2 空
8畳程の部屋にあるのは、たたまれた敷布団と等身大の鏡が一つ。
フローリングに白壁の部屋に、それ以外の物は存在しなかった。
その鏡の前に一人の男が佇んでいる。鏡には空色の目を持った彼の顔が映り込み、朝日が反射する。目は差ほど大きくもなく小さくもなかったが、空色に輝く瞳は、じっと鏡に写る自分を見つめ返している。
彼の名は城島 空。つい最近地元の中学を卒業した15才である。
鏡は彼の今の姿のすべてを映していた。色素の薄い髪や黒いTシャツに白い半袖のYシャツを羽織った肩は、酷く撫で肩ですべての物が転び落ちてしまいそうだ。青いダメージジーンズを纏う足は程よい筋肉がついており、先月卒業した中学生に見合った背格好をしている。
しかし、何が気に入らないのか彼の顔はひどくゆがんでいた。鏡に映る自分そのものが嫌で仕方がないのだ。彼は静かに右拳を上げて、鏡に写る自分の顔目掛けて振り下ろす――――ものの、鏡にぶつかる直前でそれを辞めた。
拳を下げて鏡を裏返す。
もう、この家とも暫くおさらばなのだ。鏡を割るなどして変にあの人に気を使わせるのはよそう。もしかしたら、ここから出られなくなるかもしれない。
彼の顔は整っていたが、彼の顔は嫌いなようだ。
そう、鏡を割ってぶち壊してしまいたいぐらい。
昔から、親に似て容姿が整っていた為か外見に対する褒め言葉はよく聞いているため、ある程度整っていることは知っている。なので、醜いからとかいう理由で嫌なわけではない。このような容姿をくれた両親に、感謝はしている。
しかし嫌いなのだ、この顔が。
この空色の瞳を持つ、自分の整った顔が。
彼には双子の片割れがいる。
美男美女の元に生まれた双子は、勿論美形であった。
自分の片割れもきっとこんな顔になっていたに違いないが、彼は“片割れの顔”を知らないのだ。二卵性の双子と言えど、似てる似てると言われ続けた“片割れ”の今現在の顔を知らないのである。
勿論、知らない物を嫌いになどなれないが、どれだけ綺麗であっても自分のこの顔は嫌いだった。
最初から嫌いだったわけではない。
いつからかなど思い出したくもないが、はっきりとしている。
片割れが、死んでしまった時からだ。
物思いに耽っていた彼を呼び起こすかのように、階段を大きな音で駆け上がる音が聞こえてくる。大きな屋敷であるはずのこの家で、これほどまでの音が出せることが逆に才能であると言っていいだろう。
鏡を裏返した部屋に、勢いよくドアを開いた大きな音が響いた。
いきなりやってきて開ける人など誰かぐらいは予想がついていたが、やはり大きな音が鳴ると内心はびっくりしてしまう。体をビクつかせたりはしなかったが。
「そーらぁっ!」
「……起きてるよ?」
まぁっ、と声を上げて飛び上がる彼女に、思わず笑みを浮かべた。
どこからそんなにカワイイ声を出せるのだろう。見習いたいものである。
そこに立つかわいらしい人、基母親は、可愛らしいエプロンを身につけてドアの前で仁王立ちしている。見た目20代にも見えるその容貌からは、決して40代には見えない。手にもつお玉が部屋に差し込む朝日を照り返した。ある意味での、鬼に金棒ってこういう事だろう。
反射板の役割も果たしているお玉の光で、より一層彼女の美貌を際立たせた。
「全くもうっ、最後の日ぐらい起こさせてくれてもいいんじゃない?」
「え? あー、俺言ったはずなんだけど? 今日はいつもより一時間早く起きるってさ」
「……そうだったかしら……?」
とぼけて階段を下りていく彼女。きっと彼女の事だ、昨日も寝ぼけたまま了承したか何かだろう。どこか、子供っぽさを残したまま成長してしまった彼女は凄く可愛らしい。いつまでも美しくカワイイままでいてくれる母親はやはり自慢であるのだが、いつまでも変わらないままでいるのもまた厄介な事である。
