9 だれのせい
濡れた服を着替えて事務所に戻るとアヤメは奏斗のために温かい紅茶を入れた。金の縁取りがされたティーカップをスプーンでクルクルとまわすと平らだった水面が渦を巻いて波を立てる。
「雷鳥さん、今頃、故郷の山を飛んでいるのかな」
奏斗がすっかり暗くなった窓を見ると、外で遊ぶ狐の見習いたちの瞳が蛍のように光っていた。
「そうね。でも永遠の命を手に入れた雷鳥はこれからずっと、変わりゆく山と仲間たちの苦労を見守らなければいけないわ。あの優しい雷鳥は心を痛めるでしょうね」
温暖化により年々高山地帯は減っていき、本来ならば高山には住めない肉食動物がライチョウのいる地点にまで居住地を広げていた。その肉食動物もまた住む場所を追われ、生きるために高山へと行く。
「全部、人間のせいなんだよね」
気を落とす奏斗にアヤメは優しくほほ笑みかけた。
「どんな間違いを起こしても、人間も自然の一部よ。だからライチョウは遭難した男と心を通わせることができたのよ。それに私だって今日は人間の奏斗に助けられたわ」
奏斗は海中に沈んでいくアヤメのことを思い出した。彼女を助けたくて無我夢中で飛び込んだが危なかったのは奏斗の方だった。
「ぼ、僕は何もしてないよ。結局助けられちゃったし」
動揺を悟られないように紅茶を一口飲む。温かい紅茶はほんのりと甘かった。
「奏斗は足手まといなんかじゃないわ。舞の言う通り、私の説明不足だったのよ。ごめんね」
アヤメはめずらしく素直に謝った。
「じゃあひとつ聞いていい?」
奏斗は持っていたティーカップをテーブルの上に置き、覚悟を決めた。
「うん。できる限り答えるわ」
アヤメも真面目な顔で向き直る。
「蘇芳さんはアヤメさんの旦那さんだったの?」
奏斗の質問に真剣に聞いていた瞳が2度3度と瞬きをした。
「仕事のことじゃないんだ? 奏斗ってちょっとずれているわよね」
そう言ってアヤメは笑った。でも奏斗にとってはそれがはっきりしないと、仕事に支障をきたす可能性があるくらいには大事なことだった。
「縁談があったのは確かよ。私は産まれてすぐに養母に預けられ、そこで育てられたのよ。そこには養母の子どもたちもいて居心地が悪くて……。それで蘇芳に嫁げば家を出られるって話だったから、その話に乗ってみたんだけど。蘇芳の屋敷に着いたら海神みたいな女が87人もいるのよ? やっぱり結婚したくないと思ってすぐに屋敷を飛び出したわ。だから私が蘇芳と結婚していたとすれば屋敷にいた3秒間くらいのことかしらね。私は結婚したなんて思ってないけど、縁談は妖怪たちの間で有名だったから、そういうことになっているのかもしれないわ」
奏斗はホッとしたが、和服をきたアヤメが結婚を申し込まれているのを思い出した。あれは蘇芳の声ではない。
「じゃあ、け……」
結婚をしたことがあるのか聞こうとしたが、それはやめて置くことにした。アヤメは800年以上も生きているのだ。色々あってもおかしくない。
「何?」
「何でもない」
「そう。じゃあ、奏斗は仕事終わりにしていいわよ。疲れたでしょ? 風邪を引くといけないから今日は早めに休んで」
アヤメはソファを立ち上がると事務机に移動した。口の端には微笑をたたえて、心なしか機嫌がいいように思える。しかし、彼女はいつも不機嫌な時につけているラジオを取り出すとその電源を入れた。
「アヤメさん、ラジオ聞くの?」
驚いて思わず聞くと、アヤメは首をかしげた。
「奏斗が部屋に戻ったら、いつもかけているわよ?」
「そうなの?」
それは奏斗の知らないことだった。
「ラジオをつけると気が紛れるのよ」
「気が紛れる?」
女心の分からない奏斗にはさっぱり分からない。アヤメは少し恥ずかしそうに目をそらした。
「夜は奏斗がいないから寂しくなるでしょ」
奏斗は自分の顔が燃えるように熱くなるのを感じた。よほど赤くなっているのだろう。それを見たアヤメは立ち上がって奏斗の近くまでやってきた。
「ちょっと! やっぱり熱があるんじゃない!」
アヤメの顔が近づき額がぶつかると奏斗はもう限界だった。
バタン
「やだ! 奏斗!! 大丈夫!?」
のぼせて倒れた奏斗の胸ポケットでトロトロがやれやれといった顔をした。
「あほくさくて見ていらんないね」
トロトロにそんなことを言われていると知らない奏斗は、耳の奥で響く彼女の声を心地良く聞いていた。
お読み頂きありがとうございました。
第弐話「キツネ姫とらいの鳥」は完結です。
もったいないほど素敵なレビューを頂きました!!最後までがんばります!
第参話は「キツネ姫とむじなの子」ムジナの子の消えた母親をアヤメの乳兄妹である双子とともに探すお話です。
引き続きお読み頂ければ嬉しいです。




