3 足りないものは
事務所にいる狐たちは一斉に窓や入り口に集まると、狼がマンションの中に入ってこないよう自らが壁となった。
「ずいぶん原始的だな」
「狼たちは妖怪化していない普通の狼なんです。彼らを傷つけずに百緑様をお守りするにはこの方法が一番なのです」
本来、九重会のマンションは妖怪のような力を持っていない動物たちのために開け放たれている。それ故に狼たちはたやすく百緑の領域に侵入することができた。
「でもこれじゃ、狼たちに襲われてこいつらが怪我するだろ」
「いいえ! 百緑様は今まで狼も狐も傷つけたことはありません」
誇らしげな紅に潤は優しく微笑みかけた。
「傷つかないかもしれないけど、それじゃあ事態は何も変わらないよネ☆」
紅の耳はシュンと垂れさがる。潤の言っていることはもっともなことだった。
「だから俺らが呼ばれたんだろ」
「ええ、そうです。私にないものをおふたりは持っていますから、きっと良い方向に動き出すはずです」
百緑は窓に向かい歩み出ると壁を作っていた狐たちが場所を開けた。隙間からのぞいた百緑の瞳が曇る。
「灰様潤様、屋上に行きましょう。今日は数が多い。屋上の方が全体を見渡せます」
紅が先導し、屋上へ行くと無数の黄色い目がぐるりとマンションを取り囲んでいるのが見えた。蛍のようにも見えるその光景に、グルグルといううなり声が地鳴りのように響く。冷たい空気が振動し、狼たちの緊迫・怒り・殺意が伝わってくる。
「一つの山の狼にしては多いな。弧光って奴はどいつだ?」
「弧光はここへは来ません。ここにいるのは彼に従う狼たちです。これだけ数がいるのは他の山の狼たちも噂を聞きつけて助太刀に入ったのでしょう。弧光は他の山のリーダーをも統べる頭領ですから」
「ほう、名実ともに王ってわけか」
狼たちの数は確認できるだけでも百を超えていた。狼たちの瞳がじりじりとマンションに近づいてくる。
「おふたりの力を狼たちに見せつけてください。そうすれば弧光も他の手を打つしかないでしょう。ただし狼たちには傷をつけないようお願いします」
「難しいことを言う」
しかし、その顔はにやりと笑っていた。
「まかせておけよ」
「ひと暴れしちゃうヨ☆」
灰と潤は狐の姿となり垂直のマンションの壁を駈け下りた。それに気づいた狼たちの白い牙が月明りに浮かび上がる。
「噛みつけるもんなら噛みついてみろよ」
先に地面に到達した灰が挑発すると狼たちは牙をむき出しにして襲い掛かった。灰が念力で狼たちを弾き飛ばすと潤が地面に落ちる前に枯れ葉のクッションで狼を守る。それでも狼たちは次々と灰を襲い、きりがない。
「しつこい奴らだな。まぁそろそろいいか」
すると潤も灰の隣に並ぶ。2匹は尾を絡め7尾の狐になった。ビリビリと伝わるその強大な力に狼たちはたじろぎ後ずさりをする。力の差は歴然だった。
「ここから先には入れねぇよ」
7尾の狐灰潤が目を光らせるとどこからか鋭い枝が無数に立ち並び、瞬く間に立派な砦が出来上がった。砦を前に狼たちはなす術もない。その鋭い砦を乗り越えようものなら命すら危なかった。
屋上から見ていた紅はその姿に目を奪われていた。
「すごい。合体すると力も2倍以上になるのですね」
「ええ。本当にお強い。でも狼たちは引き下がらないわ」
百緑の言う通り、狼たちに山へ戻る気配はなく、群れの中から他の狼よりも大きな狼が前へと出てきた。他の狼たちはその狼にひれ伏し、服従の意を表している。
「あれ? 弧光って来てないんじゃんかったァ?」
「リーダーの一匹だろ」
多重人格のように話す狐に狼たちは怪訝な顔をする。しかし、その1匹は毅然とした態度で灰潤に向かい合った。
「弧光が出るまでもない。勝ち目がないのはお前たちだ。お前たちは無力。百緑は我々が頂いていく」
狼が言うと他の狼たちは立ち上がり遠吠えをして自らを奮い立たせた。
「ふざけるなよ」
灰の怒りに呼応するように一つになっていた身体に二つの影が揺れた。それを見た狼の目があやしく光る。
「百緑に俺たちを傷つけないよう言われているんだろう? つくづく甘い女だ。だが俺たちは傷つくことも死ぬことも怖くはない。お前たちは女の戯言に付き合う腑抜けた狐だ」
