ツルンブルの魔女
風が窓の隙間でキーキー音をたてるのが聞こえる。
近くで火が燃えているような、木のはじける音が聞こえた。
そして、エレベーターに乗り続けているような、不安定な心地悪さをぼんやりと感じていた。
作家は眉間にシワを寄せながら目を覚ます。
すると、部屋の中の様子がぼんやりと見えてきた。
「お目覚めかね?」
自分の顔のそばで老婆がにたにたと笑っていて、作家は訳が分からないままぼんやりと見上げた。
「あんた、誰?」
「ツルンブルの魔女じゃよ。お前さんをこちらへ呼ばせてもらった」
「そう、魔女ね……」
とろんとした目をしたまま、作家は老婆を見つめた。
老婆はなにかを説明しているが、それどころではない。
強い睡魔が彼を襲い、作家はどろどろととろけるように眠りについてしまった。
そうして、数時間か数日が経った頃。
作家は苛立った声を聞きながら、再び目を覚ました。
「まったく、いつまで寝てるつもりなんだい!
ここはアンタの家じゃないんだよ!」
「ああ?アンタなに言ってんの……」
しかし、はっと目を開けると、確かにここは自分の家ではなかった。
煤で薄汚れた石畳の床に、フチが溶けた紫色のツボがいくつも並んで置いてある。
窓には鉄格子がはめられていて、その窓枠も歪んでいた。
大きな暖炉のようなところでは、グツグツと煮えたぎる鍋が火にかけられている。
「なんだこれ!おい、どういうことだ!」
「ぎゃーぎゃーわめくんじゃないよ。いい年した男がみっともない。
こんなに素敵なことが起こったのに、なにが不満だってんだ」
「はぁ?薄汚いばあさんに監禁されてんだぞ!」
「なにが監禁だ。大げさなやつめ」
「どこがだ!鎖で縛り付けてるじゃないか!」
「それより、自分の姿に驚きはしないのかい?」
作家は一番肝心なところはあえて口にしていないのだった。
ちらりと見てしまった自分のすね毛は、急成長を遂げていた。
と言うより、体全体が黄色とオレンジのふさふさした毛で覆われているようである。
ふざけたことに、すねのところのオレンジの毛は縞模様を作っていた。
「アンタは猫になったんだ。願望が叶って嬉しいだろ?」
「願望?」
「私が作った薬を早く誰かで試してみたくてねぇ。ちょうど条件にあてはまるやつを探したんだよ。
面白いものへの変身願望があって、家族もいなくて、うっかり命を落としたとしても誰も困らないやつを」
作家は背筋が凍るような思いで魔女を見た。
とにかくこの老婆はイカれてるが、自分の姿がどうかしているのも確かだ。
本当に猫になってしまったのか、訳がわからず頭の中がぐるぐる回る。
混乱しながらなにかを呟く作家を見て、うすぼけた紺色のローブを着た魔女は、口をねばつかせながら黄色い歯を向けて笑った。
「さて、私の薬の効き目は確かめられたし、アンタは用済みだよ」
魔女は壁にかけてあった斧を手にとって、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
その目はこれが生きがいだと言わんばかりに底光りしている。
逃げ出そうとしても、作家の体は鎖で縛り付けられていて、どうすることもできない。
彼は青ざめながら、慌てて回らない口を動かした。
「実験は失敗じゃないのか?俺は猫になりたいなんて思ってないぞ!」
「いーや、アンタは思ってたよ」
「思ってない!」
「思ってたって言ってるだろ」
とりつく島もなく、じりじりと近づいてくる老婆は、暖炉の炎を斧に映して光らせている。
きっとよく研いであるのだろう。
きゅうりみたいにスパスパ切られてしまう自分を思い浮かべると気が遠くなる。
作家は意識を手放さないよう、大声で言った。
「俺が死ぬと設楽が困るぞ!」
「そんなやつは知らん」
「俺の親友だ!」
「知らんね。アンタには親友なんていないはずだよ」
やはり、老婆は聞く耳を持たなかった。
作家はおとぎ話にしか登場しないこの状況を、おとぎ話的に考えてみることにした。
主人公が助かるにはどうしたらいいだろう。
今まで読んできた物を一瞬で総ざらいして、走馬灯を眺めるように思い返した。
そして、作家は決意を固めてはっきりと告げた。
「アンタの召し使いになってやる!これでどうだ!」
「召し使いなんかいらん」
作家はもうなにも思い付かなかった。
恐怖のあまり情けない笑い声のようなものが口から漏れた。
泣きそうな声と笑い声は意外と似ているものである。
俺はもうおしまいだ、そう思った時、魔女は自ら足を止めた。
「そうだね。魔法の実験台にもなって、召し使いもやるなら考えてやらんこともない」
斧は作家の鼻の先で止まり、つるつるの刃先が今にも鼻を真っ二つにしようとしている。
作家は頷くことも出来ずに、か弱い声で「やります」とだけ答えた。
「そうかい、なら交渉成立だ」
魔女は斧を取り下げて、壁の方へ戻しに行った。
その帰りに潰れた鈴がついたわっかを手にして、ため息をつく作家の方へ近寄った。
シワだらけの手がわっかをするりと首にかけ、きつく首に巻き付けた。
「首輪だよ。これでアンタは私から逃げられなくなった」
鈴は場違いに綺麗な音色を響かせる。
作家は疲労で目をうっすら開きながら、ただ頷くだけだった。