『高瀬川湊物語 』
熊本県玉名市に残る「高瀬船着場跡」と、米俵を船へ運ぶために使われた「俵ころがし」。その場所に立ったとき、かつて響いていたであろう掛け声や笑い声を想像し、この物語を書きました。
史跡と歴史的背景を土台に、名もなき人々の仕事、暮らし、ささやかな恋を描いたフィクションです。江戸時代の高瀬の賑わいを、一緒にお楽しみください。
高瀬川湊物語
俵ころがしと愛ちゃんのかんざし
マサトは、菊池川下流、高瀬川の湊に、江戸時代の俵ころがしの跡地を訪ねに来ていた。
ここで、秋風が吹くなか、近郊の農村から集められた力自慢の男たちが現金収入を得ようと、この地に集まってきたのだ。
マサトは、目をつぶって当時の様子を思い浮かべてみた。
男たちの威勢のいい掛け声。
周りの物売りの女性の声。
マサトの耳に、当時の喧騒が聞こえてくるように感じた。
いや、本当に聞こえてきたのだ。
マサトは、恐る恐る目を開いた。
すると隣から、
「五平、なにぼーっとしてやがる。また、愛ちゃんのことでも考えてたな」
と、冗談交じりに話しかけてきた。
マサトは、いつの間にか、江戸時代、俵ころがしの真っ最中に、五平として紛れ込んでいた。
菊池川から吹き付ける風こそ肌を刺すように冷たいが、目の前の船着場の一帯は、湯気を立てるような男たちの熱気に包まれていた。
秋の収穫を終えた農閑期、大坂の堂島へと送り出される莫大な年貢米を、高瀬の御蔵から船へと積み込むための現場だ。
「上から行くぞーっ! どきな、どきな!」
「おう、来いっ! いつでもドンと来やがれ!」
川岸へ向かって緩やかに傾斜する石畳――通称「俵ころがし」。
およそ六十キロはある米俵が、先人の知恵によって計算された石の坂を、ゴロゴロと重い音を立てて滑り落ちていく。
その勢いを殺さぬよう、下で待ち構える男たちが厚い渡し板で受け止め、流れるような連係プレーで、そのまま船倉へと滑り込ませていく。
少しでも呼吸が狂えば大怪我をする危険な現場だが、阿吽の呼吸で次々と俵を捌いていく様は、まるで熟練の芸を見ているようだった。
そんな中、今日初めて坂の上に立った若い男・多胡が、青い顔をして俵の前に立ち尽くしていた。
「今日は多胡、お前が上から転がしてみろ」
現場の差配役が声をかける。
「ええっ、俺、やったことないっすよ!」
「誰でも最初はねえもんだ。今日は逃げずにやれ!」
「わ、わかりましたよ……行きますよ!」
多胡がおっかなびっくり両手で俵を突き出した瞬間、重心が外れて、俵は斜めに逸れ、あらぬ方向へと転がり落ちていった。
「あーっ! 変なところに転がっちゃった!」
「おいおい、そっちじゃねえ! 川に落とす気か!」
「うわっ、船板かすめちまったぞ! 五平、止めろ止めろーっ!」
とっさに体が動いた。
五平――いや、五平の体になったマサトは、まるで体に染み付いていたかのような稲妻の素早さで身を投げ出し、手板と踏ん張った足先でガシッと俵をねじ伏せた。
ドスン、と鈍い音が響き、俵は水際すれすれでぴたりと止まった。
「はぁ……あっぶねえ! おい多胡、お前どこ見て放り出してんだ! 俵の重心を真ん中に据えて、石の筋に沿わせてスーッと押し出すんだよ!」
口から飛び出たのは、自分でも驚くほど自然な現場の言葉だった。
「す、すみません五平さん……思ったより俵が勝手に曲がっていっちゃって……」
「へっ、最初からうまくいく奴なんかいねえよ。だがな、米一俵でも川に落っことしたら、今日の日当が丸ごとパーだぞ! ほら、深呼吸してもう一丁だ!」
周囲からドッと笑い声が起き、
「多胡、腰が引けてんぞ!」
「五平、ナイス受け止め!」
と、冷やかしの掛け声が飛んだ。
冷たい風の中、男たちの笑顔と連帯感が場を温めていく。
正午の合図とともに、しばしの休息となった。
荒々しい現場に、ふっと甘く香ばしい匂いと、明るい売り声が染み渡る。
「甘酒はいらんかねー! 炊きたてのおにぎりもあるよー!」
「おっ、待ってました!」
汗をびっしょりかいた男たちが、手ぬぐいで首筋を拭いながら、茶屋の娘の周りに群がる。
滋養たっぷりの温かい甘酒をすすると、体の芯から生き返るような気がした。
「なんだよ、今日はお里ちゃんじゃないのかい? お里ちゃんの甘酒が飲みたかったのによ」
仲間の一人が軽口を叩くと、娘が、
「あたしのじゃ不満かい!」
と笑い返し、周囲がまたドッと沸く。
そんな中、五平となったマサトは、懐から出した手ぬぐいで顔の泥を拭いながら、胸の内に自然と湧き上がる想いをつぶやいた。
「俺、この冬はしっかり俵ころがしで稼いで……いとしの愛ちゃんにかんざしを買ってやるんだ」
隣で握り飯を頬張っていた仲間が、目を丸くした。
「おおっ! 覚悟を決めたな。いよいよ祝言でもあげる気かい?」
「おうよ! 上方から下り荷で届いた、一番上等のべっ甲のかんざしを誂えてやるんだ。だから、この四、五日の稼ぎは何があっても落とせねえ」
日当は、一日あたり二百文から三百文。
