13 眠るわが子
「おかえり……ってハクビシンじゃないか!」
事務所に戻ると留守番をしていたトロトロはハレの姿を見て驚いた。しかし、事情を説明するとすぐにハレを受け入れ、彼女の傍らで嬉しそうなムジナの子に胸をなでおろした。
「お前さんも大変だったんだな。でもこれでムジナの子と一緒に異次元の森へと行くことができるな」
ハレは静かに首を振る。
「いいえ、やはり私はこの子を見送ってから住んでいた山に残ります」
皆が驚く中、ムジナの子も不安そうにハレを見上げた。アヤメは重い吐息を吐く。
「それはどうして? 子を見捨てた私を許せないから?」
「ちがうわ。この子ならひとりでも生きていけると確信したからよ。それにこの世界のどこかで私の子は眠りについているはず……。置いてはいけないわ」
ムジナの子はすがるようにハレの体に飛びつくと叫び声をあげた。
「いやだ! かあちゃんと一緒じゃなきゃいやだ!」
ハレは自分の体に顔をうずめているムジナの子を引きはがすと、その小さな顔を押さえ目と目を合わせる。
「あなただってもう赤ちゃんじゃないんだから分かっているんでしょう? 私はコワイノと同じハクビシンよ。あなたのお母さんはあなたのために命を懸けた立派なムジナだった。そしてあなたももう『コワイノ』に立ち向かえるほどに立派なムジナになったのよ。ハクビシンである私がいつまでも母親代わりをするわけにはいかないわ」
言い聞かせるハレに反抗し、押さえられていた手から逃れるとムジナはまたハレに飛びつこうとする。しかし、ハレは受け止めずムジナの子はベタンと床に落ちてしまった。奏斗たちは黙ってそれを見守るしかできなかった。
「ムジナなんて知らない。僕のおかあちゃんはおかあちゃんだ!」
ムジナの子は何やらうーんうーんとうなりだす。すると次の瞬間ポンと変化をした。それは黒く白い線の入ったハクビシンの姿だった。
「これだったら、かあちゃん、ボクのかあちゃんでいてくれるんでしょ。ぼく、頑張ってかあちゃんの子になるから」
しかし、変化は続かずすぐに元のムジナの姿に戻るとムジナの子の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「ぼうや」
ハレはたまらずムジナの子を抱きしめた。
アヤメはポケットからハンカチを取り出すとそれを広げてみた。ハンカチに浮かび上がっていた獣の顔はもうない。
「ムジナはこの子だけを守っていたんじゃない。あなたのことも守ろうとしていたわ。それはこの子にはまだ母親が必要だからじゃないかしら」
奏斗はハンカチのムジナがかすれながらに言った言葉を思い出した。
『オネガイ タスケテ アゲテ』
それはハレに向けられた言葉だった。
「ハクビシンの私がこの子の母親にはなれるはずがないのに……」
見た目は違えども寄り添う姿は『親子』としか言い表せない見えない絆でつながっていた。一緒にいるだけで心強く、温かい気持ちになる。それはアヤメにも心当たりのある感情だった。ふと鳩羽を見れば鳩羽もまたアヤメを温かい目で見つめていた。
「お互いに母だと思い、子だと思う。親子になるのにそれ以外、必要なものなんてないわ」
鳩羽の言葉がハレの迷いを消し去っていく。しかしハレにはもう一つ気がかりなことがあった。
「でもあの子は……」
「あなたの子は必ず私が見つけ出してみせる。約束するわ」
ハレは透明な涙を流し、小さくうなずく。子が見つかったとして喜ばしい再開になる可能性は低い。しかし、それがアヤメにできる唯一のことだった。
「ぼうや、私のぼうや」
優しくそう呼びかけるとムジナは安心したのか、いつの間にか母の腕の中で眠りについていた。
「俺は母親を鬼としか思ったことがないがな」
「鬼狐だよネェ。ねぇ、そんなことより何か忘れている気がするんダケド!」
「ああ、確かに。霧雲と戦っている時のことだよな」
すっかりソファでくつろいでいた灰と潤は気にかかっていることを思い出そうと首をひねっていた。すると灰が目を見開いてニヤリと笑う。
「あいつ、どさくさに紛れて『兄さんたち』って言っていたよな」
「言ってた! 言ってた! 確かに言ってた! 花菖蒲の100年に一度のデレがキタァ!!」
身を乗り出して大声でわめくと穏やかだったアヤメの目がキッと吊り上がる。
「誰かさんたちが、名前がダサいって言ったからでしょ。そうやってくだらないことばかり気にするから尾が7本あったことにも気づかないのよ」
「ん?」
灰と潤の動きが止まり同じ角度で斜め上を向く。3尾の2匹が合体すれば単純に考えれば6尾の狐になるはずだった。しかし、7本目の感覚が生々しく蘇る。