彼にとっては、彼女のかわいさがとても羨ましかった。
羨ましがっても仕方がない、行動を移さねば――そう思った彼は空き部屋の如く何もなくなった部屋を見渡して、大きなボストンバッグを持ち上げる。
今日から上京する。
彼にとっての新たな一歩が始まるのだ。
懐かしい香が漂う部屋に“サヨナラ”を告げ、扉を閉めた。
と、同時に。
パリィンッという音が家に響いた。
眼を見開いて、持っていた荷物を放り投げ階段を駆け降りる。大きな足音を踏み鳴らし、家を揺らしている気がしたが、気にする余裕など無い。この家には自分と彼女ともう一人しかいないのだ。もう一人に気を遣うつもりなど毛頭ないし。
今起きているのは自分と彼女だけだと思えば、彼女が何かしたに違いなかったのだ。
階段を下りていくつかの部屋の前を通り過ぎ一階の廊下の角をまがって、台所に駆け付けた。台所からバッと中の様子をうかがう前に、声が出ていた。
「母さんっ?!」
「……あ、ご、ごめん……、やっちゃった……テヘ」
「……テヘ、って……」
彼女の足元を見遣れば真っ白な皿が真っ二つになっていた。
皿の破片は幸いにも母親の足や手には刺さっていなかったが、一歩動けば怪我をする状態にある。彼女特有のパニック状態を起こしている訳ではない。それを確認して、安心してしまう。
深く安堵の息を吐き身動きできない、いや、身動きしそうな彼女を制止させて、リビングから手当たり次第に清掃に必要な物品を掻っ攫って台所へ舞い戻る。あと必要なのは、玄関先に置いてある箒であろうか。
必要なものが手にそろい、急いで台所に戻っていく。しかし、戻ってきたそこに立つ体格の大きい彼に思わずため息をついてしまった。
「あちゃぁ~、やっちまったな」
パジャマ姿のどこにでもいそうなオッサンが立っていた。境目の天上にぶつけそうな頭を、少し傾けコチラを向く彼は、朝に似合わぬサングラスをしている。朝から、それも家の中でサングラスなど、ただの馬鹿であろう。
「突っ立ってんなら、早く箒持って来い、オッサン」
「冷てーなー」
玄関がある方向に消えるパジャマのオッサンが、自分の父親の様なモノである。母親には到底お似合いではない、恐さと強さ、そして、オッサン臭さを兼ね備えたデカイ男だ。
大きな破片を拾い上げて、無事にそこから動けるようにしてから母親をどかせ、リビングへと向かわせた。最初の焦った気持ちは、無駄に終わってしまったようだが、今日から上京するのに、大丈夫なんだろうかという心労が増えた。
思わずでたため息。誰にも聞かれていないと思って出したものであったから、
付け加えて、後ろから影がさして急いで口を噤む。
「……なんだ、心配か?」
しかし、さしてきた影はガタイが大きい男のものである。母親ではなく、朝からサングラスをかけて行動するただの馬鹿なおっさんである。
「……ったく、脅かすなよ、オッサン……」
彼をおっさん呼ばわりしている理由は沢山あるのだが、それはまた追々話していくとして。彼であることを落胆してため息を再びつく彼に、オッサンは軽く笑い飛ばした。下でカケラを集める彼越しに、箒を動かしてゆく彼。下に居た彼は、新聞で箒に吐き入れられるように宛てがった。
「……ま、心配すんな、若造」
「なんのことだ、オッサン」
集めたガラスの破片達をクルクルと新聞紙で纏めあげ、ガムテープで最後の仕上げをする。
丸めた新聞紙を置いて、再度かがめば、やはり小さなカケラが残ったままだった。割れてしまったカケラ達を集めるのはやはり一苦労である。
それよりも、気苦労が絶えない彼女・母親に対する心配だけが増加しているのだが。
「心配したって変わんねぇよ」
