドロさんが現れて、チョコレートを用意してくれって言われましてね。驚きましたよ。ドロドロさん今は泥の妖怪やめてチョコレートの妖怪になっているっていうんですからね。ホッホッ」
「で、そのチョコレートは?」
三つ目狐の額の目が三日月のように細くなりニヤリと笑う。
「あの子リュックにたくさんチョコレート入れていたでしょう? 1枚頂いたんですよ。ホッホッホッ」
悪びれずに笑う三つ目狐に灰は青ざめていた。トロトロの小さな丸い目はごまかせない。。
「お前もしかしてカッとなって、迷子の面倒を最後までみなかったんじゃないよな?」
「しょうがないだろ。山に物を落とすような無責任な奴は痛い目を見た方がいいと思ったんだ。きっと大丈夫だろ。方位磁石はあるし」
「うわぁ、ドン引き。銀色の包み紙のチョコなんて、どこでも売っているし! その子方位磁石使いこなせないんデショ?」」
潤を含めそこにいる狐たちがみんな灰のことを軽蔑のまなざしで見ていた。
「なんだよ! お前だって同じことするぜ! 俺たちは双子だからな!」
「こんな時だけ双子扱いしないでヨ! 俺は灰とちがって女の子なら誰にでも優しいんだから」
「潤様それはどういうことですか?」
「え! ちがうちがう! 俺が優しいのは女の子だけじゃなくてかわいい男の子でも……ってちがうヨ!」
睨みをきかせる紅に潤はしどろもどろだった。
「探しに行けばいいんだろ」
灰は逃げるようにその場を去ろうとするとドアには百緑が立っていた。すかさず紅が出迎える。
「百緑様おかえりなさいませ。いかがでしたか?」
百緑は首を横に振った。
「おい、百緑、俺はお前に聞きたいことがあるんだ」
怒りをにじませながら百緑の前に立つと、彼女は動じることなく灰のことを見上げる。
「どうされました?」
何事もないように言う百緑の態度が余計に灰の気に障る。灰は今にも怒りをぶちまけてしまいそうな、そんな危うさがあった。
「お前――」
「ちょっと待ってくださいよ」
そのピリピリとした空気に割って入ったのは三つ目狐だ。こう何度も大事な場面で邪魔されては、灰も我慢の限界だった。
しかし、三つ目狐はいつもの調子でホッホッと笑う。
「灰様、何に目くじらを立てているのかはわかりませんがね。百緑様にその気持ちをぶつける前にやることがありますわね。灰様は百緑様の申しつけを守られていないんですから」
灰はチッと横を向き、百緑の横をすり抜けてドアを出た。
「灰様はどちらへ?」
百緑は落ち着いた調子で紅に尋ねた。
「昨晩遭難した人間を探しに行きました。無事山道に戻れたのか確認ができていないようで」
「そうですか、では私も行きましょう」
百緑は帰ってきたばかりのドアへと踵を返す。
「私も行きます。灰様があのご様子では百緑様の身が心配です」
「じゃあ俺も行くー☆」
そうして灰と百緑、紅と潤は事務所を後にした。
残されたトロトロは心配そうに彼らを見送る。
「あいつらで本当に大丈夫なのかね」
「まぁまぁトロトロさん、久しぶり1局どうですか?」
三つ目狐は机の上にトロトロを置くと将棋の台を用意した。
「おお、懐かしいな。灰とちがってお前さんとなら楽しめそうだ。あいつは勝っても負けても面倒だからな」
パチンパチンと駒の音が響く。
「トロトロさん、私はね、彼らは大丈夫だと思っていますよ。素質っていうのはしばらくしないと見えてこない。将棋も同じ。何度も指すうちに筋が見えてくる」
「そういうもんかね」
トロトロは盤がチョコで汚れないように置く場所を指し示す。すると三つ目狐はその場所へと駒を移動させた。
「やはりトロトロさん、お強いですね」
「夜雀も強かったよな」
「ええ」
「でももう指せないのか」
「ええ」
「それが彼女の幸せだったってことか」
三つ目狐は相槌をせず、使い古した将棋盤をただ見つめていた。