14 愛しいひと
「大丈夫ですか?」
ぐっすりとよく眠っているムジナの子を時折気にしながら歩く奏斗をハレは見上げた。奏斗の手には途中で抜いた小さな木が握られて、その枝から伸びたツルが歩くたびに揺れている。
「うん。なんか眠れそうにないしね」
日がすっかりと昇った山は夜とはまるでちがう顔を見せる。木の葉は太陽に照らされてきらきらと緑色に輝き、葉の間から見える空は青く澄み渡っていた。奏斗はハレとともに鳥たちの楽し気なさえずりの中を歩いていた。
奏斗は歩きながら桐生との短い会話を何度も繰り返し思い出す。
電話の外線ボタンを押すと奏斗が声を出す前に受話器の向こうから落ち着いた声が響いた。
『やぁ、奏斗君。電話には君が出ると思ったよ』
男性にしては少し高いその声は人を傷つけるようなものではなく、柔和で気品さえ感じる。だが奏斗はそのすべてを見透かした話し方がどこか胸につかえて気分が悪かった。
「アヤメさんは電話に出られないので、僕が代わりにお話を聞きます」
『まぁ、そうだろうね。ハクビシンとムジナは301号室から異次元の森へと行くといい。あそこは果物が豊富だし、仲間たちともうまくやれるはずだよ』
誰が話したわけでもないのに桐生は指示を出す。『監視している』奏斗は灰のその言葉を思い出し、事務所にその痕跡を探した。しかしそんな怪しいものがあればアヤメが気づかないわけがない。
『灰がおかしなことを言ったようだが盗聴器やカメラがついているとでも思っているのかい? ここは九重会だ。そんな人間のガラクタなど使うわけがないだろう?』
「アヤメさんを信じていないんですか?」
自然と奏斗の声には力がこもっていた。桐生はクスクスと押し殺すように笑う。
『君は何をそんなに怒っているんだい? 私は彼女の父であり上司だ。そして君は彼女の部下にすぎない。その君が私に意見する権限はないんだよ』
噛みしめた唇から血の味が広がる。桐生はそれすらも見えているのか、満足そうに話し続けた。
『君にひとつ、いいことを教えてあげるよ。君がどんなに恋い焦がれても彼女と結ばれることはない。彼女には800年もの間、ずっと愛し続けている男がいるんだ。彼女の愛に君の恋は邪魔なだけさ』
奏斗は自分の心が崩れていく音を聞いた。桐生は嘘をついていない。それは奏斗が一番よく分かっていた。アヤメの瘴気の中で見る幻は偽りのない真実の世界。その世界のアヤメは奏斗の知らない男の妻だ。彼女がその男を深く愛していることは明らかだった。奏斗はそのことをただの幻想に過ぎないと自分に言い聞かせ、目を背けてきた。
『ふふふ、そろそろ時間みたいだ。こう見えて忙しい身でね。花菖蒲が目を覚ましたら伝言を頼むよ。君にプレゼントを用意したとね。彼女はきっと喜んでくれるはずだよ。じゃあまたね、奏斗君』
ツーツーツー
通話が切れた後も電話を持ったまま黙り込む奏斗をトロトロはのぞき込む。
「大丈夫か?」
「大丈夫なわけないだろ。眼鏡はまんまとあいつにやられちゃっているぜ」
「眼鏡くん、桐生はみんなに嫌な奴なんだヨォ。だから気にしないでェ」
「それフォローになってないだろ」
奏斗は電話を置くと眠るアヤメを見た。心が崩れてなくなってしまうのなら、どんなに楽になるだろう。しかし、心は一層強く彼女のことを求めていた。
「少し外の空気を吸ってきます」
「あ、待ってください」
部屋を出ていこうとする奏斗を引き留めたのはハレだった。
「あの、お願いがあるんですが―ー」
ハレのお願いはムジナの事故現場へと連れていくことだった。異次元へと行く前にハレはムジナの子とともにムジナに挨拶をしたかったのだ。そうして奏斗はムジナをシャツの懐に抱き、ハレと山を歩いていた。
事故現場はまるで何事もなかったように、その痕跡は消えていた。人でないものが起こした事故は九重会によって隠ぺいされる。しかし車がぶつかった木は再生ができず、その場所だけがぽっかりと空いていた。
奏斗はそこへ穴を掘るとムジナのワンピースを埋め、その上に持っていた木を植えた。手頃な枝を見つけツルを巻きつけると、たくさんの黄緑色をした小さな蕾が垂れ下がる。
「たくさん実がなるといいね」
この場所にその木を植えたいと言ったのはハレだった。
「はい。山ぶどうは私たち家族と穴熊が分け合いながら食べていたごちそうでした。いつかこの実を生き物たちが仲良く分け合う日がくるように。この木は私たちの願いです」
山ぶどうはまだ花も咲いていないが、秋になれば紫色の実をつける。ハレはその実を見ることはない。だがその頃にはハレとムジナの子も、異次元の森での新しい生活に慣れていることだろう。
奏斗たちが帰ろうとすると道路に見慣れない車が走ってきた。ここは九重会の私道なので関係者しか使うことはない。奏斗は首を傾げた。するとグレーのコンパクトカーが奏斗たちの前で止まる。
「よかった。道に迷っていたんです。この道、ナビにも出てこなくて」
そう言って窓から顔を出したのは若い男だった。
「ここは私有地なんです。来た道を戻れば帰れますよ」
