3 ハンカチ
「大丈夫なのかな?」
奏斗はマンションの最上階を不安げに見つめた。
「大丈夫だろ。あいつらすぐケンカするけど、またすぐケロっと元通りになっているんだよ」
外の風にあたるとムジナの子は泣き疲れたのか再び眠りに落ちていた。腕の中で眠るムジナの子を確認すると奏斗はキョロキョロと辺りを見回す。
「今日は狸やリスが来ないね。泣き声にびっくりしたのかな?」
奏斗が言うとトロトロはムジナが起きないように声を小さくして答える。
「最近、このあたりの山で害獣駆除が行われているらしいからな。みんな大人しくしているんだろ。物騒だよな」
トロトロの害獣駆除という言葉に胸がつまる。害獣と言うのは農作物を荒らす、フンをするなど人間の営みを害する動物、そして日本の在来種へ影響を及ぼす外来種がそれにあたる。
人里近い山ではそれらを駆除する対策として捕獲用の罠が仕掛けられることも多い。特にハクビシンやアライグマ、台湾リスが標的であったが、誤って狸などがかかってしまうことも多いので動物たちはみな警戒していた。
「この子のお母さん、無事かな」
「どうだろうな。ムジナで生まれたところを見ると希望通りにはいかなかったみたいだが。せめて人間だったら父親の元に引き渡すっていう選択もあったんだけどな」
トロトロはそう言ったが、子供の存在を知らない父親が突然現れた子どもを受け入れるかはわからない。奏斗は手のひらほどの小さなムジナの子が不憫でならなかった。
「まぁ、なんだかんだ灰と潤も手伝えばすぐにみつかるだろ」
暗い表情の奏斗を慰めるようにトロトロが言った。
「うん、そうだね」
奏斗はさきほどのアヤメと双子のやりとりを思い出した。
「灰さんと潤さんのお母さんってそんなに強いの?」
するとトロトロは鼻で笑った。
「鳩羽のことか。鳩羽はキツネとしては強くないな。二尾のトップではあるが二尾は絶対数が少ないんだ。それに灰と潤を出産して力をふたりに分けたから、鳩羽の持つ神通力は子どもたちより弱いかもしれない。だから奈良で支所長をしている母親を双子は手伝っているんだよ」
「子どもに力を分けるの?」
「妖怪は自分の力を分けないと子が生めないのさ。じゃないと不死で桁外れの力を持った妖怪の子どもがうじゃうじゃできちまうだろ。キツネ姫にしたってそうだ。キツネ姫は生まれたときから九尾狐の力の半分を受け継いでいる。半分だって九重会の中では九尾と蘇芳に次ぐナンバー3だ」
トロトロの説明で改めてアヤメがキツネ姫と呼ばれるにふさわしい大妖怪であり、その力が並外れていることを知った。
「……だけどよ、母親に敵わないのはどんな生き物でも同じだろ。キツネ姫も鳩羽には我が子同然に厳しく育てられたらしいぜ」
以前、アヤメは1尾の狐である蘇芳との縁談を進めた理由に養父母の家族と一緒にいるのが居辛かったからと語っていた。しかし、今日のアヤメをみると怒ってはいても兄弟のことが嫌いではないように思えた。まるで本当の兄妹のように心を開いている、そう感じたのだ。
「おい、やばいぜ」
トロトロにそう言われて見ると茂みがカサカサと動いた。奏斗とトロトロに緊張が走る。茂みから出た顔は黒く鼻にかけて白いラインが際立っている。それは間違いなくハクビシンだった。口に何かを咥えたハクビシンはじっと奏斗のことを見ていた。
「早くマンションの中に戻ろう」
トロトロが警戒しながら言ったので奏斗が後ずさると、ハクビシンは咥えていたものをその場に落とし、地面をするすると這うようにしなやかな動きでその場を去った。
「なんだろう」
奏斗がおそるおそるハクビシンがいたところへと近づくとそこに落ちていたのは薄汚れたハンカチだった。
「これは……」
奏斗が拾い上げるとトロトロはじっくりとそれを見た。
「おい、これ黒く変色しているが血だぞ」
「え!」
するとムジナの子の鼻がピクピクと動き目を開いた。しかし先ほどのように泣くことはなくそのハンカチに飛びついた。
「母ちゃん、母ちゃんの匂いだ」
ムジナはそのハンカチに抱きついたまま安心したように穏やかな顔で再び眠りに落ちてしまった。
「まちがいなくムジナの匂いがするわ。あとハクビシンの匂いも……」
アヤメはムジナの子がくるまって寝ているハンカチを見ると唇を噛み沈痛な表情をした。その黒く固まった血は、ムジナの身に何かがあったことを意味していた。
「やられたな(ナ)」
双子の声が揃う。片づけをしながらムジナの子を探していたいきさつをアヤメから聞いていたのだろう。ハクビシンがハンカチを持ってきたことを告げると双子は迷わずそう言った。
「でもこれずいぶん古い血みたいダヨ~」
「ムジナは事故後ずっと監禁されていたということか。でも監禁されていたならムジナの子をマンションの下に置いたのは誰だ?」
奏斗は固く口を結び考え込んでいるアヤメのことが気になっていた。アヤメに声をかけようとしたとき奏斗の足元にまだ書類が何枚か落ちていることに気付いた。そこに書いてあるのはどれも奏斗の知らない事件ばかりだった。それはどれも生き物が好きな奏斗ならば心が痛むようなひどい内容ばかりだったが、アヤメの印鑑が押され解決済みになっている。
そしてその中の1枚に、害獣駆除によって子を失ったハクビシンの報告書があった。奏斗はそれをアヤメに差し出す。
「アヤメさん、ハンカチを持ってきたのはこのハクビシンなの?」。
いつもより低い奏斗の声に怒りがにじんでいた。アヤメはそれを受け取ると書面を眺め、ひとつ息を吐く。
「ええ、そうよ。間違いないわ」
アヤメは観念したかのように深く頷いた。