第一話 月の神殿
視界を埋める純白が妙に禍々しい。
天も地も、何もかもが一緒くたになったような感覚に目眩がする。
ああ、気味が悪い。ああ、気味が悪い。
○
水を打ったような静けさの中、遠くの方から足音が聞こえてきた。しかし、人影は見えない。ゆっくりと、だが確実に、その気配は近付いて来ていた。
それは、まだ人の世に、二つの神の玉座が存在していた頃のこと。
乾いた砂漠の上に大理石で造られた壮大な神殿が建っていた。白い砂が一面に広がったその地には緑も水も、生命の気配も無く、一帯はただ果てしない無彩色に埋め尽くされているだけだった。その純白の不思議な世界は、音の殆どが失われていて、砂を舞い上げる微かな風音さえも、無窮の彼方に呑み込まれてしまうようだった。
神殿は十数本の巨大な柱が平坦な屋根を支えるような構造になっていた。入り口は二本の円柱に挟まれており、扉は無い。しかし、その奥は暗く、外から内部の様子を見ることは出来なかった。
中は迷宮のように複雑に入り組んだ回廊が続いていて、床と天井と壁、全てが大理石で造られている。壁には適当な間隔で吊り硝子のランプが据えられていて、仄白く輝いて辺りを照らしていた。深部には吹き抜けの広間があり、その四方には通路が続いている。どうやらこの広間にすべての回廊は繋がっているようだった。
通路の隅で、僅な闇に紛れるように二つの影が蠢いていた。
「おい、レイン。本当に奴等の仕業なのか? あの赤い衣……」
「しっ」
大柄な男が声を潜めて尋ねたが、レインと呼ばれた聡明そうな青年は唇に人差し指を立ててそれを咎めた。黙ったまま前方を見詰めるレインの瞳に僅かな光が一閃したのを見て、大柄な男は自らも同様に意識の集中に努めた。
彼の閉ざされた口は静かに語っていたからだ。
誰か来る、と。
レインの視線の先にあるのは、広間の中央にある石の台座だった。そして、それを囲うようにして、地面には円形に繋がる複雑な記号や紋様が赤黒い液体で描かれている。鉄の錆びたような匂いが大理石の空間に満ちて、ひやりと湿った空気を濁していた。
広間の中央には十人ほどの人々が円環に沿って等間隔に立っていた。フードを深く被っているため顔は分からないが、鮮やかな緋色の衣に身を包んだその奇怪な集団は、一心に何かの呪文を唱えているようだった。
天井の中心は丁度中天に差し掛かった太陽が見えるよう巨大な円形にくり貫かれていたが、太陽はぴったりと重なりつつある二つの月の影に蝕まれ、その姿は殆ど見えなくなっていた。
遠方からの足音が次第に大きくなっていく。
それはまるで時を刻む針のように規則正しく正確だった。硬質なその足音は出口を求めるように深い回廊に反響し、やがて止まった。
そして、レイン達が身を潜める場所と反対側にある通路の暗がりから、一人の人間が現れた。
その人間もまた同様にフードを深く被っていたが、その全身は緋色の衣ではなく、黒色の衣で隠されていた。男か女か断定はできないが、その長身から男だろうとレインは推測した。
男が現れたと同時に、台座を囲んでいた赤い衣の人々は一斉に、音も立てずその場に屈み込んだ。
「準備が整いました」
円から外れて、通路の脇に立っていた一人が姿勢を低く保ったまま言った。
「御苦労」
フードの奥から低い声がした。目元は隠されていたが、銀色の細長いピアスが揺れるのが見えた。レインはそれに何と無く見覚えがあったのだが、思い出せない自分を恨みつつ、看視を続けた。
男は石の台座に向かい合うように立ち、天を仰いで厳かに呟いた。
「ようやく、此の時が来た……」
歓喜の溜め息のような、それでいて哀しげな、深い息を吐き出した後、男はおもむろにフードを取り去った。
銀色の長髪が、まるで夜空を縦断する星々の河のように、黒い衣の上に広がった。瞳の色は葡萄酒を注いだような赤紫色。切れ長のその瞳は生気がなく、温度というものを微塵も感じさせなかった。
銀髪の男は悠然と両手を広げて、目を瞑った。
ゆっくりと息を吸い、高らかに、淑やかに、その場に居た人々に宣言した。
「これより月の交点の儀を執り行う」
人々はじっと屈んだままの状態で、身動き一つしなかった。男は床に描かれた円と水平に掌を翳し、口を開いた。
すると次の瞬間、円を為す記号や模様を伝うようにして、漆黒の光が次々と帯びていった。それはまるで、蜷局を巻いていた蛇が床を這い、大理石の白を貪り、食い潰していくようだった。
「我が名はジル・ローレンス。古の契約により扉を開き、暁に於いて我らが魔法界、エルノヴィアに大いなる恩恵と御加護を与え給え──」
詠唱が続くなか、天上から射し込む光が薄れていく。やがて広間は奈落の底のような、しっとりとした深い闇に包まれていった。
「──創造神ティアマトよ、今現世にその姿を現し給え」
闇の中で男の声が響き渡る。
詠唱を終えた時にはもう、太陽は完全に月の影に沈んでしまっていた。
レインは胸騒ぎを抑え、暗闇の中で息を潜めるしか無かった。既に儀式は始まっているのだ。
(ティアマト、だと? まさかこの男、創造神を……)
原始の神。時空を行き来する、人間を超越した存在、ティアマト。魔法界〈エルノヴィア〉というこの世界を造り上げ、人々に魔法という力を与えた、創造を司る神の名であった。そして、男は今まさにその神を現世に召喚しようとしていた。
その時だった。
レインは周囲の様子がおかしいことに気付いた。闇の中で視覚は頼りにならない。全ての感覚を以て、彼は台座に自身の意識を集中した。
異変は突然起こった。とてつもなく強大な見えない力によって空間そのものがねじ曲げられていたのである。ぎちぎちと音を立てて、歪んだ空間の一部が台座上に収束されていくのが分かった。それと同様に、自らの身体も引き寄せられていくようだった。
レインは暗闇の中で辺りを注視するどころか、飛びそうになる意識を現実に留めることで精一杯だった。精神が喰われそうになる。耳鳴りでも幻聴でもない、何かの悲痛な叫びがこだましているような、味わったことのない感覚。
(一体何が……、何が起こる?)
