6 女のこころ
奏斗は海中に潜り、アヤメの姿を探した。運動が苦手そうに見えて奏斗は水泳が得意だった。それは外であまり遊ばない奏斗を心配して親に無理矢理水泳教室に入れられたからだったが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
波は激しいが水の中は意外と穏やかなものだ。奏斗は目の前に白く輝く獣が沈んでいくのが見えた。
『アヤメさん!!』
大きなその身体にしがみつき上へ泳いでいこうとするが、水でぬれた白狐の身体は重く、上に上がるどころか一緒に沈んでしまう。
『アヤメさん! 頑張って!』
奏斗は心の中でアヤメを励まし続けた。
『アヤメさん!!!!』
奏斗の息ももう限界だった。すると一瞬の間にアヤメは人間の姿になり、奏斗と目が合う。すると目の前のアヤメは奏斗の唇に自分の唇を重ねた。すると不思議なことに息苦しさが消えていく。
「ありがとう。奏斗」
アヤメがそう言ったかと思うと奏斗の頭の中に、大松山で気を失った時のような映像が断片的に流れて来た。
夕暮れの古びた木造家屋の中で、和服姿のアヤメは貝殻に入った紅を、その唇にさしていた。すると少し照れたようにこちらを見上げる。
「ありがとう」
アヤメがそう言うと、前と同じ男の声が頭の中に響く。
「私の奥さんになってくれるかい?」
そう言われたアヤメは嬉しそうに微笑んで「はい」と返事をした。
奏斗は気付くと狐のアヤメに咥えられて、蘇芳の結界の中に戻ってきていた。ゴホッゴホッと何回か咳がでたが、アヤメの姿を見ると安心をした。
「ちょっと蘇芳! なんとかしなさいよ! アンタがまいた種でしょ!!」
アヤメが叫ぶ。
「私が出れば君を庇ったとさらに怒りを買うだろう? 君が頑張っておくれよ」
蘇芳になんとかしようという気持ちはない。海神はさらに怒り、アヤメに向かって嵐を起こす。
「私だっていつまでももたないわよ! 気を引いている間に少しは考えなさいよ!」
そう言うとアヤメはまた結界から離れていく。
「蘇芳さん! アヤメさんに力を貸してください!」
奏斗が叫ぶと蘇芳は鋭い目で睨む。
「私に力を貸して欲しいなんて軽々しく言っていいのかい?」
その目は氷のように冷たく奏斗は命の危機さえ感じた。しかし、彼はアヤメを救うためなら自分の命など惜しくは無かった。
「人間の僕にはアヤメさんを救うことができません。力を貸せないと言うなら知恵を貸してください。お願いします」
奏斗が深く頭を下げると蘇芳は満足そうに微笑む。
「ふふ、そういうことなら力になりたいが、生憎私は怒っている女性のなだめ方は知らないんだ。女性の心を自分のものにするのは得意だけどね。同じ女性なら分かるんじゃないかな。ねぇ、舞?」
話しを振られた舞は海神を見た。海神は自分の気持ちをぶつけるように高波をアヤメにぶつけている。舞はその恐ろしい姿に震えながら首を横に振った。
「そうか君にはまだ分からなかったね。じゃあ君ならどうだい? 」
蘇芳が指をパチンと鳴らすと今まで目を見開き黙っていたさくらが正気を取り戻した。
「私……」
さくらは戸惑いながら海を見る。すると海神の悲しい声が響いた。
「誰にも分かるまい。苦しいほどに愛おしいこの心が満たされることのない哀しさを」
さくらは目を疑った。そして哀しさと寂しさに痛む胸に手を添える。
「あれは……私?」
奏斗たちの上空ではゴロゴロと雷の気配がしていた。雷はまるで力をため込むように時々光を放ちながら唸りをあげている。
「これはまずい。波は避けられても雷は避けられないからね」
蘇芳が言った。
「え?」
「足元を見てみるといい。濡れているだろう? この水を伝って電流が流れてしまうのさ。しかも最悪なことに海神の次に背が高いのは私だ。高いものに落ちる雷が私に落ちる可能性は高いだろうね」
絶対絶命だというのに蘇芳に危機感は感じられない。
舞に抱かれじっと身を潜めていたライチョウは空を見上げた。それはライチョウに山での出来ごとを思い出させた。
ゴロゴロ……ピシャーーーン!!!!
雷鳴が鳴り響き、閃光が蘇芳めがけて走り出す。するとライチョウは舞の手を離れ飛び上がった。翼を広げた羽の間からピンク色の桜貝が落ち、さくらの手に舞い降りた。
雷は蘇芳の頭よりも高く舞い上がるライチョウに狙いを定め、空気を伝いながら、小さなその身体に何万ボルトという電流を流す。
「ライチョウさん!!!」
舞の叫びも空しく、雷に打たれたライチョウは水の上を落ちていく。海神は結界の方を見た。結界の中では舞が蘇芳にしがみついていた。その様子を見た海神はさらに怒りの声を上げる。
「蘇芳、女たちもろとも雷に散るがいい」
海神が手を上にあげると再び雷がゴロゴロと鳴りだした。
「あなたの相手は私でしょ!」
アヤメが海神めがけて飛びつくが、海水でできている彼女にはアヤメの鋭い牙も役には立たない。
「やめて!」
その時、海神に大きな声を上げたのはさくらだった。
「人間が生意気な!」
「あなたは私と同じだわ! だから分かるのよ」
「なんだと? 何がわかるというのだ」
同じと言われ自尊心の傷ついた海神の目は怒りで燃えていた。
さくらはライチョウの落としていった桜貝をつぶさないようにそっと握りしめる。
「私たちは彼を愛する心よりも、悲しさや寂しさの方が大きくなってしまったのよ」
「なんだと?」
「あなたは会いたくてしょうがなかった人に会えたはずなのに、その人に会えたことよりも、それを奪った人への怒りで頭がいっぱいだった。私も同じ。彼を愛していたことよりも、失った絶望感に心を支配されてしまったのよ」
海神は蘇芳をみた。彼らのために戦っているアヤメは全身ずぶぬれで息を上げているというのに、蘇芳は結界の中で涼しい顔をして微笑みすら浮かべていた。