5 かんちがい
「私がそのことをさくらさんに伝えるわ」
そう言ったのは舞だった。舞もアヤメと同様、声帯を使わずに人間には聞こえない動物の言葉を話せるのだった。奏斗は人間に話すように声を出さないと動物たちと会話ができない。
舞は自分より後に九重会の職員になったはずなのに、奏斗が知らないことも知っていて、能力も高い。
しかし、アヤメは厳しい目で舞を見ていた。
「それは駄目よ」
「何で? ライチョウの言葉をさくらさんに伝えるのが動物の言葉を理解する私たちの役割でしょ?」
ふたりは声を使わずに目と目を合わせ会話している。
「真実は言えばいいというものじゃないわ。言うことは私がゆるさない」
静かににらみ合う彼女たちに挟まれている奏斗はおどおどと交互にふたりをみた。
「や、やめてよ。ふたりとも」
奏斗は小声で言ってみたが、やはりさくらには聞こえていて、彼女は不思議そうに奏斗の顔を見る。奏斗は「ははは」と笑ってごまかした。
「私の上司は蘇芳様よ。アヤメちゃんじゃないわ。だからアヤメちゃんが許さなくても関係ないもの」
舞は立ち上がりライチョウを抱き直すとさくらに向き直った。
「さくらさん、お話があります。今からする話はとても信じられるものではないと思いますが――」
アヤメは呆れ顔でため息をついた。
舞はライチョウの話を語りだした。さくらは何も言わず黙って彼女の話を聞いている。しかし、しだいに彼女の顔つきは変わっていく。うまく話すことに集中している舞は気付いていない。
「おやおや、何やら不穏な気配がすると思ってきてみれば。舞、君は彼女に何をしたんだい?」
いつの間にか車から蘇芳がやってきていた。舞がさくらの方を見ると、彼女は目を見開き、その焦点はあっていない。こころなしか濃くなった隈に青ざめる顔は何かにとり憑かれているような、人間離れした顔になっていた。
「さくらさん?」
「なんで? そんなことを知って私はどうすればいいの。雷に撃たれなければ、彼は次の日救出されたのよ。プロポーズなんてそんなこと……。彼はもう二度と戻って来ないのに。――会いたい彼に会いたい。寂しくてどうすればいいのか私には分からない」
さくらはぶつぶつと独り言を言っている。するとさくらに呼び寄せられるように何もなかった空に暗雲が立ち込めて来た。穏やかだった波打ち際は徐々に荒々しくなっていき、潮が満ちていく。
「だから言ったのに」
アヤメはぽつりと言った。
「君がついていながらこんなことになるとはね」
「車にいたアンタに言われたくないわよ」
アヤメと蘇芳のやりとりを聞いても舞は理解できなかった。
「どういうことですか? 蘇芳様」
「君は行き場のない彼女の感情の蓋を開けてしまったのさ。彼女の無念は人ではないものを呼び寄せる。ほら来たよ」
蘇芳は嵐の出所を探っていた。そしてある一点を睨みつける。荒れていく海のむこうに対岸ではない大きな影があった。影は人型に姿をかえながら徐々にこちらに近づいてくる。
「会いたい……会いたい……寂しい」
そう囁きながら近づいてくるそれは3階建てのビルほどの大きな女の姿だった。
「あ、あれは……?」
恐怖におののく舞にアヤメは答えた。
「彼女の思いが呼び寄せた海神よ」
海水でできた女は蘇芳の姿をみつけると動きを止めた。
「ス……オ……ウ……」
海神は蘇芳の名を呼ぶ。
「やぁ、こんなところで君に会えるとは。久しぶりだね」
「蘇芳……わらわはそなたに会いたかったのじゃ」
切ない声が荒れる海原に響く。
「やっぱりアンタの女なのね」
