3 那智
冬も終わり春も色づく三月末。
東京の玄関口、羽田空港にて。
自家用飛行機から降り立った彼女は、真っ黒な腰まで伸びた髪の毛を揺らす。綺麗になびく黒髪は、艶やかで少し癖がある。彼女は腰に手を当てて、照らす太陽の光をめいいっぱいに受けている。
“I love NY”と、書いているTシャツを着て、黒くでかいサングラスをつけた150cm程度の彼女は、くいっとサングラスをずらして、本当の世界を見渡して歩き始めた。
手には、大きな袋とキャスターつきのボストンバッグのみ。今からここ日本を旅行するには、外国人ぽくはない。しかし、旅行帰りというにも、荷物が少ない。彼女は、軽そうな荷物を軽やかに運び、歩を進めた。
空港という無機質な建物を出て、彼女は大きく両手を上げる。
「……JAPAN,……JAPAN!!」
彼女はその言葉を連呼して叫んだ。予想通り彼女は変人であるということはお分かりであろうが、彼女にとってそんなことはどうでもよかった。彼女は今、この地に立てて本当に幸せなのである。紹介が遅れたようだが、彼女の名前は黒崎 那智、つい最近、アメリカにて仲の良い友達とお別れしたばかりの15歳である。
目の前に広がる日本には自分の好きな漫画が多種多様で沢山存在している。そんな夢のような世界、本当に楽しみでたまらないのだ。
いや、それ以上の理由が他にある。彼女にとって日本は、母国なのだ。
小学校から中学卒業までの9年という月日をほぼアメリカで過ごしてきた彼女にとって、こうやって戻ってこれたことは本当にうれしかったのである。
「日本人の友達たちよ、待ってなさい!!」
誰に言うでもない。
いや、彼女は一人で会って彼女以外にその言葉を受け答えしてくれるような人は周りにいない。ただただイタイ子であるが、彼女にとってそれはどうでもよいことだ。今、大好きな母国日本に戻ってきて、日本の少女漫画のような展開を求めて戻ってきた彼女にとっては、日本が天国いやパラダイスにしか見えていない。
どれだけ彼女がイタイ子であろうと、彼女の色眼鏡を付け替えることは不可能である。
現実、周りと同じように何ら問題なく平凡な暮らしを好む日本人にとって、彼女に向けられる目というものは、奇異なものばかりであった。
そんな彼女も、だれか人を探しているようで、空港の玄関口を出てきてきょろきょろと周りを見渡した。視界の端に見えたその影を彼女は見逃さない。
「も~ち~だ~!!」
彼女基那智が大声である男に呼び掛けた。
やはり、周りからは目立っていたが、先ほどまでの奇異な目ではない。ごく一般的な空港での再会シーンのようなものだろう。そんな場面がある玄関で、だれも彼らの事を再度気にしようとはしない。
「……何ですか。もう、来たんですか」
しかめっつらを見せた男は、サングラスをクイッと上げて、近づいてきた彼女の荷物をサッと取り上げた。動きに無駄がなく、彼についている筋肉を必要なだけ動かした。
ただ、彼女と比べれば、30cm以上高い彼は、どこかのお偉い人のSPではないか、と思われる風貌を持っており、見ようによってはガッチリムッチリのボディービルダーのようである。大きい風貌に焼けた黒い肌をのぞかせる彼の背格好は決してさわやかとは言えない。
彼の服を脱がしてみれば、彼の体は春にも関わらずむさ苦しくて暑くなってきそうである。また、黒く日焼けした肌だけは、遊び人の残り香を彷彿させ、白いシャツに黒いスーツを羽織っているにも関わらず、真面目なサラリーマンには全く見えなかった。
「なによ~? 私が来たら問題でもあるわけ?」
腰に手をあて怒る彼女。そのガタイの大きい彼に怒る彼女はまた小さく、体格の差が歴然としていて、逆そのような口をたたいてよい物かと周りがひやひやとしてしまう。