「解ってる」
別に、オッサンの葉を理解していなかった訳でない。ただ、奴に心中を悟られていることが気に食わなかったのだ。こんな、朝からサングラスをかけているような馬鹿に解られても全くうれしくない。
「素直じゃねぇなぁ~、アイツに似てよ」
「黙れ」
言われた言葉を飲み込む事を避け、破片を付けたガムテープを奴のパジャマに貼付けてやった。それで腹でも傷ついたらいいのに。小さなガキのやるような、嫌がらせであることは、重々承知だ。
だがしかし、そんな小さな嫌がらせしかできないのもまた、事実であった。
掃除を済ませた後
彼、基空が上京をする前に、最後の一緒のご飯を済ませた。やはり、手の込んだ母親のご飯は美味しいようで、自然と笑みが零れていた。おふくろの味である彼女のご飯はいつでも美味しい。この世界の食べ物の中で一番おいしいと言っても過言ではない。暫く食べられないこの味は、忘れたくはなかった。
ゆっくりと食事を済ませ、投げ捨て存在を忘れていたでかいボストンバッグを2階から1階へと下ろしてくる。
すると、やはりそこには、泣きじゃくる母親と胡散臭い慰めをするオッサンが玄関先で立っていた。胡散臭すぎる彼は、一向にサングラスを外す素振りもないし、パジャマを着替えるつもりもないようだ。
可愛い可愛い息子が門出だというのに、全く持って見送るという気持ちがないようだ。いや、そもそも、かわいい息子だとは1mmたりとも思っていないのだろうが。
「……母さん、やっぱり一緒に東京行くか」
バッとオッサンから離れて満面の笑顔を浮かべる彼女。
まだまだ可愛さ残る彼女の笑顔は一気に花が咲いたようにその場を明るくさせる力がある。その笑顔が本当に綺麗で、純粋であった。
「えっ?! 本当っ?! 行く!」
「ちょっ?! 俺の慰めは無意味だった訳?!」
「胡散臭いんだよ、あんたのは」
と、言いつつも、彼女の笑顔はグサリと自分の胸をさした。
彼の慰めがいつもの通り、効いていないのは百も承知だ。しかし、彼女から離れる為に、彼女の事を思って出ていくのだって今に決めたことではない。前から決めていたことではないか。色々な良心や罪悪感にさいなまれて、胸の奥がきゅぅと痛くなる。
思わず、顔を歪め俯いた。
「……馬鹿だな。こっちはちゃんと俺が見守ってるよ」
聞こえてきた声に、ハッとする。
二人を見遣れば、物凄い優しい笑顔で自分を見ていた。
「大丈夫よ、空。一週間に一回電話してくれれば、ね?」
「俺がいるだろーよー。そこは、俺がいるから大丈夫だ、とか言ってくれよーっ」
「嫌よ、ケイちゃんの笑顔とか言葉とか胡散臭いんだもの」
「ひでぇっ!」
「今更だろ」
そんな風に吐き捨てる彼の言葉に、オッサンのサングラスの奥の眼が笑った。また、彼はこちらを何もかも解ったかのように見据えてくる。この眼光があまり好きではなくて、また顔をしかめてしまう。
「……なに?」
「いんや。ま、頑張れよ、東京で」
笑いを絶やさない彼に、思わず苦笑いがこぼれた。
違う、しかめ面などしてはいけない相手なのである。彼はすべて、自分の心の内を解ってくれているのだろうな。それを知っているだけに、なんだろう、やっぱりアンタには敵わないと思ってしまう。ただただ、悔しさも募る。
悔しさ? いや、情けなさかもしれない。
自分の思っていることがすべてお見通しである、といった風な。
「……言われなくたって、夢は叶える」
フィッと顔を反らして言う空に、彼はまた、軽く笑い飛ばした。
やはり、彼の前では調子がくるってしまうようだ。
「母さん、楽しみにしてるわよっ! 空がテレビに出てくる事っ!」
その様子に加わりたかったのか、彼女は畳み掛けるように言った。
純粋無垢。
