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「こんにちは、手紙を持ってきました」

 ノックノック。

 父の跡目を継いだばかりの若い執事であるファウスは、そんな呼びかけにためらいなく玄関の扉を開けた。

 灰色のフードつきレインコートとは不似合いの、やたら上質な編み上げ長靴の女性が、そこには立っていた。

 今日のプリュイは、少しひどい。レインコートや顔からは、それを知らしめる水が多く滴っていた。

 最初の頃、勝手口を訪ねていた彼女は、ついに玄関から招かれるようになった。ただの配達人の侍女には、過ぎた対応である。

 実際、ファウスもそう思っていたが、彼の主がそれを望むので、しょうがなく従っていた。

 扉が開くと、中に入る前に彼女はレインコートを脱ぎ始める。

 どうして扉をノックする前に、脱いでおかないのかと、その手際の悪さにいつもイライラしていた。それは、どうも彼の主にとってもそうだったようで、二階の階段の角の辺りで、まだかまだかとソワソワしている。

 濡れたレインコートを外にかけ、コートの内側に入れていたカバンからハンカチを取り出す。そして、濡れた部分を丁寧に拭き始める。顔や首に始まって、両手を特に念入りに拭く。最後は、帰りにまた濡れるだろうに、長靴まで丁寧に拭き上げるのだ。

 この辺りで、主が階段からそろそろと降り始める。

 それから彼女はハンカチを小脇に抱えると、カバンの中から何があっても濡れないように、厳重に手紙を包んだ皮袋を取り出す。一重ではなく、何重かの袋を重ねているそれを、ひとつずつ丁寧に取り払っていく。

 もうその頃には、主は玄関の側までフラフラと来ていてファウスの隣に立っている有様だ。

 全部の皮袋を開けると、ようやく封に包まれた手紙が現れた。それをゆっくりと彼女が両手で捧げる。

 もちろんこの侍女が、貴族である主人に直接渡せるはずはない。この家で、代々執事をしてきた一族のファウスが、「確かに受け取りました」と言って預かるのだ。

 だが、それは本当に形式だけの一瞬のこと。次の瞬間には主がそれを奪い、脱兎のごとく二階の自室に駆け上がってゆくのだから。

 そんな後ろ姿を、配達人の侍女はニコニコと見送る。

 ファウスは、ふぅとため息をついた。どうにも、この女性が手紙を運び始めてからというもの、主の様子がおかしくなっているので、彼は困惑を覚えているところだ。

 父が執事をしている時代から、ずっと見習いをしてきた彼だったが、あんな主の姿を見たことはなかった。

 この女性が、何か変なものを手紙に混ぜているのではないかと、疑いたくなるほどだ。彼女をちらりと見ると、ファウスに期待のこもった笑顔が向けられた。

 白い肌にカワセミの背色の瞳を持ち、髪はしっとり濡れたような黒。実際、いつも雨でしけっているのかもしれない。やたら白い肌が目立つ気がするのは、太陽の出ない雨の日ばかり出歩くからなのか。

 同じ黒でも、ファウスの髪は少し湿度が足りないため、日々整髪料でしっかりと固めている。そうしないと、非常に見栄えが悪かった。

 いま二十七である男の目から見て、彼女はどう見ても十七、八くらいにしか見えない。ふっくらとした頬と、大き目の瞳が、女性を若く見せている。

 最初は騙された彼だったが、ほかの使用人に「二十四すって。若く見えますよね」と言われ、心底驚いた。彼の褐色の目は、女性の年齢を当てられるほどの眼力は備わっていないようだ。