しかし、素知らぬフリして歩いていくサングラスの男は、あまり那智という彼女を好いてはいないらしく、相手もしなかった。
そのモチダと呼ばれた彼の坊主頭に切れ込みが入り、余計、二人のおかしさをプラスした。
「えっ、女の子が話しかけて聞いてあげてるのに、無視なわけ?!」
彼の無反応に痺れを切らした那智が、ガタイの大きな彼を睨み上げた。サングラス越しに見えるくりくりとした黒い瞳が彼をにらみつけるも、何の凄みも見受けられない。
逆にため息をついた持田がようやく口を開く。
「……全く、女の子なら、もうちょっとおとなしくできないんですか」
「なによっ、父様の秘書だからって、調子に乗らないで!」
「黒崎さんの前では、こんな所見せませんよ」
そういう男・モチダの口が、ニヤリと笑う。彼の細いサングラスの奥に光る眼も、同じように馬鹿にしたような目が映る。彼らの関係がいまだにはっきりとはしないが、はた目から見たら活発な女の子とヤのつく家業の人が言い合っているようにしか見えなかった。
ただ、当の本人達はそんなことを思われているとは気づくこともなく、持田という男が持っている高級車に乗り込んだ。
綺麗に清掃された車内からは、彼の潔癖症な所が出ている。逆に大雑把な彼女とは、正反対であり、反発しあうのは今に始まった事ではなかったのだ。乗り込んだことを確認したモチダは、後ろを一瞥した。
「……さて、飛ばしますよ」
「え、ちょ、まっ?!」
この展開を知っている彼女は必死に止めようとするも、その抵抗は無駄に終わる。走り出した車は、都内某所へ急いでいくも、彼女の意向はそう無視である。勢いよくエンジン音を鳴らす高級車は、どんどんと速度を上げた。
「もちだのばかぁぁぁっ!」
「高速ですから」
交通規則違反を余裕で越えた速度で高速道路を渡っていく車は、ただの凶器でしかない。彼の容姿に似合う走りやっぷりを披露させられたのだった。
ようやく目的地をついた頃には、彼女に生気など宿っていなかった。
「……はぁっ……、い、生きた心地がしなかった……」
車から雪崩落ちる那智は、サングラスを外し、地面に座り込む。大きな眼をふせて、地面に両手をつき今にも吐きそうである事を体全体から示していた。
が、自分より格下であるモチダがそれを助ける素振りは1mmもない。
「楽しかったでしょう?」
「んな訳、あるかっ!!」
叫ぶ彼女、いや、苦しむ彼女をみて楽しむ彼は、かなり鬼畜だ。吐き出しそうな何かを勢いよく飲み込んで、立ち上がる彼女。久しぶりに見た我が家の前で、嫌な思いなどしていられなかった。これから先、遠い外国で住むこともなく、この大好きな我が家で過ごせることが、何よりもうれしかった。
彼女の見上げた目的地、そこは東京の中でも有数の高級住宅街に並ぶ大豪邸である。大豪邸の名は、黒崎廷。厳かな門の中に止められた車は、大きな黒い車の横に悠々と止められている。彼女の父親の物とモチダの車しか置かれていないが、他にもたくさん置けるほどの敷地がある。
だのに、このモチダ、父親である社長の横に車を置いているとは、自分の立場をわきまえたほうがいいのではないか。いや、父親もこのモチダに甘すぎると思う。
「ったく……、父様も何でこんなバカを雇ったのか……」
「あの人の前では猫かぶりしますから」
「父様が、見破らない訳がないっての」
ふて腐れるようにして、車の後ろからキャスター付きのボストンバッグを下ろし、片方の大きな荷物を彼に突き付けた。これぐらい持ちやがれ、と言わんばかりに彼にたたきつけるようにした荷物は、相当な重さがある。
しかし、このがっちりむっちりなガタイを持つ男である。それを軽々と持って難なく彼女をエスコートするからまた、気に食わない。
「じゃ、私だから、雇われたんですよ、きっと」