しかし、蘇芳の隣にいるアヤメに気付くと海神の態度は一変した。「うー」と低い声をあげ噴水のように身体から水を噴射する。
「キツネ姫、お前がいたからわらわは……わらわは……。お前だけは許さぬ!!」
濃紺の身体に目や鼻、口の影がぼんやりと浮かび上がる海神は怒りの咆哮をあげると、嵐のように波はうねりあっという間に奏斗たちの足元も波で濡らした。
海神はアヤメにむかってその巨大な手を伸ばす。アヤメは奏斗たちを巻き込まないように離れると6尾の妖狐へと姿を変えた。
奏斗が妖狐の姿になるアヤメをちゃんと見たのは初めてのことだった。白い花菖蒲のようなその美しい尾を持つキツネは妖怪と呼ぶにはあまりに神々しく、奏斗の心を惹きつけていく。
「ちょっとアンタ! きれいに別れたって言ってなかったっけ?」
荒れる波をよけながらアヤメは蘇芳をにらむ。
「この女が呼び寄せなければキレイに別れられていたはずだよ。海は広いからね」
さくらは魂が抜けているかのようにぼーっと一点を見つめてぶつぶつと何かを呟いていた。舞は蘇芳の側でライチョウを抱えて震えている。
高波が蘇芳たちに向かってくると彼も妖狐の姿になった。アヤメよりも一回り大きなその白狐は身体の何倍もの大きさの尾を持っている。その尾には暗い紅色の筋が無数に入り光を放つ。複雑な文様の赤い隈取に輝く瞳はすべての生き物をを見下すような冷たいものだった。蘇芳が尾で円を描くとその辺り一帯に結界が張られ、襲い来る高波は水晶にぶつかるようにはじかれていった。
「キツネ姫、やはり蘇芳の心が離れたのはお前の差し金か!!」
ふたりの会話を聞いて勘違いしている海神はさらに猛り狂ってアヤメを攻撃する。
「女性は不思議だね。男が心変わりをするとその怒りの矛先は必ず相手の女性にいく」
蘇芳は結界の中でのんきに言った。
「海神さまは蘇芳様の奥さんだったんですか?」
奏斗が聞くと蘇芳はふふふと笑った。
「海神は僕の87人目の奥さんさ。88人目の奥さんになるはずだった姫君が憎らしいんだろう」
「なるはずだった?」
「ん? 私はそう言っていたかい? どうせ過去のことだ。過去なんてどうでもいいと思わないかい?」
蘇芳はそうごまかしたが、2人が話している間も海神の攻撃の手は休まらない。それどころかどんどん波は高くなり彼女の体に強い衝撃を与えている。
「アヤメさん……」
心配そうに見つめる奏斗に蘇芳が笑う。
「姫君なら大丈夫さ、彼女はとても強いからね。ただ少し水が苦手だけれど」
アヤメは次々と襲い来る波にまるで溺れるようにもがいていた。
「アヤメさん!!」
奏斗の声に気付いたアヤメが横目で彼のことを見た。白い毛が海で濡れて身体にはりつき、その黄金色の目は海水で血走っている。
「私は大丈夫よ! それよりそこから出ちゃだめよ! あんたはそこで舞たちを守りなさい!」
「強がりおって、そんな口きけぬようにしてやる!!」
海神はさらにアヤメに向かって高波をぶつけるとアヤメはガブガブと水を飲み、苦しそうに水面へと鼻を出す。
「おや、溺れているじゃないか。これはピンチだね。でも助けようにも私は動けないからなぁ。君たちを守っているのはこの私だからね」
蘇芳は愉快そうに奏斗を見た。アヤメの身体は海面に沈み、その尾が一本ずつ海底へと沈んでいく、それはまるで水中花のようだった。
奏斗は歯を食いしばり眼鏡を投げ捨てた。
「舞ちゃんたちをお願いします」
「奏斗君! 何をするつもり!?」
もう彼に舞の声は届かない。そして荒れ狂う結界の外へと飛び込んでいったのだった。