それが彼女の笑顔には似合っている。また、それが胸に突き刺さってしまった。
彼女のその笑顔はやはり、自分には毒であることを痛感させられる。彼女が笑う度に自分の心が壊れていく様を今まで何度見てきたことか。
「……夢ねぇ」
それを知ってか知らずか、つぶやくオッサンの目の奥が笑っていない。口元はほころばせていても、彼の目は笑っていなかった。どこか、こちらを憐みの目で見ている。お願いだから、そんな目をしないで欲しいと言っているのに。
あぁ、やっぱり、ここから、離れよう。
離れなきゃ、離れなきゃ、この人に全ての心を持って行かれたままだ。
「……じゃ、行ってくる」
「うん、気をつけて」
彼女の笑顔を知って見ずに、荷物を背負って扉を開く。
朝日が眩しく、玄関を照らす。新しいスタートにはちょうどよい日、なんだろう、きっと。思わず、ひねくれ曲がった心に苦笑を零した。
「ほら、行け!」
オッサンの声に押された背中。
あぁ
また押し出すのは
あんたなのか
また
自分を助けるのは
あんたなんだな。
やっぱり、憎んでも憎みきれない二人に、振り返って手を振り、持っていた鞄を背負いなおす。それが合図と言わんばかりに、勇み足で歩き始めた。
「行ってきます!」
振り返って、彼らを遠目で手を振る。
それ以降は決して振り返らず、なりふり構わず、歩きだした。
最寄りの駅から地方都市の中心部へ向かい、東京行きへの夜行バスへと乗り込む。
皆様々な思いを持ったものが乗り込み、バスの中は独特の雰囲気が流れる。
そのバスの中で、彼・空は思い出に思いをはせた。
動き出したバスの中で、昔話を自分の中に刻み込むように一つ一つを思い出していく。
時は遡ること10年前。
日付は4月25日。
当時5歳だった空と片割れつまり双子は、6歳の誕生日を迎えようとしていた。
東京某所の彼らの自宅で、彼ら二人は同時に目を覚ます。一卵性の双子ならシンクロ等はよく聞く話であるが、二卵性である彼らもよく同時に何かをする、ということが多かった。
朝起きた二人は、嬉しそうに顔を綻ばせ顔を見合わせる。
瓜二つの顔は、ニッコリと笑って相手の顔を確認する。待ちに待った誕生日の日にほぼ同時に起きた。そしてお互い、相手の考えていることが手に取るようにわかったのだ。
「ねぇ、そら!」
「なんだよ~?」
ニコニコ笑いながらも、空は、片割れが言う言葉が何か、解っていたし、それを待ち受けた。片割れは嬉しそうに顔を綻ばせてあふれんばかりの笑顔でもって言葉を発していた。
「おたんじょうび、おめでとっ!」
「おまえも! おたんじょうび、おめでとっ!」
二人は、布団の上で跳びはねた。お互い毎年一番最初に祝うことにしていた彼らは、この日がやってくるのを楽しみにもしていた。二人にとっては去年からの約束事であり、また待ちに待った日なのである。
今日一日にのイベントが楽しみでならないのだ。
きっと、自分たちを生んでくれた両親はもとより、親戚一同自分たちを祝ってくれることを知っていた。
「ヘヘッ、6さいだよ、6!」
「つぎは、がっこーだもんなっ」
もちろんウキウキ気分で起きた双子は、朝から母親の父親の愛をいっぱいに受けた。今日のイベントは夕方から行うようだから、それまで外で遊んでくるように言われた二人は、勢いよく公園へと向かうことにした。
ちょうど、日曜日だったその日は車の量も多く人も多いことは安易に予想できていたが、そんなことなど彼らの頭の片隅にもなかっただろう。
「ほらっ、はやくいくぞ!」
「ま、まってよ、そらぁっ!」
「まったく、のろまだな~」
空は小さな体の腰に手を当てながら、大袈裟なため息をついた。今も昔も、空がため息ばかりつく癖は直っていない。だが、それも彼の愛情表現の一つであろうか。彼は仕方がないなと言わんばかりに片割れの目の前に手を突き出した。