危険で重労働なぶん、農作業の手伝いよりも、ずっと割の良い手当てが貰えた。
数日通して働けば、千文を超えるまとまった現金になる。
家族の米や味噌の足しにしても、愛ちゃんへのとっておきの贈り物代が、十分に手元に残る計算だった。
ふと見上げると、堤防の上から荷役を監督していた藩の役人が、差配役に耳打ちしていた。
「あいつの働き具合は、なかなかのものだな。どこの、何という者だ?」
「あれは岩坂村の五平と申します。若いくせに力もあり、気立ても誠にいい奴でして」
「そうか。うちの屋敷の下人に欲しいな」
差配役は、慌てて手を振った。
「めっそうもございません、お役人様! 五平を屋敷に取られちまったら、うちの村の田植えも稲刈りも立ち行かなくなっちまいます!」
遠くでそんな値踏みをされているとも知らず、五平は、
「よし、午後の分も気合入れて転がすぞ!」
と、愛ちゃんの笑顔を思い浮かべて、手板を握り直していた。
日が傾き、予定の千俵余りをすべて船倉へ積み終えた頃には、男たちの体は心地よい疲労で満たされていた。
差配役からチャリンと手渡された、二百五十文の銅銭。
ずっしりとしたその重みは、今日一日、自分の腕と足腰で稼ぎ出した確かな誇りそのものだった。
「さあ、湯へ行くぞ、湯へ!」
男たちが向かったのは、高瀬の湊町にある銭湯だ。
十数文を払って戸棚風呂の蒸気の中に飛び込み、熱い湯を桶でかぶる。
冷え切った手足にじんわりと熱が染み渡り、思わず、
「あぁ〜っ」
と、極楽の声が漏れた。
隣の湯船では、山鹿温泉のさくら湯の話で花が咲いている。
あそこは、お殿様しか入れない、天井に龍が描かれた『龍の湯』があるが、下町の風呂は庶民が肩を寄せ合って入れる良い湯だ、と誰かが自慢げに語っていた。
風呂から上がると、手ぬぐいを一本肩にかけ、夕暮れの街へ繰り出した。
川湊の居酒屋からは、有明海で獲れたコハダや車海老を焼く香ばしい煙と、甘辛く煮た泥鰌鍋の湯気が漂っている。
搾りたての地酒をキュッと喉に流し込み、炊きたての白飯をかき込む男たちの顔には、一日の労働を全うした者だけが持つ、カラッとした充実感が満ちていた。
数日後。
約束通りしっかりと日当を貯め、見事にかんざしを手に入れた五平は、少し背伸びをして愛ちゃんを誘った。
「愛ちゃん、今度一緒に芝居を見に行かないかい? 上方から有名な一座が来てるんだ」
愛ちゃんは、ぱっと顔を輝かせた。
「まあ、嬉しい五平さん! 私を連れてってくれるの?」
いざ連れ立って出かけた芝居小屋は、華やかな提灯と人々の熱気で溢れかえっていた。
五平は、新調したかんざしを髪に挿して恥ずかしそうに微笑む愛ちゃんの横顔を、誇らしい気持ちで眺めるつもりだった。
ところが――。
舞台の幕が上がり、白塗りの花形役者が艶やかに見得を切った瞬間、愛ちゃんの様子が一変した。
愛ちゃんは目をまん丸にし、口をあんぐりと開けて、舞台の役者に完全に釘付けになってしまったのである。
「まあ……! なんて綺麗なお顔立ちなんでしょう……!」
息を呑み、胸の前で手を組んで、役者の一挙手一投足にうっとりと見惚れている。
「お、おい……愛ちゃん?」
五平が小声で呼んでも、愛ちゃんの耳には届かない。
「愛ちゃんってば、口が開いてるぞ……。そんなにいいもんかね、あの白塗りの優男がよ……」
だんだんと唇を尖らせ、腕組みをしてそっぽを向く五平。
すると愛ちゃんは、舞台から目を離さないまま、
「五平さん、声が大きいわよ。静かにして!」
と、小声でたしなめる始末。
「……俺が何日も腰を痛めて俵を転がして稼いだ銭で、連れてきたのによぉ……」
小さく愚痴をこぼしながらも、隣で無邪気に目を輝かせている愛ちゃんの横顔を見ていると、どうしても憎めない。
芝居が終わった帰り道。
夕暮れに染まる菊池川の堤防を、二つの影が伸びていく。
まだ舞台の興奮が冷めやらず、役者の素晴らしさを身振り手振りで熱っぽく語り続ける愛ちゃん。
その半歩後ろを、ちょっぴり焼きもちを焼きながら、けれどどこか嬉しそうに、手拭いで首筋をかきながら歩く五平。
菊池川のせせらぎと川風の中に、二人の他愛のない笑い声が、いつまでも優しく溶け込んでいた。
「愛ちゃん、大事な話があるんだ」
と、五平は告げた。
愛ちゃんが満面の笑みでこちらを振り向いた、その時――。
周囲の景色が、ぐるりと回った気がした。
気がつくと、マサトは木陰に座り込んでいた。
すぐそばで、一人の若い女性が心配そうにこちらを見つめている。
「大丈夫ですか? まだ日射しが強いから、熱中症には気をつけてくださいね」
そう言って、彼女は冷たいペットボトルの水を差し出した。
「ありがとうございます」
水を受け取りながら、マサトは彼女の顔を見つめた。
その笑顔に、なぜか遠い昔から知っているような懐かしさを感じた。
菊池川から吹いてきた風が、彼女の髪をそっと揺らす。
その髪には、あのかんざしと同じ意匠の小さな髪留めが、秋の日射しを受けてきらめいていた。
おしまい




