3 静かな海
「ここがいいです」
ライチョウがそう言ったので蘇芳はハザードランプを点滅させた。
前の車から降りてきたアヤメと奏斗が、白い車の窓越しに話しかけた。
「城ケ島まで行けば太平洋を一望できるけどここでいいの?」
「はい。ここがいいんです」
そこは野比海岸だった。三浦へと続くその海岸は東京湾が一望できるが、対岸には陸も見える。アヤメは海を見るのであれば、地球が丸く見えるようなもっと大海原を見たいのだと思っていたので拍子抜けした。
「そう、じゃあここならあまり人もいないし、海岸に降りてみる?」
アヤメが聞くとライチョウは「はい」と返事をした。
海岸には女性がひとり散歩をしているだけで他には誰もいない。
「私はここで待っているよ」
運転席に乗ったまま蘇芳が言った。
「蘇芳様は海がお好きではないのですか?」
舞が聞くと蘇芳はかっこつけて笑う。
「キツネは水が苦手だからね。それに5月の紫外線はとても強いんだ。舞、君も女性なら気を使った方がいい。早く戻っておいで」
蘇芳の海に行かない理由をアヤメは鼻で笑った。
「何が紫外線よ。やっぱり気まずい女が海にいるんでしょ?」
「君には敵わないね。まぁそんなところさ」
奏斗たちは蘇芳を置いて砂浜へ行くと、波打ち際まで来た。ザザーザザーと波は心地の良いリズムで寄せては返す舞の腕の中でライチョウはその小さな目に青い海を映していた。
「海って本当に大きいんですね」
ライチョウが言った。
「ここは東京湾だから対岸が見えるけど太平洋はもっと見渡す限り海なのよ」
アヤメは湾の入り口を指さした。その向こうには広い太平洋につながっている。
「そうなんですか。私がいたのは狭い世界だったのですね」
「あなたが住んでいた山だってとても広くて大きいのよ」
ライチョウはアヤメの言葉に驚いたのか目をパチクリと動かした。
「いつも茂みに隠れていたので知りませんでした。私は自分の住んでいるところさえもよく知らなかったのですね」
山を懐かしむように静かな海を眺めていた。
「蘇芳はあんな風に言っていたけど、せっかくだから少しゆっくりしましょうか」
アヤメはそう言って持ってきたレジャーシート広げると、3人はその上に腰かけた。アヤメ、奏斗、舞、この3人で一緒にいるのは小学生以来のことだ。
「なんだか懐かしいね」
舞が言うと奏斗も頷く。
アヤメは何の反応も示さずに、近くに落ちていた貝殻を拾って眺めていた。無視されたと思った舞はムキになってアヤメに話しかける。
「アヤメちゃんが人間じゃないって蘇芳様から聞いた時は驚いた。小学生の時に本当のこと言ってくれれば良かったのに」
アヤメは持っていた貝をポイと投げると舞に視線をうつした。
「子どもにそんなこと言えるわけがないでしょ。混乱するだけだもの」
アヤメの言い方は冷たいようで、彼女なりの思いやりがあることを奏斗は感じていた。けれども舞は納得のいっていない顔で奏斗を見る。
「そんなことないよね、奏斗くん」
「うーん、どうかな」
奏斗は返事ができなかった。あの頃にアヤメの正体を知ったとしても、怖がらなかった自信はある。でも彼女を自分と同じ人として扱えたかは分からない。きっと幼い奏斗は彼女の気持ちも考えずに根掘り葉掘り聞いて、アヤメを困らせていたにちがいなかった。
「やめましょう。この話は。今はライチョウのためにここまできているのよ」
アヤメが言うと舞は黙ってしまった。
昔は話をしなくても3人で楽しくすごせていたのに、奏斗はなんだかこの空気が窮屈に感じていた。
すると、海岸を歩いていた女性がライチョウに気づき、こちらの方へと歩いてきていた。アヤメは警戒するように目を光らせる。
「あの人はきっと大丈夫です。私はきっとあの人に会いにここへ来たんです。私には分かるんです!」
ライチョウが言った。ライチョウ以外の者はその言葉に驚いていたが、女性はすぐそこまで来ていたのでアヤメが2人に目配せをし、様子を伺った。
「珍しい鳥ですね」
声をかけて来た女性は奏斗や舞と同年代くらいの小柄な女性だった。ただ、その顔色は悪く、目の下にうっすらと隈ができている。
「あの……まさかとは思うんですけど……ライチョウですか?」
奏斗と舞はどう答えていいのか分からずに固まっていた。
質問に答えたのはアヤメだった。
「ええ、理由あって預かっているんです。もちろん許可はおりていますよ。でもライチョウはデリケートな鳥なので、このことは内密にお願いしますね」
アヤメは人差し指を唇につけて秘密であることを笑顔で伝えた。
「そんなこともあるんですね」
女性は全く疑っている様子はない。しかし何故かライチョウを見ながらうっすらと涙を浮かべたのだった。
「この方の名前を聞いていただけますか?」
ライチョウは言った。もちろんライチョウの声は女性に聞こえていない。アヤメはもう一人座れるようにレジャーシートから腰を動かした。
「少し顔色がわるいですよ。ここで休んでいったらどうでしょう? 私は自然保護団体職員の稲荷アヤメです。あなたは?」
隣にいた奏斗はアヤメとの距離が近づいたので身体の左側にばかり意識がいく。彼女の花のような甘い香りが潮風に乗ってやってくると奏斗の鼓動は早くなった。
「じゃあ、お言葉に甘えていいですか? 私は多田さくらです」
さくらと名乗る女性はアヤメの誘いに快く乗った。普通だったら怪しむようなこともアヤメがやると、何故か自然に思えてくる。さくらは再びライチョウを見ると悲しげに俯いた。
「ライチョウがどうかしましたか?」
アヤメが聞くとさくらの目からとうとう涙がこぼれた。
「ごめんなさい。とても不思議な縁だと思って。実は私の彼はライチョウを探しに山に行ったきり帰らぬ人となってしまったんです」
涙を流すさくらを見てライチョウは目を見開いた。おだやかな波は白い泡をたてながら、また沖へと戻っていく。それは稀にみる静かな海だった。涙を拭き呆然と海を眺める瞳には男性の影が揺らぐ。その瞬間、 ライチョウは確信した。
「やっぱりこの人です! 私はこの人を探していたんです」
ライチョウは興奮して舞の膝の上で羽ばたく。アヤメはさくらに怪しまれないよう普通の人では聞きとれない動物の言葉でライチョウに聞いた。
「何であなたが彼女を知っているの?」
「私は彼からこの人の話を聞いていたのです」
ライチョウはそう言うと山での出来事を語りだしたのだった。




