4 ふたりきり
『スーパーモデルになってパリコレに出る』
プラスチックでできた赤い人形を動かすと潤の顔が輝く。
「紅ちゃんすごいヨ! 地下アイドルから大逆転ジャン☆」
「え! そうですか? 潤様こそ石油を掘り当てて世界経済を牛耳るなんてすごいじゃないですか!」
机に大きなボードゲームを広げて潤と紅はキャキャっと楽し気にはしゃいでいた。灰は少し離れた場所で椅子に腰をかけその様子を眺めている。
「ねぇ、灰の番だけど! 灰がサイコロ振らないなら次も俺振っちゃうヨ~?」
灰はフンと鼻を鳴らす。百緑が屋上に行ってしまったので潤は暇つぶしにと勝手にボードゲームを始めたのだった。
「俺は参加したつもりはない」
「そう、じゃあまた俺が代わりに振っちゃお~☆」
潤がサイコロを振るとコロコロと転がってぴたりと止まる。サイコロは4を示し、黒い人形は4コマ前へと進んだ。
『仕事で大失敗。さらに婚約者にもふられる』
「地味に不幸!」
笑い転げる潤に紅は内心ハラハラしながら灰を見ると、やはり灰は不機嫌な顔をしていた。
「つまらねぇ」
灰は立ち上がり、ドアに向かって歩き出す。その背中からはイライラとした空気が漂っていたが、潤がそんなことを気にするわけもない。
「どこ行くノ~?」
「どこでもいいだろ」
そう言うと灰は事務所から出て行ってしまった。
「灰様を怒らせてしまったのでしょうか」
心配する紅に潤はふふっと笑う。紅はその笑顔の意味がわからずに首を傾げた。
「大丈夫、大丈夫! さ、俺の番だネ」
潤がサイコロを振るとサイコロはコロコロと転がり、紅の前で止まった。紅が前足で取ろうとするとサイコロは逃げるように転がり出して紅の前足をすり抜けていく。紅は目をまん丸にして潤を見た。
「潤様、もしかして灰様のサイコロを?」
潤はにやりと笑った。
「こうでもしないと行けないんだよネ、素直じゃないからサ」
潤が指をくいっと上げると黄色の人形が命を吹き込まれたかのように動き出した。黄の駒は黒い駒をマスの外へと押し出す。潤はそこへ緑の人形を置いた。
「灰様は百緑様のところへ行きたかったのですか。私としたことが気づきませんでした」
「そっか。紅ちゃんは人の心が分かるんだよね」
「わかると言ってもなんとなくなんです。悪いこと考えているなぁとか、嘘をついているなぁとか……。私もおふたりのように百緑様をお守りできる特別な力があったらよかったんですけど」
潤は頬杖をつきながらうんうんと紅の話を聞いていた。
「紅ちゃんはちゃんと守ってきたじゃナイ☆ お人よしの百緑が利用されないためには紅ちゃんの能力が絶対に必要だヨ。それに紅ちゃんは俺と灰を見分けられるデショ?」
「ええ、分かりますけど」
紅には潤の質問の意味が分からなかった。潤の目はボードゲームの上に置かれたプラスチックの人形を手に取る。それはすべて同じ形で見分けるのは色だけだった。
「俺たちはこの人形と同じ。服装と話し方を同じにすれば家族以外には見分けることができないんだヨ」
「何を言っているんですか。潤様と灰様は人形と同じなんかじゃありません。おふたりは全然ちがいます」
きっぱりと言う紅に潤は嬉しそうに笑った。
「やっぱり紅ちゃんは特別だナァ♡」
おちゃらける潤に紅は「もうっ」とあきれ顔をする。灰の瞳は力強く雄々しい。それに比べて潤は柔らかく何かを包み隠しているような深い色をしていた。
「紅ちゃんが灰の気持ちに気づかないのは仕方ないことだヨ。恋心ってさ、やっぱり誰にも知られたくないものネ。でも想いが通じ合ったら幸せだよネ」
「そうですね」
潤は人形を動かし、黒い人形と緑の人形を向かい合わせた。
「俺、ふたりには幸せになってほしいんだ」
「潤様……」
