2 ライチョウ
長野支所の蘇芳と舞が横須賀まで訪ねてきた理由はある1羽の鳥の願いを叶えるためだった。
アヤメがマンションの205の扉を開けると、中からはひんやりとした清々しい風が吹いてきた。ドアの向こうでは雪が積もり、背の低い高山植物が揺れている。
「わぁ! ここは203とは全然ちがうんだね!」
奏斗は九重会の職員になってから、まだ203号室しか開けたことがない。
「奏斗君知らないの? マンションには里山の部屋や高山の部屋、草原の部屋っていうように、動物たちに合わせてたくさんの部屋が用意されているのよ。向こうの世界はこちらの世界みたいに一つの広い世界なんだって。海や川もあるらしいよ」
「さすがだよ、舞。よく覚えていたね。向こうの世界には人工物がない、ほとんどが緑だ。だから私たちはあちらの世界を『異次元の森』と呼んでいるんだがね。動物たちにとってはまさに桃源郷なんだよ。君は何も教えてもらっていないのかい?」
蘇芳は微かにバカにするような笑みを浮かべた。
「ここじゃほとんど203しか開けないし、分からなくったって仕事はできるでしょ」
アヤメはフォローのつもりで言ったが奏斗は何も救われなかった。
「あのう、ここから出るんでしょうか?」
岩場の影から1羽の鳥が恐る恐る近づいてきた。その鳥は白い冬毛の間から、ところどころ斑模様も見えている。そして一番の特徴は足がふわふわとした羽に覆われていることだった。
「わぁ! ライチョウだ! 初めて見た」
「へぇ、君は彼女を知っているのかい?」
蘇芳は雌のライチョウを彼女と呼んで、めずらしそうに奏斗を見た。
「はい。ライチョウって氷河時代の生き残りって言われているだけあって、気温の低い高山に住んでいるですよね! 僕、登山するほど体力ないし、動物園でもライチョウは見たことがなかったんです。絶滅危惧種のライチョウにこんなところで会えるなんて嬉しいなあ!」
興奮する奏斗の眼鏡がきらりと光ると、ライチョウは奏斗の顔をまじまじと見つめた。
「おや、彼が気に入ったのかな?」
「奏斗は獣タラシなのよ」
ライチョウはアヤメと目が合うとまた怯えるように岩陰に隠れてしまった。
「そんな怯えなくても食べたりしないわよ」
「おいしそうだけどね」
そう言いながらペロリと唇をなめて見せる。しかし、妖怪化して長い時間を生きているふたりには寝食の必要がない。冗談を言う蘇芳をアヤメは呆れた顔で見ていた。
「大丈夫。ここから出ておいで」
舞がそう声をかけるとライチョウはやっと安心したのか、こちら側へやってきた。
「舞ちゃんも動物の言葉がわかるの?」
奏斗が聞くと舞ではなく蘇芳が答えた。
「私の下で働いているんだから当たり前だろう」
ライチョウは警戒しながら舞の足元に隠れてうずくまる。
「こんな使い方もあるんだね」
長野県に住むライチョウは長距離の移動に耐えられそうになかったので、異次元の森を通じて横須賀へとやってきたのだった。
「あれ、でも異次元の森を使ってライチョウが来られるなら、蘇芳さんたちもここから来れば良かったんじゃないですか?」
蘇芳は奏斗の質問にバカバカしいとでもいうような顔をする。
「そんなこと、できるわけがないだろう」
「え? 何で? 動物たちはできるのに?」
アヤメは部屋のドアを閉めてしっかりと鍵をかけると奏斗に言った。
「そういう決まりなのよ」
「あのう、本当に海が見られるんでしょうか?」
舞の腕に抱き上げられたライチョウが控えめに言う。ライチョウがそう疑うのも無理はない。マンションから見える景色は見渡す限り山だった。
「大丈夫。横須賀は海と山の街なのよ。でも何でライチョウが海なんて見たいのかしら? ライチョウが住むところは海からも遠い高山で、海を知らないライチョウだって多いはずよね」
「……渡り鳥から聞いたんです」
ライチョウはそれ以上答えようとしなかった。
「そんな理由でよく許可がおりたわね」
アヤメが言うと聞いてもないのに蘇芳が話をし始めた。
「私はね、九重会は忙しいし、たかだかライチョウ1羽の願いのために、遠い海に行く必要なんてないと言ったんだがね。舞が見つけたライチョウだから彼女のやりたいようにしていいとボスが許可を出したのさ」
「あんたはどうせ海に気まずい女でもいるから行きたくなかっただけでしょ」
アヤメの指摘に図星だったのか、蘇芳は聞こえないふりをして舞が抱くライチョウに近づくと話を替えた。
「君は約束を覚えているね? もう一度言うがライチョウが海にいるなんてあってはならないことだからね。用が終わったら速やかに『異次元の森』へと帰るんだよ」