「1本多いな(ネ)?」
「おまけみたいなものじゃない」
「よかったじゃない。おめでとう」
アヤメも鳩羽も双子の尻尾のことなど全く興味がないのか冷ややかだった。しかし、灰と潤は目を輝かせてガッツポーズを取った。
「7尾の百緑なら勝てる!」
「ってことは俺たちも支所長? グフフ~」
鳩羽は双子に向かってピッっと指を上げると二人の頭がゴチンとぶつかり悲鳴を上げた。
「黙りなさい。小さな頃から百緑に勝ったことがないのに、よく言えたものね。だいたいあんたたちは支所長の器じゃないわよ」
アヤメは双子を無視してハレとムジナの子に笑顔を向けた。
「よかったらベビーベッドを使って」
二匹をベッドへと乗せるとアヤメの足元がふらふらとして倒れそうになった。
「アヤメさん! あぶない!」
奏斗は思わず手を伸ばしたが、それよりも早く鳩羽が彼女の後ろにまわっていた。
「あんなに邪気を吸い込んだんだから無理もないわ。あなたも休みなさい。どうせ普段からろくに休んでいないんでしょうし」
ギクリとしたアヤメは慌てて鳩羽から離れようとするが鳩羽はアヤメを離さない。
「だ、大丈夫よ」
「大丈夫なものですか。昔から言っているでしょ。睡眠はなくても生きていけるけど必要なものなのよ。たまにはゆっくりと体と心を休めなさいとあれだけ言っているのに。大きくなったって何も変わらないわね。お父さんにも言っておきますよ。花菖蒲がまた無茶して―ー」
止まらない鳩羽の説教に奏斗はポカンとしていた。みるみるアヤメの顔が紅潮していく。
「ねぇ、やめて、母さん……」
「そうね、ボーイフレンドの前だものね。—-なんて言うと思ったら大間違いよ」
「や、やめてったら!」
鳩羽が嫌がるアヤメの背中を何度か撫でるとアヤメはたちまちに深い眠りについた。眠ったアヤメを双子に託す。
「あの技なんなんだ」
「念力ともちがうよネェ」
双子たちは改めて母親に恐れを抱いていた。すると鳩羽がふたりに手をかざす。
「あんたたちが子どもの頃、こうやって寝かせてきたのよ。あんたたちも寝かせてあげましょうか?」
双子は揃ってブンブンと首を振った。鳩羽はふふふと笑う。
「冗談はさておき。そろそろ電話がかかってくるころかしら」
鳩羽は事務机に置かれた電話に目をやる。
「え? 誰からですか?」
事務所での連絡手段はそのほとんどが草花に念を乗せたもので、後は時折使いの狐たちがやってくるくらいだった。奏斗が九重会に入ってからその電話が鳴ったのを聞いたことがない。
「本部の人間よ。人間で九重会に入ったのはあなたが初めてだけど、彼はいわば、玉藻とともに九重会を作った人間よ」
「それってもしかして……」
鳩羽はうなずく。
「そう、桐生の前世は花菖蒲の父親だったの」
アヤメは双子の間でスース―と規則正しい寝息を立てている。クモが桐生の話をした時の反応を見る限り、アヤメが彼のことをよく思っていないのは確かだ。
「アヤメさんのお父さん……」
「『お父さん』だなんてこいつに言わない方がいいぜ。こいつは桐生を父親だと思っていない。それに俺たちもこいつの父親は俺たちと同じ、白磁だと思っているからな」
奏斗はアヤメから白磁の話を聞いたことがあった。白磁は4尾の狐であり熊本で支所長をしている。
『白磁は無口だけど九重会で一番優しくて気高いのよ』
アヤメは誇らしげにそう話していた。
「白磁も花菖蒲を本当の娘と思っているわ。今回も白磁に助けを求めるべきか悩んだけれど、稲荷の眷属をしている彼はむやみに力を使えないのよ。それでも娘のためなら何でもしてしまうでしょうね。念力で山一つくらい消しちゃうんじゃないかしら」
「そうそう、桐生なんかよりずっと父さんの方が花菖蒲のこと大事にしているよネ~」
双子はうんうんと同時にうなずく。
「でもなんでその人が電話をしてくるんですか?」
「妖怪を異次元の森へ送るには彼の許可がいるのよ。エネルギーの強い妖怪は異次元の森へと行くことは許されない。ハレとムジナを送るのは例外中の例外ということ。でも2匹とも妖怪になって日は浅いし、きっと大丈夫よ」
しかし、奏斗は解せない。それならばこちらから電話をするはずなのに、どうして電話がくるのだろうか。
プルルル プルルルル
「きた。花菖蒲を監視しているなんて本当に悪趣味だぜ」
高い機械音にかぶさるように灰が吐き捨てる。
(監視?)
その響きに奏斗の心がざわざわとして、気づけば鳩羽より早く受話器を手にとっていた。
「僕が出ます」
アヤメが桐生を嫌う理由はわからない。ただ彼女を苦しめている桐生がどんな男なのか奏斗は確かめたかった。