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設楽とミステリー作家

春のぽかぽかと暖かい日。

桃の花がほんのりと香り、柔らかい花びらが通りに舞っていた。

ひなまつりを数日後に控えた午後、三十代くらいのスーツの男性が桃の花の下を歩く。

ちらちらと舞った花びらが、水溜まりの中へ落ちていくのを彼は見ていた。

地面のくぼみに残った小さな水の鏡は、真っ青な空を写し、まるで青空と花びらを閉じ込めてしまっているように見えた。


男性はさらに歩き、賑やかな通りを横切った。

花通りと名付けられた商店街は、文字通りに花屋が多い通りで、桃の花にも負けない色とりどりの花が店先に並んでいる。

そんな花屋に囲まれて、ひっそりと小さな本屋が建っていた。

きしみそうな扉の横の、古びたショーケースはほこりが被り、中の展示された本も日焼けして色が薄くなっている。

しかし、そこには一冊だけ真新しい本が置かれ、セピア色の世界でひとつだけ輝いているような、綺麗な本がこちらを向いていた。


男性はその本をよく知っていた。

可愛らしい猫が帽子を被った表紙を、子供にせがまれて何度も開いた事がある。

何回も読み聞かせてボロボロになった絵本は、今でも子供達の宝物だった。

今から男性は、この本の作者に会いに行くのだ。

作者は彼の古くからの友人である、とあるミステリー作家だった。


花通りを抜けて、白く薄い雲を見上げながら路地を歩く。

春の陽気を感じながら、男性は友人の住むアパートへ向かった。

こんなに気持ちの良い春の日なのに、なぜか彼のアパートの周りだけは、風がひんやりと冷たく、湿り気を含んでいる。

もっと良いところへ引っ越せばいいのにと、勧められることも多いらしい。

しかし、友人はあのアパートを離れることはなかった。


男性は軽い手土産をぶら下げながら、アパートの階段をあるく。

コツコツと、静かな階段に靴の音が響いた。



「こんにちは」



たどり着いた扉の前で、男性は明るい声を出す。

すると中から足音が近づき、顔を緩ませた友人が扉を開けて、先に声をかけた。



「ちょっと久しぶりだな、設楽」


「嫌味はやめてくれよ。仕事が忙しかったんだから」



設楽はさっぱりまとめた短い髪を手で押さえながら、気まずそうに笑った。

そんな設楽を玄関に招き入れ、友人は奥へと誘導する。

久しぶりの友の家の中は相変わらずこざっぱりしていて、整頓されているというより、物が少なく味気なさを滲ませていた。

それでも本だけは専用の本棚にぎっしり詰まっていて、本と本の隙間のなさが、神経質そうな雰囲気を醸し出す。


設楽は小さな白いテーブルの向こう側に座って、友人の方を見た。

いくらかうんざりした様子で、友人はそれに答える。



「それで、お前も絵本の話か?」


「ああ。俺に要望が来るから困ってるんだ」



小さな役場に勤める設楽には、重要な話の他に、住民の小さな不満やささやかな望みも集まってくる。

そのどちらにも当てはまっているのが、友人が描いた絵本の話だった。



「俺がお前と友達だって知られてから、役場の人たちにまでせがまれてね」


「どうせ、お前が余計なことを話したのがきっかけだろう。

俺の名前を出して、誰か口説こうとしたか?」


「相変わらず皮肉っぽいな。どうしても書いてくれないのか?」


「いや、街のお偉いさんにまで出向いてもらったら、書かないって訳にはいかないだろ」


「そう嫌味ばっかり言うなって」



設楽は友人に出されたコーヒーで、最近の疲れも喉の奥へ流し込んだ。

あまり進展のない日常で、思い返すのは昔のことが多い。

それは友人も同じで、二人は回想するように目を細めた。



「だけど、お前が絵本を書いた時はびっくりしたよ。

皮肉屋で偏屈な小説ばかり書いていたくせに、どこからあんな文章を引っ張り出したんだ?」


「言いたい放題だな。俺にだって、子供心は残ってるよ」


「子供心ねぇ。俺はそんなん簡単なものじゃないと思ってるけどな。

だって、あの絵本はいまだに増刷されてるんだぞ」


「それは俺のネームバリューで売れただけだろ」


「いいや。あれは俺の子供も気に入ってるし、俺もあの絵本は気に入ってる」


「そう」


「細かい描写が切なくて、胸を打つんだよな。

地面とくっついてる足のうらが、いちばん寂しさを感じるって猫が話すところ、俺は大好きなんだ」


「それは良かった」



窓辺の椅子に腰かける友人は、遠い空を見てなにも思っていないようだった。



「なぁ。才能があるのに、どうして続きを書かなかったんだ?」


「才能がどうとか、そういうことじゃないからな。

そもそも、あれは麻実の代わりに書いただけなんだよ」


「代わりって?」



設楽が不思議そうな顔をするので、友人は少し笑った。



「単純な話だ。麻美が、ふっと俺に言ったことがあったんだよ。

もし自分に才能があったら、絵本を書いてみたかったなんて、散歩してたときに話してた。

今みたいな春の日だったから、桃の花の下を二人で歩いてたんだ」



窓の外、遠くに咲く桃の木を見ながら、友人はぼんやりとした目をしていた。

昔、友人の小説が売れておらず妻の麻実が家計を支えていた頃のこと。

小説家という不安定な仕事を否定せず、応援し続けた彼女は、突然この世を去った。

そのとき歩道を歩いていた彼女は、下校中の小学生を、暴走する車から庇ったらしい。

誰にもなすすべはなく、友人の目の前で麻実は息を引き取った。


窓の外へ視線を向け続ける友人に、桃の花を見に行こうか、と誘ってみたが彼は静かに首を横に振る。



「思い出は綺麗なままでとっておきたいからな」


「でも、俺は今日見てきたぞ。

お前の本も、桃の花も、汚くなったものなんてなにもなかったんだ」


「ありがとう」



友人が笑うのを見て、時が止まった部屋から、設楽は帰ることにした。

設楽を玄関まで見送って、友人は扉を閉める。

最後まで笑顔だったところを見ると、もしかしたら友人は今の方が幸せなのかもしれない。

けれど、どこか生きる気力を失った姿は、設楽には痛々しく見えていた。

綺麗に咲く花の中、設楽は憂鬱そうにため息をつく。



「でもな、あの絵本を書いたのはお前なんだぞ。

麻美が書いた訳じゃないんだぞ」



直接言えなかった言葉を呟きながら、彼はまた桃の花の下を通った。

どうすればあの部屋から彼を連れ出せるのか、自分には分からない。

なにか、奇跡のようなものを望むしかないのだろうか。

どんな類いの奇跡かは分からないが、設楽は祈るように空を見上げた。

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