次の瞬間、灰潤の身体は2つにさけ、2匹の狐に戻っていた。しかし、灰の目つきは冷たく正気を失っている。それに焦ったのは潤だった。このままでは灰が狼を殺しかねない。
「ちょっと! 灰! 落ち着きなヨ! 狼は傷つけない約束デショ!」
「こいつらは少し痛い目を見た方がいい」
潤が止めようとするのを振り切り、飛び上がると狼めがけて襲い掛かる。狼たちも飛び掛かったがその相手は灰ではなく潤だった。意表をつかれた潤はすぐに応戦しようとするが、百緑との約束が頭をよぎり出方が遅れてしまった。
「お前たちこそ少し痛い目を見た方がいい」
リーダーの狼が灰に言い放つ。灰の目の前で潤が狼の牙に貫かれようとしていた。
「潤!」
身体が勝手に動き、気づいた時には潤と狼の間に割って入っていた。
「ぐッ」
灰の肩に狼のするどい牙が食い込む。リーダーの狼が目くばせをすると食いついていた狼は口を離した。
「灰! よくも!」
流れる血を見た潤もまた頭に血が上っていた。灰がにやりと笑う。
「潤、やっとやる気になったか」
灰は目を大きく見開く。すると小枝、葉、石、ありとあらゆるものが殺気を帯びて浮かび上がった。このままでは多くの血の流れる争いになることは誰が見ても明らかだった。
「百緑様!」
「わかっています」
百緑は全体を見渡し、気を集中させると静かに目を閉じる。次に瞼を開けると百緑の瞳の色は青と赤に変わっていった。
狼に反撃しようとした瞬間、灰は激しい眩暈に襲われて膝から崩れ落ちた。
「クソ!!」
灰が念力をこめた小枝が夜の空へと吸い込まれ、葉や小石も目的を見失かったかのようにくるくると風に舞う。立ち上がろうとするが上下はおろか前後左右の感覚がわからない。かすむ視界を狼たちが次々と山へ帰っていくのが見えた。
「逃げるな!」
無重力のような感覚の中、やっとのことで前に進み、狼を追う。狼に掴みかかった瞬間、灰が襲おうとしているのは申し訳なさそうな顔の百緑だった。
「狐が狐に化かされるとは。ホッホッホッ」
三つ目の狐が笑う。灰が立っていたのは山の中ではなく事務所の床だった。
「オエー吐きそうだヨォ」
「大丈夫ですか?」
隣では苦しそうに嗚咽する潤を紅が看病していた。すでに人間に化けている潤の顔は真っ青だ。潤が酔うのも無理はない。灰もまた突然、体の自由を奪われぐるぐると回るジェットコースターに何十回も乗せられた気分だった。
「ねぇ、紅ちゃん、俺は止めたんだヨォ」
「でも戦う気満々でしたよね」
紅に睨まれると潤は「オエッ」とわざとらしい嗚咽をした。
「術をかけたな」
「申し訳ありません。狼を傷つけるわけにはいかないのです」
百緑の瞳の色は黄と緑に戻っている。百緑の能力は瞳の色が変わっている間、狙った相手の感覚を支配することだった。
「狼たちにおふたりの強さを存分に知らしめることができました。それに約束通り狼たちはみな無傷です」
「狼たちも俺めがけて走っているつもりが気づいたら山の中なんだろうな。全く面倒な能力だぜ」
開け放たれた窓の外からは遠吠えはおろか風の音もしない。
人間に化け、ソファになだれ込むと肩にズキリと痛みが走った。百緑は灰の隣に腰を下ろす。
「早く手当を」
灰は黒いTシャツを脱いだ。隆々とした筋肉は食い破られ、血があふれ出している。そのあまりのひどさに傷を見た百緑の息が一瞬止まった。
「おい、これはゲームじゃないんだ。戦いに傷は付き物なんだよ」
「すみません……」
傷に布を押し当てると布はみるみる赤く染まっていった。百緑の瞳から涙が零れ落ちる。
「泣き虫は昔から変わらないな。お前、支所長なんだろ。ここにいる奴らはみんなお前のために命を懸けてるんだ。情けない顔は見せるな」
事務所にいる狐たちの視線がすべて彼女に注がれていた。百緑は唇を噛みしめて涙をこらえる。灰は百緑の頭を撫でた。
「こんなの屁でもねえよ」
「そうだヨ。気にすることないヨ☆」
「お前は気にしろよ!」
いつもの双子のやりとりに百緑の笑顔も戻った。
「ねぇ、でもやっぱり傷つけないって難しいよネ。百緑の能力で狼たちを異次元の森に放り込んじゃうっていうのはダメなのォ?」