「暖炉に火が入ってます」

 そんな彼女の顔を、もう一度まじまじと見て、「女とは分からない」と思いながら、ファウスは火のある部屋へと案内した。

 これから主は手紙を熱心に読み、そして熱心に返事を書く。それをまた彼女は、丁寧に皮袋に包んで持ち帰るので、待っていてもらわなければならなかった。

 身分が高くない侍女なのは、衣装や様子から分かる。こんな仕事を任されていることで、それは更に決定付けられる。

 しかし、主が玄関から招く相手なのだから、ファウスはそれに従い、最低限の礼儀は尽くしていた。

「ありがとうございます、助かります」

 暖炉に手を乾かすためにかざし、その暖かさを味わうように表情を緩める女性。

 この屋敷の侍女が、ホットチョコレートを持ってきたのを、匂いで気づいたのだろうか。

 彼女は、ぱっと表情を明るくする。

「これ、大好きなんです。嬉しいです」

 不似合いなほど上質な長靴を、暖炉にちょっと伸ばすようにして乾かしながら、彼女はとても幸せそうだった。


 彼女の雇い主は、子爵令嬢である。

 貴族の中では、残念ながら位は低い方だ。少なくとも、ファウスの勤める伯爵家と比べると、相当の身分の開きがある。

 主人の花嫁候補の一人。

 彼は、その程度の認識しか持っていなかった。しかも、候補の中では一番成立しづらい順位の相手だと。

 時折、上位の候補の女性が訪ねて来る事はあるが、この子爵令嬢が訪ねて来たことはない。

 舞踏会などで主と会うことはあるだろうが、執事である彼は入れないため、目にする機会もなかった。

 なのに。

 この女性が、ある雨の日に現れた。勝手口の戸を叩いて、手紙を預けて帰っていった。主人は、「ふーん」という感じで手紙に目を通して、机のその辺にぽんと置いた。

 次の雨の日、また彼女は来た。また手紙を、預けて帰っていった。主人は「また来たのか」と言って、読んで机に置いた。

 その後、三日続けて雨の日があった時、彼女は三日すべて手紙を運んできた。そこで主人もファウスも気づいた。子爵令嬢の手紙は、雨の日に届けられる、と。

 実際、晴れた日に手紙が届いた事は、いまだにない。

 それから、主人の態度に少しずつ変化が現れ始めた。朝、窓の外を見る目が変わった。雨の日を、楽しみにするようになり、晴れの日にため息をつくようになった。

 そしてついに、主人は手紙の配達人が来たら、引き止めるように言った。それは一方的だった手紙の流れが、双方向になったということ。彼女は、返事を持ち帰れるようになった。

 更に主は、多くの人の手を介して、自分まで手紙が届く時間に耐えられず、玄関から招き入れ、直接ファウスに渡せるような手配までしてしまった。

 この手紙に、どれほどの価値があるのか。彼は、いまだに理解できなかった。

「子爵令嬢は、何か特別なことを手紙に書いてらっしゃるのですか?」

 だからつい、出すぎたこととは思いつつ、彼女に声をかけていた。

 自分より低い使用人であるだろうことが、ファウスの口を軽くしたのかもしれない。

「普通の言葉で結構ですよ。ご想像の通り、私は下っ端の侍女ですから……ロニとお呼び下さい」

 彼女は、少し困ったように笑う。

 これまで、何度となく手紙を受け取ったファウスだが、必要最低限の言葉以外、彼女──ロニに語りかけたことはなかった。

「では、言葉に甘えることとする。ロニ……子爵令嬢は、私の主人にどんな魔法をかけたのだ?」

 彼の聞き方が、おかしかったのだろうか。

 真面目に聞いたつもりなのだが、ロニはクスクスと笑い出してしまった。

「いいえ、執事様。手紙は、いたって普通のものでございます。花が綺麗だとか、伯爵様を気遣う言葉だとか……目新しい奇抜な手紙ではございません」

 そんな手紙など、伯爵ともあろう主が、読み慣れていないはずがない。なのにあの態度は、まるで主は子爵令嬢に熱い恋心でも抱いているかのようではないか。

 そんな怪訝の目は、彼女まで届いたのだろうか。暖炉の火を一度見た後、彼女は雨に濡れる窓を見た。

「しいて魔法をあげるとするならば……雨、ですかね」

 ふふふと。

 ロニは、笑った。

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