謂われ様のない危険を感じ、暗闇の中で仲間の存在を確かめるため、ジン、と名前を呼ぼうとした時、台座上に一筋の光が差した。縦一線に伸びるそれは、目が眩むほどの光量を放っていて、徐々にその幅を増していった。
そして、眩い光によって辺りの様子が認識出来るようになり、光源の正体が露になった。それは宙に浮いた、いや、空間を裂くように現れた一つの扉だった。
堅固な牢を思わせる鉄の扉は自らの意思を持っているかのように、少しずつ開いていく。
レインは扉の向こう側に在る別の時空から、異質の魔力を感じ取った。残忍で、穏やかで、圧倒的な力だ。
犯してはならない領域に足を踏み入れてしまったという、本能的な恐怖を感じる一方で、この目で神の降臨を目の当たりにしたいという探求心が彼の奥に潜んでいた。
広間中に純白の光が充ちて、扉が完全に開いた。
目映い光にレインは思わず眼を瞑った。
次に目を開けた時、扉はもう其処には無かった。そして、既に太陽が月の影を抜けて、広間はやんわりと光を取り戻していた。
扉の中から現れたのは、一人の美しい女だった。
台座上に浮かぶその姿は、成人したばかりといった出で立ちで、細い肩から薄絹を纏っていた。伏せられた睫毛は儚く安らかで、誰にも妨げられない無窮の眠りについてしまっているかのように見えた。
レインを始め、人々はその美しさに見惚れ、息を呑んだ。
「これが、ティアマト……?」
ジンと呼ばれた大柄な男は、信じられないといった表情で突然現れた女を見詰めていた。
レインは召喚された神が人の姿をしていることに釈然としなかったが、その疑心はすぐに覆されることとなる。
女が目を覚ました。
人間離れした異様な雰囲気を醸成していた要因は、容姿だけではなかった。むしろ、女の内側から迸る、計り知れない魔力が恐怖を作り出していた。
愁いを帯びた女の瞳が人々を捉える。女は辺りを一瞥し、足元に目を落とした。細い素足を石の台座にそっと下ろす。
《グラン・シャリオ》
銀髪の男の声が深々と広間に響いたのは、それとほぼ同時だった。
女は瞬間的にその場から飛び退こうとしたが、既に身体を取り囲むように、七つの黒い光が地面から噴き出していた。そして、それは鎖となって飛び出し、女の全身を拘束した。
男は口許に薄らと笑みを浮かべて言った。
「やっと、手に入った──」
ぶるぶると震える手を差し出し、囚われの神を見上げる。女は顔色一つ変えなかったが、男に向けた眼差しは何処か哀しげだった。
男の目算は成功したかに見えた。
しかし、創造神ティアマトにとってその包囲魔法は、涓埃のような力に過ぎなかったのだろう。パキン、という鋭い音と共に鎖はあっさりと壊れ、細かい灰のように散った。
そして、それに気付いた時には、女の姿も忽然と消えてしまっていた。
銀髪の男はがっくりと膝を落とし、その場に蹲ったまま、乞うように虚空を眺めていた。そして、譫言のように何かを呟いて居た。
「待て……待っておくれ。僕には君の力が必要なんだ。お願いだ、早くこの……」
レインとジンは辺りを見回し、ティアマトの姿を探したが、何処にもその気配は無かった。
突然、目の前が白濁して、何も見えなくなった。
それから直ぐに、ゆらゆらと揺曳する白い光に導かれるようにして、レインは意識を失った。
○
次に目を覚ましたとき、彼の瞳に映ったのは、天空を飛び去っていく一匹の白い竜の姿だけだった。