10 光
クモの心の変化に焦ったキリは先に攻撃を仕掛けて来た。念力で木の根ごと引き抜くとそれを灰潤に向かって放つ。しかし、灰潤が睨みつければ木はあっさりと灰潤の言うことをきいて動きを止めた。
「くっ」
悔しそうに顔を歪ませる霧雲に今度は灰潤が仕掛ける。霧雲が放った木が自らめがけて戻ってくるとそれを避けようとしたが傷が痛むのかバランスを崩した。しかし、木は触れるか触れないかというギリギリのところで砕け散った。
「余計なことをするな! クモ!」
キリは怒りながら叫ぶ。
「兄さんたち! 今よ!」
アヤメが合図すると灰潤は目を見開き、霧雲の目を捕らえた。それは霧雲がアヤメにしたことと同じことだった。
「俺がそんなものに操られるとでも思うのか!」
念力を跳ね返そうとしたキリだったが、大きな身体が思うように動かない。
「あなたはね。でもその身体はあなただけのものじゃないわ」
アヤメが言うとキリは怒り、その名を呼ぶ。
「クモ、裏切るのか」
すると怒る同じ口元から穏やかな声がした。
「もうやめよう、兄さん。ここで狐とやりあっても何も変わらない」
「クモ!!!!」
アヤメは黒い瘴気をなびかせながら霧雲を押さえつける。
「小癪な」
抵抗するキリだったがアヤメはその力を弱めない。アヤメの瘴気はみるみる霧雲を包み、その姿は見えなくなっていく。
「兄さん……」
ハレは檻の中から黒い瘴気に消えて行く兄たちの姿を見た。鳩羽はハレに声をかける。
「あなたならお兄さんたちを助けられるわよ。花菖蒲もきっとそれを待っているわ」
「どういうことですか?」
兄たちが助からないと思っていたハレは顔を上げた。
「今あなたの兄たちは花菖蒲の瘴気の中をさまよっている。それは見たいものも見たくないものも映し出す偽のない世界。クモはその中で苦しむキリを助けようとしているにちがいないわ。あなたにできることは彼らの光となって出口へと導くことよ。さっきこの青年が花菖蒲を助けたようにね」
鳩羽は奏斗を指し示した。しかし、奏斗とちがい檻から出ることができないハレはどうすれば兄たちを救えるのかわからなかった。だが奏斗は気付いた。大事なのは近づくことじゃない、心を通わせることだった。
「念力だよ! 念力を使えばいいんだ!」
「でも……」
ハレにはまだ妖怪になることにためらいがあった。
「あなたは気付いていないかもしれないけれど、もうあなたはれっきとした妖怪よ。獣は恨みや憎しみだけで妖怪化するわけじゃない。ムジナの子を慈しむ気持ち、それがあなたを妖怪にしたのよ」
ハレは一瞬、戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに兄たちに向かい精一杯に彼らの無事を念じた。ハレの想いは光となって兄たちの元へと飛んでいく。
キリはひとり暗闇をさまよっていた。その暗闇の出口はすぐ目の前にあるのか、はたまた遥か遠くにあるのか、見当もつかない。ただただそこは暗く自分の記憶だけがはっきりと鮮やかに浮かんでは消える。この世界では暗闇に浮かぶその映像から、目を背けることは許されない。
キリが見ていたのは遠い日の記憶だった。
その日は秋虫たちが競いあうように鳴いていた。キリが飛び跳ねるコオロギを踏まないように山を歩いていると、エサをさがして歩いている穴熊に会った。このあたりの穴熊とは生まれた時からの顔なじみだ。
穴熊はキリを見つけると気さくに声をかけてくる。
『よぉ、キリ。お前も食べ物を探しているのか?』
『妹がもうすぐ嫁に行くんだ。だから祝いに山ぶどうでもと探しているんだが、なかなかなくてな』
『ハレがか! そりゃめでたい! それなら山を下りたところにムジナが育てているぶどうがある。人間の育てているぶどうは甘いぞ。 今晩とりに行くといい。ムジナには私から言っておくから』
穴熊の提案にキリはとても喜んだ。そしてその晩、穴熊に言われた通りぶどうを取りに行ったのだった。
ハレを驚かすためにぶどうを隠し、巣へ戻るとハレが泣いていた。
『キリ兄さん、父さんと母さんが人間の罠に捕まったの』
『そんな! 人に危害を加えていないのに、何故?』
驚くキリにクモが答えた。
『ぶどうを盗んだと言うんだ。いつもぶどうを食べているのは穴熊なのに……濡れ衣だ』
それを聞いた瞬間、キリの背中に冷たいものが這っていき、呼吸を忘れるほどの衝撃が走った。
キリはすぐに穴熊の元へ向かうと、穴熊はぶどうをむしゃむしゃと食べているところだった。艶やかな紫色の実から、汁がしたたり落ちる。
『どういうことだ! ムジナに言ってくれたんじゃなかったのか?』
『ああ、言ったよ。ハクビシンがぶどうを盗りに行くと忠告しにいったのさ。そのおかげで私はぶどうをもらったよ』
『そんな、なんでそんなこと!』
するとムジナは意地悪く笑った。
『なんでだと? 妹が嫁にいくなんて冗談じゃない。これ以上ハクビシンが増えたら困るんだよ。新参者が山の食べ物を食い漁りやがって。この期に及んで、ぶどうまで欲しがるとは。この泥棒め!』
ムジナの身体にぶどうの果汁が流れ落ちる。その紫がキリの目に焼き付いて離れなかった。
(そう。すべて俺のせいだ。俺のせいなんだ)
その暗い世界でキリは小さくうずくまる。
『キリ……キリ…』
聞きなれた呼び声にキリは顔を上げた。黒く艶やかな毛並みにはっきりとした白いライン。キリの上には 霞む大きなハクビシンの顔がふたつ浮かんでいた。
「父さん、母さん……」
力強い父と澄んだ優しい瞳の母に懐かしさがこみ上げる。
「ごめん、ごめんよ」
キリは泣きながら許しを乞う。しかし、その顔は優しい笑みを浮かべるだけで何も答えない。その代わりふたつの顔が同時にキリを呼ぶ。
『キリ兄さん』
キリが驚きながらも二つの顔を見ると、それは両親ではなく、ハレとクモだった。
「お前たち……」
『キリ兄さん、一緒に戻ろう』
キリはその申し出に後ずさりをした。するとすぐそばに人間に化けたアヤメの姿があった。キリはアヤメに気付くと小さく笑った。
「ふん、はめられた。キツネ姫の仕業か」
暗闇の中、何よりもはっきりと浮かぶアヤメの姿はうっすらと光を帯びている。
「いいえ、ハレとクモは必死であなたを呼んでいるのよ」
それでもキリは信じられずにアヤメをにらむ。
「俺がいないと何もできないクモならともかく、ハレが俺を許すはずがない」
瞳に憂いをにじませハレを見つめた。
「あなた、本当は妹を殺せないんでしょ?」
アヤメに言われてもキリは笑ったままだったが、その嘲笑はいつしか自分に向けられていた。
「バカバカしい」
『キリ兄さん、帰って来て』
ハレは光となってキリを包み込む。キリはその心地よさに抵抗することも忘れていた。アヤメは光をみつめる。
「苦しかったのね。恨み哀しみ怒り……あなたを苦しめるすべてをここに置いていけばいい。そうすれば今よりも素直になれるはずよ」
キリは母に抱かれた子供のようにいつの間にか静かに瞳を閉じ、光に身を委ねていた。