「……うわぁ、やっぱり嫌いだわ、アンタの事」
「私も嫌いですから、ご心配なく」
ふっと笑う持田は、微妙な大人の余裕を見せ付けながら、大豪邸の扉を開く。先へどうぞ、と促す持田の存在が、なにぶん余計に彼女の気を立てたのは言うまでもない。大人の余裕というか、馬鹿にしたようなふるまいに、ただただ腹を立たせるだけの自分もまた、腹立たしいと思ってしまったが。
久しぶりに帰ってきた我が家は、やはり、凄い豪邸であった。確かに、数年で変わる訳はないのだが、やはりこの家素晴らしくお金がかかっている。大豪邸の中は、やはり全面大理石の床であり、靴で歩き回れる。このぴかぴかに磨き上げられたであろうお手伝いさんたちが、自分を見つけて明るい笑顔で挨拶してくれる。本当にいい人たちだ。
昔からいるお手伝いさんにはよく可愛がってもらったものだ。これからまたお世話になることを伝えたりしていると、お手伝いさんが何かに気づいて会釈する。その場が一気に厳かになった。
「……那智。帰ったのか」
予想通りに呼びかけてきた声だが、やはり驚いた。いきなり聞こえてきた声に、体をビクつかせてしまった。玄関ロビーから続く螺旋状の階段に眼をやれば、やはり、彼はこちらを見下ろしていた。
年齢的に言えば40代後半の容姿を持った彼は、こちらを向いてニッコリとほほ笑んでくれていた。
「父様! はい、今帰りました!」
父親に会えた嬉しさが彼女の顔からも体からも滲み出る。それをみた父親の顔は余計にほころぶ。黒いスーツを着て、優しそうな面持ちのどこにでも居そうな中年男性である。尚、あたまはハゲていない。しかし、お腹は多少出ている。身長が少しばかり高いからカバーできているが、これで小さければ本当にそこらのビール腹のおじさんと変わらない容姿を持っていた。
「元気そうで何よりだ。あぁ、話があるし、一段落ついてから、私の書斎に来なさい。ニューヨークの話も聞きたいしな」
「はい、父様! お土産もありますし、すぐに行くわ」
楽しそうに返事をする子供の元気を微笑ましそうに見る彼は、やはり、そこらの父親と何ら代わらない。正直を言えば、大豪邸の持ち主だとは、誰も思えないのだ。この彼が芸能界の1、2を争う有名事務所の社長であるのだから、これまた驚きだ。どこにでもいるおっさんが、芸能界の主役を担う人たちの長であるなんて、だれが思うだろうか。
荷物を持って、大理石の廊下の上を駆け抜けていく彼女を眼で追いながら、彼の顔は優しそうなモノから、厳しいモノへと変わっていく。彼の中ではこれから起こりうることに恐怖しか覚えていなかった。
「……大丈夫なのか……」
玄関ロビーに響く声がモチダに届く。見上げた彼と眼があって、サングラスをとり、礼をした。彼の雇い主はこの黒崎社長である。彼は主である黒崎社長に近づいていき、今一度礼をした。
「持田も来るか。これからは、お前に色々頼まなければならん」
「もちろん、そのつもりでございました」
先ほどまでのおどけた言葉づかいではなく、顔を上げてその力強い眼を向けて力強い言葉を投げかけた。自分の主のいうことに、異論などない、そんな風に。
「悪いな、では行こうか」
畏まる持田が、父親に早足で駆け寄り後ろから着いていった。
この人には、一生着いていく、そう決めたのは十数年も前のこと。今から、何をしようが、何を言おうが止めるつもりは毛頭無い。彼が自分の手で死のうなんていう馬鹿な事をするとき以外は。ただ、如何せん彼の顔がすぐれない。その理由を知っているだけに、どうしようもない事なだけに、何も言え出せずにいる。
否、手段は一つしかないだけに、他に動きようがないのだが。
「あの子は認めてくれるだろうか……」
「認めさせなければならないでしょう。どんな理由があったとしても」