奏斗の足元にいたハレは警戒しながらその男を見た。すると男もハレに気づき驚いた顔をする。
「あ、僕、自然保護団体の職員をしていて……」
焦った奏斗だったが、説明しようとした彼を遮って男は大きな声を上げた。
「この動物だ!」
「え?」
男はエンジンを止め、車から降りるとハレの姿をまじまじと見た。
「黒くて顔に白いライン、間違いない。今朝方、変な夢を見たんです。その夢にこの動物が出てきて『山に行けば探しているものが見つかる』そう言ったんです!」
男の言葉にハレはすぐにピンときた。
(もしかしてキリ兄さん……? じゃあこの人は……)
男は自分が言っていることが普通ではないことに気づき、頭をかく。
「す、すみません。変なことを言って」
奏斗は確かに驚いていたが、彼もまたこの不思議な出会いが偶然ではないことを感じていた。奏斗は懐で眠る小さなムジナの子を両手に乗せて男に差し出した。
「いいえ、こちらも変なことを言いますが、この子を抱いてやってはくれませんか? この子を抱けばきっとあなたが探している人に会えます。この子にはその力があるんです」
男は言われるがままにムジナの子を抱きしめた。その温かさはじんわりと腕に伝わり、男は瞳を閉じた。するとまぶたの奥に花柄のワンピースを着た女が浮かび、男に笑いかけている。
「ずっと探していたんだ! 今までどこに―—」
女は口元に指をあてる。見れば女の腕にすやすやと眠るかわいらしい赤ちゃんがいた。男はその赤ちゃんを見ると今までに感じたことのないほどの感動が胸に押し寄せて、愛しい気持ちがあふれ出す。
「こんなかわいい子は見たことがない」
男が言うと女は男に赤ちゃんを渡した。すると赤ちゃんの甘い香りがほんのりと鼻をくすぐる。女は男の腕で眠る赤ちゃんに優しく微笑みかける。
「ええ、それにとても優しくて勇気があるの……だから大丈夫よ」
「そうか、君はひとりじゃないんだね」
女は幸せそうにうなずく。男が目を開けると腕の中には毛で覆われた小さな獣が眠っていた。
「今日は不思議なことばかりだ」
眠るムジナの子は赤ちゃんと同じ匂いがした。ムジナを見ていると彼女がそっと見守ってくれているそんな気がした。
「もしかしたら彼女は僕が見た幻だったのかもしれない。でもそうなんだとしても、僕は彼女のおかげで愛を知った気がしたよ」
「愛ですか……」
そう言った奏斗の目が悲しみに沈んでいることに男は気づいた。
(そういえば、どうして彼は僕が探していたのが人だと知っていたんだろう)
ふとそんな疑問が浮かんだが、それを聞くのはやめた。彼の元へ導いたのは彼女だ。男はそう確信していた。
男はムジナを奏斗へ返すと車に乗り、来た道を引き返していく。男とムジナの子が会うことはもう二度とないだろう。それでもハレは男に会えてよかったと言った。
事務所に戻ると鳩羽は双子とともに書類を整理していた。山のように積まれていた書類は鳩羽によってテキパキとさばかれ、見習い狐たちも手伝ってだいぶ少なくなっている。
「おかえりなさい。疲れたでしょう。あなたたちも休みなさい」
そう言われても奏斗は眠くなんてなかった。ハレはベビーベッドに乗ると、ムジナの子の傍らで目を閉じる。その場を動こうとしない奏斗に鳩羽はふっと微笑む。
「真実は時に人を傷つけるけれど、それによって気づくことだってある。まずは気持ちを整理しないとね。眠りはそのための手段でもあるのよ」
確かに頭の中はぐちゃぐちゃで考えても解決することではないのは明らかだった。
「ありがとうございます」
双子は気を使っているのか奏斗に何も言って来ない。
「あ、おい! 奏斗」
奏斗が事務所を出ると事務机にいたトロトロが慌てて奏斗を呼び止めたが、彼には聞こえていなかった。
「おい、いいのかよ」
鳩羽は奏斗が出て行ったドアをまだ見ていた。
「彼は希望よ。花菖蒲にとってだけじゃない。私たちにとってもね。だから今は、時間の許す限りふたりでいさせてあげたいのよ」
書類を片付ける双子の手が一瞬止まったが、ふたりは聞こえないふりをしていた。
奏斗が自分の部屋に戻ると寝室には静かに寝息を立てるアヤメの姿があった。事務所にアヤメの寝室はない。だからきっとここに寝かされたのだ。
気持ちよさそうに眠るアヤメはいつもの大人っぽい姿とちがい、少し幼く見えた。それは初めて会った時の彼女を思い起こさせる。
彼女ともっと話したい、もっと一緒にいたい。アヤメは出会った時からそう思わせる女の子だった。彼女が転校してしまった時、どんなに寂しい思いをしたか。でも昔と違い、再び出会った今は彼女と離れるなど奏斗には考えられない。
(僕、どうしようもないくらいアヤメさんが好きだ)
奏斗は寝ているアヤメの手を取った。桐生の言葉が頭をよぎる。他の男を愛している彼女が奏斗の想いを知れば、優しい彼女を傷つけてしまうかもしれない。でも眠っている今だけはアヤメのことを自分のものにしたかった。
「アヤメさん、僕から離れていかないで」
彼女の手を握りしめ懇願する。奏斗は彼女がいつかまた自分の元を去ってしまうようなそんな悪い予感がしていた。