「そんな横暴なことダメに決まってます!」
潤の発言にすぐに紅がダメ出しをするが潤は納得がいっていなかった。
「潤様、それでは狼の心を殺してしまうのです」
澄んだ黄と緑の瞳には力強さが戻っている。
「心を殺す?」
聞き返すと百緑は大きく頷いた。
「狼は絶対的な縦社会です。そして、その忠誠心は他に類をみません。一見、縦社会というのは従うものが上に立つものを支えているように感じますが、実際は上に立つものが従うものたちの心を支えているのです。もしも今、他の狼を異次元に送ったとしたら、支えを失った狼たちが異次元の森で生きていくことは難しいでしょう」
灰は顎に手を置きため息をついた。
「結局、弧光と話をつけないと道はないってことか」
話を聞いていた三つ目の狐がニヤニヤと灰と百緑の前にやって来る。
「まぁまぁ、皆さま。そう暗い顔をしなさんな。これからは守りだけでなく、王将に向かって攻める手が打てますよ。攻撃は最大の防御なり……ただ、灰様は百緑様の名が出ると冷静さを欠いてしまうようですがね。何故なんでしょうねぇ? ホッホッホッ」
灰は三つ目狐を睨んだが狐はにやけた顔のまま額の目を大きく開けて百緑に見せた。その大きな瞳の瞳孔は先ほどよりも大きく、アーモンド型に膨らんでいる。
「百緑様、そろそろ……」
「あぁ、もうそんな刻限なのね。教えてくれてありがとう。みんなお疲れ様。今日の仕事はおしまいにして下さい」
するとぞろぞろと百緑に挨拶し、事務所を後にする。残ったのは双子と百緑、そして紅だけだった。
「どゆこと?」
きょとんとする潤に紅が説明をする。
「3つ目の瞳孔が時計代わりなんですよ。三つ目狐の瞳孔は猫みたいに時間で変わるんです」
「いや、そうじゃなくてネ。仕事終わりなの? 狼だってまた襲ってくるかもしれないヨォ?」
「ここで働く決まりなんです。どんなに百緑様のお力になりたくても、自分の時間を持たないものはここで働くことはできません」
あれだけ狐でごった返していた事務所は急に静かになっていた。
「潤様の言う通り、まだ気は抜けません。私はこれから屋上に行きしばらく様子を見てきます。灰様潤様はどうぞごゆるりとしてください」
「そんなのあれだけいる狐の誰かにやらせればよかったじゃないか」
「いいえ、この場所を守るのは支所長である私の務めです。鳩羽様、花菖蒲様もやっていることですよ。狐は敵が多いですから」
百緑はくるりと翻り狐の姿になる。彼女の穏やかな瞳を取り囲む銀色の隈取がキラキラと細かな輝きを放つ。その背には7本の長い尾がふわふわと昇り、天井は彼女の尾で覆いつくされた。
「なぁ、俺たちも合体すれば7尾だ。ということはお前に勝てば支所長になれるってことだよな」
「そうですね。でもできることなら兄のように思っているおふたりとは戦いたくはありません」
「狼の言う通り、本当に甘い女だな」
百緑は微笑む。
「落ち着きましたら1局さしましょう。それで決めるのはどうですか?」
「いいぜ」
「何勝手にきめてんノ? 絶対勝ち目ないジャン! ヤダヤダー!」
駄々をこねる潤を紅がはいはいとなだめる。紅はすっかり潤の扱いに慣れていた。
「では行って参りますね」
そう言うと百緑はひとり屋上へと向かう。後姿になびく尾は言い表せないほどに美しく、紅はうっとりと見惚れていた。そんな紅に灰は呆れた顔をする。
「おい、お前毎日一緒にいるのに飽きないのか?」
「飽きるだなんて! 私は毎日百緑様のお供ができる幸せを噛みしめています!」
紅は本気だった。それは好意というより崇拝しているといった方が正しい。
「俺たちの妹はみんな、遠いところにいっちゃったみたいネ。あ、灰にとって百緑は妹じゃないか」
「バカ言うな」
「紅ちゃん、灰はネ~、百緑のことがまだ――」
事情がわかっていない紅は身を乗り出して興味津々だった。
「お前本当にふざけるなよ!」
「お、やるノ?」
いつものように兄弟喧嘩が始まったが、喧嘩をしているふたりの心は同じ気持ちだった。百緑と同じ7本の尾を手に入れ、力も十分にあった。しかし、ふたりには何かが足りない。それが何なのか二人にはまだわからなかった。