サングラスをかけ直し、仕え主へ勇気付けの一言を添えた。あのバカ娘のために、こんなに悩む彼の気がしれない。あれは、何も考えず自分の思い通りになるとばかり思って帰ってきただけなのに。そんなはずもなく、彼女の生き方そのものが曲げられるとは知らずに。
そう考えている矢先に、長い廊下の先に見えるバカ娘を捕らえた。あぁ、何で奴は帰ってきたのか。我が主をここまで苦しめるのであれば、先ほどの高速道路でもう少し再起不能にしておけばよかったと後悔してしまう。
「父様、早く! アメリカ土産のプレゼントがあるんだから!」
そう言って、25m先で跳びはねるバカ娘をみて、仕え主は余計に重い重いため息をついた。今、その笑顔がわが主をどれほど苦しめているのか解っているのか。なんでこうも、明るくふるまっていられるのだ。大きい溜息をついた後で、我が主の言葉が自分の脳裏を反芻した。
――ため息をすればする程幸せと金がにげてゆく――
それが彼の口癖のように、ため息をついた自分を主は見つめてきた。幸せと金を逃していくなと言わんばかりの睨みで。
「……余計に憂鬱になるよ、持田」
「あえて言いましょう。何故、日本に戻したのですか。そして、あえて、もう一つ。
馬鹿ですか」
「君はあの子の事になると、言葉遣いが究極に悪くなるな……」
逆に大きいため息をプレゼントされてしまった。我が主がため息をつかぬようするのが、自分の務めであるのだろうが、今だけは譲れなかった。あの馬鹿女の何がいいのか全く分からなかったのだ。
あぁ、さっきの運転で、アイツを再起不能にしておけばよかった、そう強く思う持田とは違い、彼女は上機嫌そのものだ。
「父様~?」
彼を呼ぶ彼女は、彼の心中を一切悟ってはいない。究極の親不孝者だと確信してしまう。
何故あのような問題があるというのに戻ってきたのか。おとなしく後三年アメリカに居ればよかったではないか。なにも知らないと言えど、今の時期それもあと三年というタイムリミットがある時期に帰ってくるなど、無知すぎて嫌なになる。
本人に言ったところで何も変わらないことは重々承知の上ではあるが、このような選択をした我が主も相当な親バカなのだろう。
勿論、偏見ではないと信じている。
「……あぁっ……、とりあえず、プレゼントやらを貰いに行こう……」
落とした肩を勇気付けながら、二人はバカ娘の元へ向かっていった。
ある重大な事を話に行くために。
書斎に入った三人は、ソファーに向かい合わせに彼女と父親が座り、父親の側に秘書、持田が立った。もちろん、上座に座る父親は目の前の那智に長ったらしい説明をし始める。が、那智は聞こうという気が全くないのか、丸無視して今回の留学での楽しかったことをひたすら喋っている。
両者の話は全くかみ合っていないだけに、そばに立つ持田としては目の前の馬鹿を殴りたくて仕方がない。これほど重要な話をしているというのに、なぜ彼女は耳を貸さないのか。
一方、父親のしていた訳の解らぬ話を聞き飛ばしていた彼女・那智は、お土産を手に、キョトンとする。
「……と、いうことなんだが、那智」
「え? なんですか?」
いじくり回していたアメリカからのお土産――カウボーイハットを父親に乗せに行き、聞き直した。彼女はアメリカであった事を話していることが何より楽しらしかった。明らか、父親の話など聞いてはいなかった。
突然の言葉に、眼をパチパチとさせて、改めて父親の横に腰を下ろした。目の前の父親は、あきれたようにしながらも、こちらを見直してくる。
「だからな、那智。来月から通う学校は、どこだ?」
「へ? 青空学園でしょう。父様が理事長やってるから、私は今回テストも無しで芸能科一学年にも入れる。父様には、本当、感謝していますよ?」
