2 異次元の森
「今からどこに行くの?」
静まり返るエレベーターの中で、奏斗が小さな声で聞いた。
「狸の新しい家だけど?」
内心はこんな夜中に行くのかと疑問に思ったが、夜行性の動物たちに合わせているのだと思えば、夜に来いと言われたのも納得がいく気がした。
しかし、エレベーターは下まで降りずに2階で止まり、ドアが開くとアヤメと狸たちが当たり前のように降りて行った。2階に何の用があるのか分からない奏斗も、置いて行かれないように慌ててエレベーターを降りる。そしてアヤメは203号室の前で足を止めると、ドアノブに鍵を差し込みガチャリとまわした。
「ここが新しい住み家だよ」
「え! マンションに住むの?」
しかし奏斗の疑問はドアを開けた瞬間にちがう疑問にすり替わっていた。そこは草木が生い茂り、部屋の境界もない。ドアの向こうは自然があふれる世界が広がっていた。
「え? この部屋は外にでるの?」
奏斗の質問にトロトロは鼻で笑った。
「バカだなぁ。マンションの扉が外に出るわけないだろ」
「じゃあどこに?」
「そんなの異次元の森に決まっているだろ」
「決まっているって言われてもわかんないよ。異次元の森なんて聞いたことがないもん」
奏斗は釈然としなかったが、マンションの造りからしてもこの部屋から外に出るのは不可能だった。
「なんだよ、そこから説明しないといけないのかよ。このマンションはすべての部屋が異次元へとつながっている。動物たちはそこで人間に脅かされることもなく平和に暮らしているんだよ」
「動物だけじゃないけどね」
アヤメがそう付け足すと母狸は犬のように奏斗の足へと前足をかけた。母狸は必死に何かを伝えているようだが奏斗には何を言っているのかさっぱりわからない。すると話が終わったのかアヤメが代わりに返事をした。
「わかったよ。その『イタチ先生』のことはこいつと私たちで何とかするから。安心して中にお入り」
アヤメの言葉を聞くと狸はホッとしたように子狸を連れて部屋の中の茂みへと消えていく。
「ごめんね、アヤメさん。僕にはまったく理解できなかった」
奏斗は必死に語り掛けていた母狸を見て、狸の言葉を聞こうと頑張ってみたが何も聞こえなかった。
「しょうがないわよ。人間だもの。狸はね、削られている山の中にひとり残って人間と戦っている『イタチ先生』を気にかけていたのよ」
「じゃあ明日は大松山の『イタチ先生』のところへ行くのか?」
トロトロが聞くとアヤメはドアに鍵を閉めながら頷いた。
「うん。大松山は上からも調査依頼が来ているのよ。山を削る作業員の服だけが鋭利な刃物で何者かに切られる事件が相次いでいるんだって。しかも犯人の姿も見えないっていうので作業員が気味悪がって工事が進まないらしいのよ」
「カマイタチか……」
「たぶんね」
奏斗はふたりの会話がちんぷんかんぷんだった。今度は聞き取れるのに内容が理解できない。
「でも何で人間のこいつにイタチのことを頼むんだ?」
「奏斗は生粋の獣たらしなのよ」
トロトロは面白いものでも見るように奏斗を見た。
「ふぅん、お前は不思議なやつだな」
見るからに不思議なトロトロに不思議がられるとは思いもしなかった。
「続きは明日にしましょう。奏斗の部屋は事務所の左隣ね。トロトロも一緒でいいよね」
そう言って胸のポケットから先ほどとは違う鍵を出すと奏斗に渡した。昔から大人びていたが、目の前にいるアヤメは自分よりもずっと前を歩いている気がした。
「本当に俺の知っているアヤメさんなんだよね?」
アヤメは奏斗の質問にキョトンとしたが、すぐに笑顔になると彼の眼鏡をちょんとつついた。
「本ばっかり読んでいるから目が悪くなるのよ」
奏斗はつつかれてずれた眼鏡を直さずに、大人になった同級生の後ろ姿を呆然と見つめていた。
事務所に戻ったアヤメと別れ、言われた通り事務所の左隣の部屋へと行くと、奏斗はドアを掴んだ手を止めた。
(どうしようこの部屋も異次元につながってたら……)
意を決してドアをあけるとそこはごく普通の1LDKだった。ソファやテレビ、ベッドなど必要なものはすべて揃っている。窓の外では木の影が風にそよそよと揺れていた。ソファに腰かけると今まで見たことがすべて夢のようにも思えてきた。
「おい、俺のこと忘れているんじゃないだろうな。俺は冷たい場所だと固まっちまうし、虫が通るところだと食われてしまうからとってもデリケートなんだよ。だからお前のポケットにでも入れろよ」
テーブルの上のトロトロが言った。
(あぁ、やっぱり夢じゃない)
普通では信じがたい、言葉を話すチョコをみて夢じゃないことを思い知らされる。
「ポケットにいれたら服がチョコまみれになっちゃうじゃないか」
「ビニール袋にでも入れればいいだろ」
父親のリュックをあさるとチャック付きの小さなビニール袋が出て来た。それにトロトロを移し替え、シャツのポケットに入れると「よし、いい感じだ」とトロトロはご満悦だった。
奏斗はチョコの甘い香り誘われてウトウトと眠りに落ちていた。