やはり、小さな小さな、その手を。
「ほらっ!」
「うんっ!」
その手をとらなければよかったのか。
当時も何度も後悔した記憶の一つで、その手を取らなければ、片割れは生きていたのかもしれない。その手を取ってしまったがために、片方は生きて片割れは死んでしまったのかもしれない。
あの時、あの小さな小さな手を、取り合わなければ。
――いや。
いや、あそこで
違う、ここで――
考えれば考えるほど、自分を追い込んでゆく。なぜ、自分だけが残ったのか。なぜ、自分だけがいまだ生きているのか。後悔してもしきれない。
玄関先で空が片割れの手を取って扉を勢いよく開けて走り出した。
彼らはなんの迷いもなく、扉を飛び出していき、何もなりふり構わず走り出していた。
彼らに対するクラクションや誰かが注意する声など一つも聞こえていない。聞こえたのは二人の荒い息のみである。他の物音など何一つ聞こえていなかった。
誕生日であるその日を、二人で約束通りに迎えられた喜びと、また二人でこうやって遊べることが何よりも楽しかった。
いや、当時の彼らの頭の中には公園で楽しく遊ぶこと以外、何もなかったのかもしれないが。
「ほらっ、こうえんだっ」
「うんっ」
より一層強く握られる手は、小さな小さな手をお互い離すまいと力が加わった。小さな小さな力でも、お互いを感じるには十分すぎていた。
幸せな感覚をいっぱいに、二人の荒い息が二人の耳を包む。他に車の音や人の声など聞こえていない。
何も何も聞こえない。何も。
「走るぞ!」
片割れが掛けた一声に、大きくうなずき走り出す。
小さな体二つは、他の人の波からバッと飛び出していた。白線並ぶその道に、小さな体2つだけ、飛び出した。
彼らの耳を包むは、彼らの声のみ。
そう。
クラクションを鳴らされた時には、もう、遅かったのだ。
飛び出してきたその小さな二つの塊をよけきれなかった車は、勢いよく横断歩道へと突っ込んできた。
「あぶないぃぃぃっ!!!」
叫ばれた言葉は、二人をその場に留まらせる事しかできず、その時の咄嗟の判断で、片割れはもう一つの小さな体を歩道のある方へと押し出した。咄嗟の判断ができたにも関わらず、片割れは自分の体を守ることはできなかったのだ。
突っ込んできた車に勢いよく当たり、鈍い音を立てた。
小さな体が宙を舞う。
歩道に追いやられたけれど、声がでない。
ただ、眼は見開いていた。
眼だけは開いてた。
見るなという大人の声は、聞こえてない。
見えてくるのは、自分の片割れが鈍い音と共に地へと落ちていく様。
ゆっくりとスローモーションがかかった動画と同じく、その世界で片割れは変な方向に体を打ち付けて地に落ちた。
片割れは、落ちてピクリとも動かずにそこに横たわる。
と、同時に赤い海が白線とコンクリートを染めていく。
小さな体から噴き出るには多すぎるのではと思われるほどの赤い海。
赤い赤い海が彼を囲み、周りの大人達が騒いだ。
見るなと目を閉じさせようとする大人もいたけれど、見ずにはいられなかった。
ただ、見えたのは。
ただ、見えるのは、変わり果てた片割れの姿だけ。
『なぁ、なにになりたい?』
『なにって、なに~?』
『しょーらいだよ、しょーらい! とーさんなら、はいゆーやってるじゃん! そーゆーのっ!』
『ん~、とーさん、かっこいーよね! はいゆーっていいな~』
『じゃ、おれがはいゆーなっ!』
『んじゃ~、はいゆ~、なりたい! そらといっしょがいー!』
『だめー! おまえは、かしゅっ!』
『かしゅ~?』
『うた、うたうんだっ! で、いれかわるんだよっ! おれたち、にてるもん、ばれないよ!』
『え~、はいゆ~……』