そういう彼女は、内心拍手をしている。父親にかぶせたカウボーイハットが似合いすぎていて、うれしかったのだ。他にも大きなコアラのクリスタルや、万年筆やら、その数、十数個。
確かにこれから先の学校生活が楽しみではあるが、唯一の家族である父親にアメリカの話をするのもまた楽しい。中学三年間の父の日誕生日などの、イベントごとのプレゼントが貯まりに貯まってこうなっていた。
「その話なんだが……、那智。お前の身を考えての事なんだ、聞いてほしい……」
「なんですか、父様。遠回しに言っても、どうせは言わなきゃならないんだから。早く言ってください」
勿体振る父親はらしくなかった。会社や学校じゃ、言いたいこと言ってるのに。先ほどから彼女が話を聞き流している要因もそこにあった。父親は本題を避けて、永遠と回りくどく何かを言っているだけなのだ。それであれば、聞く必要は少しもない。
買ってきたプレゼントを再び開く。次は、中学2年生の父の日のために買った、ネクタイピンだ。これも、自分の父親に似合うと思って気に入って買ってきたモノだった。
「……那智。よく、聞けよ?」
「えぇ、ちゃんと聞いていますよ?」
ニコリと笑って彼女は父親のネクタイに手をかける。すでにつけていたネクタイピンを外して、自分が買ってきたものをすっとつけに行く。
「これはね、父様。ケンタッキーへの旅行でね、もらったのよ?」
そう言いながら、父様のネクタイに手をかけた。うん、どんな色にも合うだろうと思って買ってきたネクタイピンは、ネクタイによく馴染んでいる。それを誇らしげに見つめて、ネクタイを触るも、父親はじっとこちらを見て目線を離そうとしない。
観念して、そのまま彼の方を向くと、彼も彼で何か意を決して、一言告げた。
「那智、男になれ」
一瞬、時が止まった。
否、何を言ったのかわかってなかったのだ。
ネクタイを持った手が無意識に力を入れていた。
「…………え、……はいっ?!」
手に掛けてたネクタイを、そのまま、ぐぃっと引っ張ってしまう。
いやいや、この親何を言っているの。かわいい可愛い一人娘になんてことを言っているの。
「ぐぅっ!!!」
引っ張れば、彼の首が締まることも当然である。
だが、理解もできずに、頭がパニックとなってネクタイを握り締めて締め上げる力が強くなっていた。
「ちょっ、と、父様っ! ど、どうゆうことですかっ?!」
「ばかっ、その前にその手を離しなさいっ!!」
「どうゆうことなのよぉぉっ!!!」
「し、しぬぅぅぅっ……」
「ちょ、しゃちょぉぉぉっ!!!」
三人の雄叫びのハーモニーが、屋敷中に響いたことは言うまでもない。
それから暫く、娘は放心状態、父親は瀕死状態になり、メイドや使用人たちが入れ替わり立ち代わりケアをしに来た。
再び、三人になったときには先ほどの発言から30分程度時間がたっていた。
「ゴホン、ゴホンッ……」
「もう……、大丈夫ですか?」
父親の肩を叩きながら、那智を睨む持田。
いや、こちらが悪いというのか。このやくざにしか見えない秘書は。私は断じて悪くないであろう。耳を疑うような事を父様が言うからいけないのだ。
そう思う彼女を他所に、持田は上司の背中をさすり続けた。
彼女の思惑とは真逆で、てめぇが悪いのだと言わんばかりに。
「……はぁ、死ぬとおもったぞ、那智……」
「だって、私性転換なんて嫌だもの。私はこちらの華の高校生活を夢見て、帰ってきたんです。男なんて、死んでも嫌でしょっ!」
向かいのソファーにふんぞりかえって座る彼女に対し、彼女をみて、また、ため息をついた。いや、これが普通の対応だと思う。いきなり男になれと言ってなるような女、どこにいるというのだ。世界中探しても中々いない。自分がそうしたいと思うなら、まだしも。
「頼むよ、那智。君のためなんだ……」