急に話を振られたライチョウはおどおどと首を振りながら、言いにくそうに小さな声を出す。
「はい、でも本当は迷っているんです。やっぱり住んでいた山に帰りたいような気もして……」
「でもね、ライチョウさん。この世界だと温暖化で山の雪は年々少なくなっていくし、外敵や登山客だって多いわ。絶滅しそうな『ライチョウ』をあなたが生きて守らなきゃ」
消え入るようなライチョウの言葉に重なるように舞が優しく言う。ライチョウは何も言えずにそのふわふわとした羽の中に顔をうずめた。
駐車場には斜めに大きな傷のついた黒塗りの高級車と、同じくらい高級な真っ白の車が並んでいる。
「すいぶん派手にやったようだね。新しいのを買えばいいのに」
イタチにつけられた車の傷を見て、蘇芳は軽く言った。
「めんどくさい。走ればいいのよ」
これが数千万はする車に対してする会話だとは思えない。奏斗はキツネの二人には聞きにくいことを舞に小声で聞いた。
「なんで九重会ってこんな高そうな車を買えるの?」
舞はライチョウを大事に抱えながら答えた。
「九重会って主に寄付金で運営しているんだけどね。その寄付をしているのが財界や芸能人やスポーツマンとか、色々なジャンルの大金持ちらしいよ」
「え? 何で?」
ふたりの会話を聞いていた蘇芳がまた割り込んできた。
「それはその者たちがキツネだからだよ。九重会の支所長は彼らのトップのようなものだからね。こう見えて化けキツネの世界は厳しい縦社会なんだよ。まぁ、あとは噂を聞きつけた人間がご利益のために寄付してくることもあるけどね」
「トップ?」
奏斗が聞き返すと蘇芳は自慢げに語りだす。
「あぁ、九重会は私や姫を含め9匹のキツネが主だって活動しているのだがね、みんなそれぞれ1~9本の尾を持っているのさ。人間は年数によって尾が分かれると思っているみたいだが、そういうわけでもない。その妖狐が持つ尾の数は生まれつき決まっているのさ。そして持つ尾の数が同じキツネの中で一番力を持つ者が支所を任されているというわけさ」
「じゃあアヤメさんは6尾の狐の中でトップってこと?」
「そういうことだね。だが6尾のキツネは彼女しかいない。姫君は選ばれし妖狐なんだよ。なんせ母親があの九尾狐、玉藻前だ。母親譲りの圧倒的な力と美しさだよ。まぁ私には及ばないけどね」
蘇芳は恍惚の表情を浮かべる。舞はライチュウの背を撫でながら奏斗の耳元へと寄った。
「アヤメちゃんがそんなすごい妖怪だったなんて驚きだよね。初めて聞いた時は信じられなかったけど、久しぶりに会って納得しちゃった。アヤメちゃんって遠い存在だったんだね」
「うん……」
奏斗がアヤメを見ると彼女はもうとっくに車に乗り込みエンジンをかけていた。蘇芳がエンジン音に気づき車を指先す。
「舞、先に車に乗りなさい」
「はい」
舞はライチョウを抱えたまま白い車の後部座席に乗り込んだ。すると今度は蘇芳が奏斗の耳元で囁く。
「君は舞と話が止まらないようだね。つまりは姫よりも舞の方が話しやすいということだ。やはりわかり合えるのは同族だと思わないかい?」
蘇芳の口元はニヤリとしているがその目元に笑みはない。
「そんなことは……」
『そんなことはない』と言おうとして奏斗はその口を閉じた。確かに舞は話しやすい。でもだからと言ってアヤメとわかり合えないとは思っていない。しかし、アヤメは奏斗とわかり合いたいなんて思っているのだろうか。そんな考えが頭をよぎったのだ。蘇芳は奏斗の心を読むように怪しく笑う。
「今日の彼女は機嫌が悪かっただろう? それが何故か君にはわかるかい?」
蘇芳は意地悪く奏斗に質問をしたが、彼が答える前にまた話し出す。
「彼女は嫉妬しているんだよ。僕が舞を連れて来たからね。気が強い女は嫉妬深い。まぁ僕は彼女の嫉妬なら大歓迎だけどね」
そう言うと蘇芳は白い車の運転席へと乗り込んだ。
(アヤメさんはやっぱり蘇芳さんのことが……)
蘇芳が車に乗り込んだことを確認したトロトロがポケットからひょっこりと顔を出した。
「あいつの言うことはあんまり気にするなよ」
そう言われてもすべてを見透かしているような蘇芳の視線がまとわりついて頭から離れなかった。
二台続けて走る高級車を町の人は物珍しそうに見ている。1台は大きな傷付きだから余計だ。隣で運転をしているアヤメはまっすぐ前を見て一言も話さない。
こんな時に蘇芳のことなど聞いても、きっと答えてはくれないだろう。
小さなため息をついて窓の外を見ていると、景色は変わっていき、群青色の海が見えてきた。海岸沿いを走っていると、後ろの蘇芳がハザードを出したので、ミラーでそれを確認したアヤメは車を道路脇に止めたのだった。