『おれが、はいゆーだっ!』
七夕の日。
そんな言い合いもした。
クリスマス。
お互いにあげたプレゼントのよさを褒めあった。
正月。
二人で親戚にお金をねだってねだってねだりまくった。
夏にはプール。
秋には落ち葉集め。
冬には雪合戦。
二人の思い出が巡り巡った。
それは、儚くも思い出となり、再び片割れとそんな話をする日は、永遠に来なくなってしまったのだった。
案の定、双子の家族内では混乱と困難が待ち構えていた。
彼らの双子の母親は、その日に彼の死体を見たその場で卒倒してしまった。もう、ショックとか悲しみとかそういう感情ではない衝撃に似たような何かに、彼女は耐えられなかったのだろう。
彼女が気を失って暫く起きる事がなかったが、目をつむりずっと眠っていたにも関わらず目からは涙を流し続けていた。ずっとずっと、寝ながら泣いていた。
彼女が脱水症状を引き起こしてしまうほどに。
涙が、母さんの顔から無くなることはなかった。
同じく父親も、とてもじゃないがかなりのダメージを受けていたのは間違いない。倒れていた母親を置いて、通夜と葬式には、父親と自分だけが並び、毎晩毎晩、父親は泣いた。ずっと冷たくなってしまったわが子の手を握り締めて、ずっと、ずっと。
ただ、残った自分は、一粒の涙も流すことができなかった。
勿論、周りの人には憐みの目を向けられていたが、感情を殺しているわけでもないのに、全くと言っていいほど泣けなかった。目の前で両親が泣けば泣くほど、余計に泣けなかったのだ。
いや、彼の死体に近づくことさえできなかったのだ。
遠目から見た片割れの手は、今でも一緒に公園へと導いてくれそうである。共に、小さな力でもって握り返してくれそうなのだ。
涙など出なかった。どこかで、生きている。
子供だから、目の前の死を一人理解できず、ただただ片割れが生き返ることを望んでいたのだ。
片割れの手をこちらからつなぎに行くほどの勇気など持ち合わせておらず、また、両親にこのことを言えるはずがなかった。一人だけ残ってしまった罪悪感のようなものも相まって。
片割れが死んだということを理解したのは数年後であって、片割れの手をあの時一度も触れなかったことをとても後悔している。
あの時、燃やされてしまう前に触れればよかったのに。
そうすれば、もう少し自分は強くなれたのに。
後悔したところで何も戻ってこない。
自分は、片割れのいないこの世界で生きていくしかないのだから。
東京へと向かう夜行バスの中で昔の思い出に耽っていた。
さすれば、もうすぐ夜が明ける。すなわち東京という大都会に付いてしまう。
無駄に思い出してしまった過去に、思わず自嘲してしまう。
自分は知らない。片割れの今の顔を。片割れの今なりたい将来の夢を。
片割れが今生きていれば、どのような夢をもってどのように生きているのだろうか。そんなことは片割れが生きていなければ、だれも知る由はないのだが、きっと自分はそのことを知っておかねばならない。
亡くなったとしても、片割れは自分と共に歩んでいるのだから。
今の自分の夢が俳優であることも、きっと片割れと共に歩んでいる証だ。心の中に共に歩く片割れがいるから、自分は頑張ろうとも思える。
それがたとえ、最終的に自分自身を苦しめる結果となったとしても。
今の目的がどうであれ、自身が目指す俳優は一発屋でなければ二枚目という理由だけで売り出すような俳優は目指していない。
演技ができて、二枚目三枚目、そして味のある俳優を目指すつもりだ。そうなれば、自分の目的は自然と達成できるということも知っているからだ。
そうだな。
片割れが入れ替わっても、恥のないような俳優になってやろう。
片割れが羨むような俳優になってやろう。
いざ、東京へ