12 母になりたい
ハレがムジナの親子と出会ったのは暗い山の中でも特に月明かりの届かない茂みの中だった。生まれたばかりの子どもが必死に泣く声に引き寄せられて、その場へと導かれたのだ。
キューキュー
小さく高い声のする茂みを覗き見るとハンカチにくるまれて泣き続けるムジナの子の姿があった。子をなくしたばかりのハレの乳が泣き声に反応してピリピリと痛む。
ハレは思わず小さな子どもを抱き寄せた。すると子は微かな乳の香りに鼻をぴくぴく動かして泣き止んだ。
「その子をどうするの?」
ハレは近くにムジナの母親がいることに気付かなかった。ムジナはぐったり横たわり、目だけがじんわりと鈍く光っている。
「あなた、キツネ姫のところで子を産む予定だったムジナね?」
「だとしたら? 私も殺すの?」
ムジナがそう思うのも無理はない。ハレはそっと子を元の場所に戻すと子どもはまた泣き始めた。
「ごめんなさい。そんなつもりはなかったの。ただ放っておけなくて」
ムジナは警戒しながらハレを見つめる。乳を求める子を前にハレの乳房はパンパンに張っていた。
「あなた子どもは?」
ムジナの質問にハレは涙を浮かべ首を振る。ムジナは張りつめていた気を和らげた。
「謝るのは私の方だったみたい。私は乳をあげることができないの。だからあなたがこの子に乳をあげてくれないかしら」
「あなたとっても難産だったのね。こんなに疲れ切って……可哀そうに」
ムジナの子を抱き上げると子は無我夢中で乳を飲み、ハレは優しい眼差しでそれをみつめた。
「私は母親失格よ」
ムジナはそう言うと力なく顔を地面に置く。
「何を言っているの? あなたはこの子を命がけで産んだのよ。それだけで十分立派な母親だわ」
そうムジナを勇気づけると、近くの洞穴まで親子を連れて行き、かいがいしく世話を始めたのだった。
それからハレの毎日は忙しかった。洞穴に身をひそめるムジナに食べ物を運び、ムジナの子にも自らの乳をやる。そのためにはハレ自身もたくさん食べなければならない。しかし、その忙しさでハレは哀しみを紛らわすことができた。
一方でムジナは子どもに乳をあげることができず、一日の大半を床について物思いにふけっていた。ムジナの子の居場所はいつもハンカチの上だった。ハンカチについた血はムジナを産んだ時についたものだ。
「気にすることないわ。母親が側にいるだけで子は安心するものよ」
「ありがとう」
種のちがう2匹の間には友情が芽生え始めていた。
「アンタそんなに食べ物を持ち帰ってどうするのさ」
ある日のこと、山のハクビシンがハレを呼び止めた。たくさんの食べ物を抱え込むハレを不審に思ったのだ。
「それは……」
「それにあんた子をなくしたのに何で乳が張ったままなんだい?」
ハクビシンが疑いの眼差しを向ける。ハレは思わず逃げ去った。
「ちょっと待ちな!」
ハァハァハァハァ
息を切らし、洞穴に戻ってきたハレを見てムジナはハレの身に起きたことを悟った。
「ばれたのね」
「怪しまれただけよ。誰もここにムジナがいるとは知らないわ」
「知られるのも時間の問題ね。あなたひとりで私たちの世話をするなんて無理があったのよ」
「でもっ」
反論しようとするハレをムジナは首を振って遮った。
「私、この子を置いてここから出て行くわ」
「ダメよ! そんなこと」
「言ったでしょ。私は母親失格なんだって」
ムジナは起き上がると洞穴の外から差し込む光に眩しそうに目を細めた。強い西日はオレンジ色に色づいて、まるでこことは別世界のようにキラキラと輝いている。
「あなたも気付いているんでしょ? 本当にこの子を守りたいのなら出産してすぐにキツネ姫のところへ行くべきだったのよ。そしてこの子とともに安全な異次元で暮らすべきなんだわ。でも私はこの子を助けることよりもこの世界に留まることを選んでしまった。愚かな母親なの」
あの日、ムジナは人間として子どもを産むために自動車で九重会の事務所に向かっていた。しかし、その山道の途中でムジナは急に産気づいた。激しい痛みと子に奪われていく力のせいで変化が解け、子は今にも産まれてきそうだった。
『このままではキツネ姫のところまでもたない』
そう思った瞬間、ムジナの頭をよぎったのは自分が愛した男のことだった。
『ムジナの子を産んだらあの人のところへ帰れない。あの人のいない別の世界にいくなんて嫌』
そしてムジナは恐ろしいことを考えた。いや、考えたというよりも身体が勝手に動いていたのだ。車をわざと木にぶつけると車に火を放ち、気を消して山の中へと逃げた。
「私はこの子を捨てて男の元へと戻ろうとしたのよ」
ムジナの身体は小刻みに震え、眠る我が子から目を背ける。
「でも、必死で産んだこの子の側を、私は離れることができなかった。本当に勝手よね。そして乳をあげることもできずに、ただ茫然と泣いているこの子を見つめていたわ。その時にあなたがやってきたのよ。あの時はこの子とともに殺されるならそれでも良いと思ったけれど、生きていて良かった。だって優しいあなたのおかげで私にもできることがあると分かったから」
起き上がったムジナはみるみる手足が伸び、全身を覆っていた毛は洋服に姿を変えた。そして手には花柄のワンピースを持っている。人間に化けたムジナの顔に血の気はなく今にも倒れてしまいそうだった。
「あなたはこのワンピースを持ってこの子と逃げて。このワンピースはこの子がお腹にいたときに着ていたものなの。これには私の力を込めてある。これがあればあなたの気配を消して、ハクビシンたちの目を逃れられるわ」
「いいえ、あなたも一緒に行きましょう!」
ハレは必死だった。しかし、ムジナの覚悟は決まっていた。
「私がいては足手まといになる。それにこの子はあなたが乳をあげなければ生きていけないわ。母親が必要だと言ったのはあなたよ。あなたがこの子の母親になるの。子を失う痛みがわかるあなたならこの子に同じ思いをさせないと信じているわ。そしていつかキツネ姫を許すことができたとき、新しい世界であなたたちが幸せに暮らすことを祈っている」
ムジナは眠っている子どもを抱き上げ、その温かさを噛みしめるように目をつぶった。
「これが母親として私にできること」
子をハンカチの上へ戻すとムジナはフラフラと歩き出す。
「あなた死ぬつもりなの?」
「いいえ、私は自由になるの。自由になって彼の元に行くわ」
沈みゆく夕日はムジナの後ろ姿を赤く照らす。
『どうか……彼女を愛する人のところへ……』
ハレはそう願わずにはいられなかった。