マスに残された黄の人形はどこか悲しそうで紅の胸がきゅっと痛む。前足に押された赤い人形が黄の人形の隣に寄り添う。
「紅ちゃん?」
「潤様はずるをしたんですから私もずるしていいですよね?」
潤は嬉しそうに「しょうがないナァ☆」と笑った。
その頃灰は百緑に声をかけるべきか悩んでいた。勢いで事務所を出たはいいが、潤抜きで百緑と会うなど何百年ぶりのことだ。秋の夜は寒く、すぐに冷たい空気が身体中を包む。その中の見張りは孤独で辛い仕事だった。
(別に意味なんてない。話し相手になってやるだけだ)
意を決して屋上へと行くと狐姿の百緑は背をまっすぐに伸ばし暗い山に目を下ろしていた。星の光を反射するように瞬くその眼差しには、冷たい空気さえ跳ね返すような気迫が感じ取れた。
「そんな怖い顔で睨まれたら狼もたまったもんじゃないな」
「灰様」
振り向いた百緑は少し驚いた顔をしていた。
「狼は今日はもうこないと思うぜ。普通、敵が新しい手を打ってきたなら、作戦を練り直すからな。それに俺も見ててやる。お前は少し休め」
「でも……」
「潤に追い出されたんだ。俺の居場所もくれよ」
百緑の鋭かった眼光はたちまちに柔らかくなり人懐こく笑う。
「潤様と紅はすっかり仲良しですね」
灰が百緑の隣に腰を下ろすとアスファルトの冷たさが身体を伝い肩の傷がジンジンと痛む。先ほど狼と一戦交えたばかりの眼下はただ暗闇が広がるだけだった。
「花菖蒲様はお元気ですか?」
しばらくの沈黙の後、ふいに百緑が聞いたのはアヤメのことだった。アヤメと百緑は本当の姉妹のように仲が良かった。しかし、アヤメに『大切な存在』ができるとその距離は次第に離れていった。
「ああ、思ったより元気でやっているよ。今回も飽きずに入れ込んでるけどな」
百緑は物憂げにため息をついた。灰にはアヤメを心配する百緑の気持ちが痛いほどわかる。人間に入れあげた狐は山ほどいるが、その中でもアヤメは群を抜いていた。双子や百緑がいくら説得してもアヤメの気持ちは変わらない。いつしかアヤメは狐たちの中で孤立していた。
「花菖蒲様が九重会に入ったのは狐の世界に戻ったわけではなく、やはり『彼』のためだったんですね」
「ああ、あいつを守るのが九尾との交換条件だったからな。あいつのためなら力を利用されても構わないのさ」
「そんな――」
それを聞いた百緑は眉をひそめ怒りさえ滲ませていた。穏やかな彼女がそんな顔をするなんて珍しい。それほどに百緑にとってアヤメへの失望は大きかった。
「花菖蒲様は黙って九重会に屈するおつもりなのですか? 私とはちがって花菖蒲様には九尾様に対抗できる力がある。花菖蒲様がその気になれば灰様潤様、そして鳩羽様白磁様だってお味方になるはずですのに」
灰は横須賀でのアヤメと奏斗の関係を思い出していた。久しぶりに会ったアヤメは奏斗への思いを隠してはいなかった。しかし、ムジナの一件が終わるころにはどこか避けるような素振りを見せた。
「花菖蒲も初めから素直に従うつもりじゃなかっただろうな。あいつがすべてを思い出したら反旗を翻すつもりだったんだろう。だが前世での記憶を思い出すのはそう容易くない。桐生も裏切りを警戒して監視を強めているんだ。裏切りがバレればあいつの命はない。それに――」
灰は一呼吸置き、見えない敵を睨んだ。
「九尾には俺たちがまとめてかかっても敵わない。それを花菖蒲は知っているからな」
「じゃあ、花菖蒲様は……」
「ああ、諦めたんだ。前世を知らないなら知らないまま他の奴と幸せになることだってできる。だから花菖蒲はあいつの幸せを選んだ」
「そうまでして守りたいのですね」
百緑の胸から怒りは消え、その代わりにやるせない気持ちが押し寄せてきた。ふと空を見上げると風があまりないせいか空には灰色の雲がかかり、その間から時折小さな星の輝きが見えた。