「嫌ったら嫌っ! 私がする必要がどこにあるっていうのっ」
フンッ、とそっぽを向いて、プレゼントを全部取り上げた。娘を息子にするなんて、どういう頭をしているのだ。それも黒崎財閥の娘を。頭がいかれてしまったとしか思えない。どうやったら、そんな結論が出てくるというのか。
ふんぞり帰る那智とは違い、至極冷静な持田が、父親に耳打ちする様子が見えた。
彼女には一切聞こえぬ小さな声に、耳を澄ませても無意味だが、気になってそちらをにらみつけた。
持田の助言に、父親は口を唸らせる。彼の助言に対して、あまり好印象ではない父親だが、持田は表情を変えずに言葉をつづける。
「最初から、それしか無いですよ」
「……そうだな……」
ハァッ、とため息をついた父親が那智の上から下までを見て、ウンと、何かを決心したかのように頷く。また意を決した彼は、口を開く。こんどはまともな言葉が来るのだろうか。
「那智。じゃぁ、男装してくれ」
「……ダンソウ? 地層にでもなれっていう……、え、死ねって言ってる?! え、まさか自分の子供に、死ねと!? 唯一の家族に、死ねって?!」
「違いますから。バカですか、あなたは」
「なっ?!」
バカって何だ! という風に、腹を立てる。
ダンソウってなんだ、ダンソウって。思わず立ち上がって、持田を睨みつけたが、持田は哀れなモノを見るように彼女を見ている。その眼付も態度も気に食わない。やはり、この秘書、嫌いだ。
「貴女のそもそもの目的は、華の学園生活なんかじゃないでしょう。あなたが入る理由はそこではないはずです」
「うるさいなぁ、解ってるよ。ってか、持田は、だ・ま・れ!」
「那智、落ち着きなさい」
「う……、ごめんなさい、父様」
シュンとなった那智はソファーに座り直して、父親を見返すもただただ申し訳なさそうにいう彼は少しだけ強気に出てくる。
「解るね? 男になれとは言わない。ただ、男の格好をしてほしい。それだけだ」
「……理由はなんですか?」
そういう聞くこちらに対して、彼は首を振った。
理由は言えないと。理由も言わずに従ってくれとは、筋など全く通っていないではないか。確かに、自分の夢のためにも青空学園に入ることは本当に望んでいたことだし、喜ばしいことだ。
正直、入学試験を免除されなくとも受けるつもりであったし、受かるつもりであった。だが、父親が別にしなくてもいいと言うのでそれに甘えた。その結果がこれだというのか。
理屈などまったく通っていないではないか。
「……すまん、頼む、那智。君のためだ」
理由は聞いてくれるな、そして何も聞かずに従ってくれ、と。
彼は娘に頭を下げていた。どこの世界に父親がたった15歳の娘に頭を下げるなんてことをするというのか。目の前の彼以外、そんなことをする人はしらない。
親に頭を下げられるなんてたまったもんじゃなかった。
というより、片親しかいない彼女にとって、彼は絶対であって、また、一人しかいない家族であって。さらに言えば、彼の後を継ぐために青空学園に入るようなものだ。将来の芸能界の担い手たちを育てる術を勉強していくために。
自分の夢のためにも、この青空学園へ入ることは近道なのだ。
了承せざるを得ない状況だった。
「……頑張って伸ばしたのに……。男の格好というより、男性になり切れ、ということですよね」
「そういうことに、なる」
腰まである長い髪をいじる。あぁ、この髪ともおさらばなのか、あぁ、綺麗だっとアメリカの友はほめてくれていたのに。このまっすぐ直毛な毛質といい、さらさらとなびく黒い髪は誰もが憧れていくれていたのに。
男の格好になるというのなら、髪をバッサリ切る必要があるのだろう。
仕方がない、色々考え併せてももう一度アメリカに行く気などさらさらない。もう一度あの家族もいない自分と同じような人がいない土地に行くぐらいなら、男の格好でもなんでもしてやろうではないか。
