sept et la fin
お礼の言葉と別れの言葉!
ファウスが、彼女の手紙の中から探し出せたのは、ただそれだけだった。
彼が、雨に濡れた無様な状態で子爵家に押しかけたのは、こんな手紙を受け取るためではない。役目を終えた彼女が、子爵家から出て行ってしまう前に、求婚するためだ。
とは言っても、まだ今朝の段階では、彼には理性があった。
こういうことには、段階がある。まずは、彼女の気持ちを確認しなければならない。
その順序に思案をめぐらせていたファウスの、理性の鎖を引きちぎったのは──雨、だった。
既に彼の心の中では、『雨=ロニ』の図式がざっくりとナイフで刻み込まれていて、彼女なしで初めて迎えるこの雨の日が、どれほど自分を苦しめるか知らなかったのだ。
屋敷の外で降り出した雨を確認した直後、ファウスは手紙を書き始めていた。
多くを書く心の余裕もなく、ただ自分の望みを、そこへ綴るので精一杯。
急いで主に許可を取り、ファウスは屋敷を飛び出した。こんな雨の中、彼女が通ってきただろう道を、逆にたどる。
予想よりもひどく降る雨を呪いながら、彼は子爵家へと駆けつけた。
そこまでしたファウスを待っていたのは、感謝と別れの手紙だった。
求婚の手紙を持ってきた自分とロニとの間にある温度差に、彼は苛立ちを抑えられずにいた。
これまで、多くの男の心を雨で手玉に取ってきたはずの彼女は、自分がファウスに何をしたかさえ気づいていない。そう思うと、頭が沸騰してしまいそうだった。
とにかく、彼女に手紙を突き出し、自分の気持ちを思い知らせるしかない。
なのに、ロニの動きは相変わらずゆっくりで、封筒の端を悠長に綺麗に切り取ろうとするではないか。
ようやく便箋が開かれた時には、既にファウスの我慢は限界を飛び越えていた。
彼女が文字を目で追うのを、待っていられなかったのだ。
「私ことファウス・ユーベントは」
彼女は、思い知るべきである。
「ロニ・アイフォルカ嬢に、正式に求婚したく思っております」
自分をこんな風にしたのは、目の前のロニ、なのだと。
ファウスは、千々に乱れた心を振り絞り、声にその気持ちを乗せた。
彼女は手紙を手に持ち、こちらを見た後──少しぼんやりした声で、こう言った。
「執事様は……独身でいらっしゃったのですね」
そこからか。
ファウスは、がっくりと肩を落したくなった。しかし彼女がそれを知らなかったのは、やむを得ないことだろう。ロニは、身の上話を少ししたので、独身だろうと彼にも想像がついたが、ファウスは彼女に自分の話をほとんどしたことがなかった。
「そうだ」
こんな馬鹿馬鹿しい確認を、今更されるとは思っていなかったが、彼は眉間を押さえながらも肯定した。
「私、つまらない普通の話しか、出来ないと思います……」
カサと、彼女の手の中の紙が鳴る。
「知っている」
「あ、でも……雨の話なら、少しは出来ます」
あっさりと流されたと思ったのか、慌ててロニは自分をフォローする言葉を付け足した。
「それも知っている」
ファウスは、深くため息をついた。
ロニが、よく分からない言葉を並べている間、彼は着々と焦らされ続けているのだ。
「あと、ええと……」
なのに、彼女はそれをまったく分かっていないまま、別の言葉を探し当てようとする。
「悪いが、返事が『はい』でないのなら、今すぐ帰れと言ってくれ。断りの言葉を長々聞けるほど、私の神経は図太くはない」
だから、ファウスは彼女の無駄な言葉を止めるべく、彼女に答えを要求した。
まずは、結論が欲しかった。答えが『はい』であるというのならば、その後の無駄な言葉はいくらでも聞いてやる──それが彼の本音。
すると、彼女は顔を赤らめながらも、困惑した瞳をそらした。
「わ、わからないんです……こういうことは初めてで。どう答えたらいいのか……」
無意識なのか、彼女はファウスの手紙を胸に抱くように引き寄せる。
そんなロニの姿は、彼に恋慕の情を募らせるだけだった。
「私のことが嫌いか?」
「いいえ」
問いに、即答が返される。とんでもないと言わんばかりだ。
「他に好きな男がいるのか?」
「いいえ」
かぶりが振られる。
「私と会えなくなるのは寂しいか?」
みっつ目の問いで。
ロニの、カワセミの背色の瞳が揺らいだ。泣きそうな顔になる。
「は……い」
『いいえ』とは違う、とぎれた言葉。
それに引きずられるように、ファウスは彼女の方へと足を踏み出した。
「それなら」
彼女の両肩に手を乗せる。
「それなら……答えは『はい』だ」
彼の髪から落ちた水滴が、見上げたロニの頬に落ちる。
彼女の、唇が小さく動いた。
声はない。
しかし、その唇が『雨』という言葉を伸ばして、『プリュゥイ』となぞったのを、ファウスはしっかりと見ていた。
『ある音』に部分的に似ていてドキリとしたが、そうでないことを理解すると、なおさら自分が焦れていくのが分かった。
「『プリュゥイ』じゃない……『はい(ウィ)』だ」
愚かな唇の動きを、彼はたしなめる。
彼女が、眩しそうに目を細めた。
「……ウィ」
やっとだ。
本当にようやく。
ロニの口から、『はい』を引き出すことが出来たファウスは、空を仰いで身体の中の空気を一度全部吐き出した。
それでようやく落ち着いた彼が視線を下ろすと、すっかり赤くなった顔で、彼女はこちらを見ていた。
そんな彼女の頬に、親愛の唇を寄せながら、ファウスはこう囁いた。
「次の長靴は……私が贈ろう」
そして。
長靴をはいた侍女は、ファウスにとって──長靴をはいた妻となったのだ。
『終』