「星は昔から変わりませんね。でも人の魂はちがいます。同じ魂とはいえ、見た目も人格もちがうのにどうしてそこまで惹かれてしまうのでしょうね」
灰は百緑の横顔を見た。昔から他人の痛みを自分のものにしてしまう優しい瞳は変わらない。
「さあな、俺の好きな女は昔から変わらないから分からないな」
百緑はほんのりと頬を染めた。
「私もあの頃とはだいぶ変わっておりますよ」
「わかっているよ。妖狐になりたくないと山に引きこもっていたお前が今じゃ何百という狐のお頭だ」
笑いながら言うその目はいつになく穏やかなものだった。
「私を変えてくれたのは紅です。紅がいなければ自分の役目に気づくことができませんでした。あの子は太陽のようにいつも私の道を照らしてくれるんです」
「確か紅という名はお前がつけたんだよな」
「ええ、あの子の色は太陽の色、燃える楓の紅色です」
百緑は両親の死後、自分の山に閉じこもっていた時期があった。そんな折に山へやってきた人間が連れていたのが幼い紅だった。紅はその赤い姿のせいで両親を失い、自らも呪術師の生贄にされるところだった。それを偶然にも助けた百緑は自分を頼る小さな存在に心を動かされた。それから百緑は紅とともに苦しむ狐たちを助ける旅に出たのだった。
「お前が突然、小さな紅を連れて旅に出ると言ったときは驚いたぜ。あの時はお前にしがみついて離れない甘えた子狐だとしか思わなかったが、不思議な力を持つ狐だったんだな」
「あの子でしたらおふたりを間違うことはありません。きっとうまくやっていけると思いますよ」
「昔の俺たちみたいにか?」
百緑は「ええ」と静かに笑う。その答えに灰は不服そうだった。
「紅が俺たちを見分けられるからといってお前の代わりになるわけじゃない。お前が俺たちをどんなに追い越していこうとな」
「追い越すだなんて私はおふたりと花菖蒲様に追いつきたかっただけなんです」
灰が百緑を見つめる瞳はいつになく力強いものだった。
「俺はお前を越えてみせる。そしてお前をまた守れるようになったらその時には――」
冷たい風が灰と百緑の間をすり抜けていく。今の灰には風が通る隙間もないほどに近づくことはできなかった。その代わりふたりの間に割って入ったのは大きなアーモンド形の瞳だった。
「百緑様!」
どこからともなく三つ目の狐がひょっこりと出て来たので灰の顔が引きつる。
「お前いつから?」
「あら、お取込み中でした? でも急ぎでしてね。ホッホッホッ」
三つ目狐が意味ありげに笑うと灰はふんと顔を背けた。
「どうしたの?」
すっかり支所長の顔に戻った百緑は三つ目狐の話を聞こうと身を乗り出していた。
「人間が一人、迷っております。若い女で山は不慣れな様子でございますよ」
三つ目狐は人間がいる山の方向を指し示した。
「そう、こんな夜中に心細いでしょうね」
「本当にねぇ、私は変化すると目が三つの人間になっちゃいますからね。それじゃお化けですものねぇ。百緑様はもちろん行けませんし、紅は人間に化けても赤毛で目立ちますからね。誰か暇そうで変化の上手な男前がいたらねぇ」
三つ目狐の目がじっとりと灰を映した。
「ダメよ。灰様は怪我をしているんですから」
「でも元気そうですよねぇ。なんてたって百緑様を口説こ――」
「行けばいいんだろ! 行けば!」
半ば怒鳴りながら請け負うと三つ目狐は満足気だった。
「灰様、無理はしないでください」
「人間に会って山を降りられるようにすればいいんだろ! それくらい俺にだってできる」
「いってらっしゃいませ。ホッホッホッ」
2匹の狐に見送られ灰はひとり山の中へと消えて行ったのだった。