それが、自分の夢への近道なのであれば。
「……わかりました。従います」
「……いい、のか……?」
「親に頭を下げられて、いいえなんて言えないですよ、父様」
「本当に?」
「はい。けど一つ、条件、よろしいですか?」
そういうと、父親はゴクリと息を飲み彼女に向き直る。長い髪の毛をサラリと流しながら、彼を見上げた。
「寮は、一人部屋にしてくださいね?」
「……あぁ、あぁ!! もちろんだ、那智!」
そういって、本当に喜ぶ彼をみて、ただ笑った。そうするしかなくて、笑った。
自分には、それ以外の選択肢など存在しなかったのだ。いつだって、彼がひいたレールの上を歩いてきたが、今度はこんなレールを歩かされるとは。
別に、理事長がそうしろと言っているのであれば、バレたところで問題はないだろうし、退学なんていうこともないはずだ。
そこも確認しておく必要があるか。
「一応、バレてはいけないのですよね?」
「あぁ、そうだ。きっと芸能界なんて場所に出歩くことや、メディアに顔を晒すことは少ないかもしれない。
しかし、私の娘であることだけを隠せば如何様にもなる」
「では、友達や周りにはあまりバレないようにしろと」
「そうだ。君が入るのは芸能科だからな。もし顔が出た時に、男の格好をしていれば何ら問題はない」
「性別にそれほどの意味を持っているんですね」
「……まぁ、な」
それ以上は何も言えないのか、口を噤む父親。
とりあえず、自分が女性であることが問題らしい。なぜなのかは知らないが、あまりバレないようにする必要があるのか。正直、バレたところで自分が死ぬとかそういう理由が語られていないだけに、ばれないようにしなきゃ!なんていう心がけもしにくいのだが。
人生ってやっぱり上手くいかないものだ。
「わかりました。そうと決まれば、やるべきことが沢山あります。
自室に戻りますね」
話が終わった感じを見せるその場に別れを告げて立ち上がる。目の前の男性2人は、こちらを見やるも、何も言い出せずにいるのがわかる。どのような言葉を駆ければいいのか迷っているように見えた。
とりあえず、今は自分の頭の中を整理する必要があるのだ。
彼らに何かを言えるほどの気力が残っていない。
「那智」
呼びかけられた声に、振り返るのが嫌で、足だけを止めた。
今振り返ると、自分の運命を呪い、そして泣き叫んでしまいそうだったのだ。
振り返らないことが分かった父親は、自分の小さな背中に声をかけた。
「すまない。従ってくれて、ありがとう」
心からの一言だ。
それが嫌でもわかったし、それを理解するようにしたかった。
が、理解したくない自分もいて。やはり振り返ることは不可能であった。
「髪を、切ってきます」
そうとだけしか言えなかった。
いいえ、貴方の意向に従いますよ。とでも言ってあげれば、彼は満足したのだろうが、そんな生易しい言葉を言える程、自分は強くない。
自分にとっての父親の言葉が絶対なんて、いつからの話なんだろう。
考えても無駄であることは重々わかっている。アメリカ行きの留学だって決めたのは彼であり、自分の意向はなかった。だが、今回、高校生ぐらいは日本で過ごしたいという希望を通してもらったのだ。
通しもらった結果がこれか、笑える
全く、もう少し自由に生きてみたいな。
1人しかいない家族なのに、その一人にこれだけ振り回されて。
家族だから、仕方のないことなのだろうけれど。
諦めろ、自分の夢が叶いさえすれば、それでいいではないか。
これだけは、だれにも譲れないし、譲ろうとは思っていない。
夢のために、芸能界に進む者達に舐められないように、変装するとでも思っておけばいい。
そう振り切って、考えることをやめた。