ゴミを捨てる者と拾う者
沖縄という場所は、青い海と柔らかな風に包まれた楽園として語られることが多い。しかし、この島で暮らす人たちにとっての沖縄は、観光ポスターとは違う「現実の時間」が流れている。その時間の中では、自然の美しさと同じくらい、観光によって持ち込まれた負荷や、日々の無関心が積み重なる現実が存在している。
本作を書くにあたり、私は「ゴミ」という極めて小さな行為の正体を見つめてみた。それは単なる廃棄物ではなく、人が自分の立ち位置や責任、そして他者との距離を示す、ひとつの“兆し”のように思えたからだ。捨てる人が悪い、拾う人が善い。そんな単純な図式ではなく、その間にある揺らぎや、気づけなかった一瞬の選択まで含めて描きたかった。
この物語には、怒りの告発も、活動の宣言もない。代わりにあるのは、人が気づき、人に影響され、また新しい誰かが「順番」を受け取っていく、静かな連鎖だ。ほんの一秒の捨てる動作と、何気ない拾う動作。どちらも大きな物語ではない。それでも、その小さな動作の積み重ねが、街や海の透明さを決めていく。
沖縄は、誰のものでもなく、誰もが通り過ぎる場所でもある。この島が青さを保つために必要なのは、大掛かりな制度や強い言葉ではなく、日々のどこかで訪れる「自分の番」に気づく心なのかもしれない。
本作が、読んでくださるあなた自身の中にある“番”を、そっと揺らす一篇になれたなら幸いである。
「ゴミを捨てる者と拾う者」
1,「飛ばされた一秒を拾う者たち」
冬を過ぎ、初夏に差しかかった沖縄の午後四時。
那覇の空は白く澄み、海風は塩の粒を乗せて街を抜けていく。
潮の匂いは、いつ吸い込んでも胸の奥を軽く揺らす。
モノレール駅から少し離れた小さなバス停で、梶原雄一はベンチに腰を下ろしていた。
かつて設計図の線を正確に引くことに生きがいを見いだしていた職人肌の男。
いまは右半身に軽い麻痺を抱え、長く立っていると腰の奥が鈍くきしむ。
だが目だけは昔と変わらない。
濁らず、意地の一本線で前を見据える視線だ。
周囲にはスーツケースを転がす観光客たち。英語、中国語、韓国語、フランス語、スペイン語――世界中のラジオチャンネルが同時再生されているようなざわめきが、バス停の屋根の下でこだまする。
そのざわめきの中で、雄一は静かに五十八番線のバスを待っていた。海辺近くの自宅へ戻る、ありふれた帰り道のはずだった。
その「普通」は、紙パックひとつで破られた。
停留所の前で、外国人の若い男女が笑い合っている。
白いシャツ、派手なショートパンツ、競い合うような小麦色の肌。
男が手にしていたジュースの紙パックをぐしゃりと握り潰し、そのまま足もとのコンクリートに落とした。
女も続いて、スナック菓子の包み紙をひらりと手放す。
二つのゴミは、まるで最初からそこに置かれていたかのように「自然な位置」に落ち着いた。
迷いも、躊躇も、後ろめたさもない顔で、二人はバスが近づく音に体を向ける。
それは違うだろ――。
声が喉までせり上がる。
雄一は一度、ゆっくり息を吐いた。
怒鳴り声ではなく、人を止めるための声を出すために。
現場監督として、ずっと使ってきたあの声音で。
「このゴミは、誰が拾うと思ってるの?」
思ったより落ち着いた声だった。
低く確かで、逃げ道を与えない音。
二人が振り返る。
男は目を丸くし、女は戸惑ったように肩をすくめる。
理解できたのかどうか、反応は曖昧だ。
雄一はゆっくり立ち上がり、足もとのゴミを指さして、今度は英語で告げた。
「Who will pick this up? Someone who lives here. Not you.」
観光客そのものを責めているのではない。行為だけを、逃がさない。
女はバッグから小さなポーチを取り出した。拾ってくれるかもしれない――一瞬、そんな期待が胸をかすめる。 だがポーチから現れたのはスマートフォンだけだった。 女は翻訳アプリを開き、機械的な日本語を読み上げる。
「習慣が違うんです、ごめんなさい」
習慣の違い? お国柄? 旅行の解放感? だらしなさ?
答えは、どれでもあって、どれでもない。ただ彼らは「自分の世界」にいただけだ。旅先という匿名性が、自分の行為に名前を
付けさせなかっただけなのだ。
「ゴミを捨てないマナーは、人間ならどこの国でも同じだろ」
雄一が続けると、男は気まずそうに紙パックを拾い、女も包み紙を追うように掴んだ。
周囲の視線を気にして、ゴミ箱の場所も分からないまま、彼らはゴミを握りしめてバスへ乗り込んでいった。
2,「順番をつなぐ街の無名の手」
バス停に静けさが戻る。
雄一はふとベンチの下を覗き込んだ。缶、ペットボトル、レシート、紙コップ、プラスチック片――すでに何層ものゴミが堆積して、小さな「無関心の地層」をつくっている。
「このゴミは、誰が拾うと思ってるんだ?」
今度の問いは、誰に向けたものでもなかった。観光客でも、行政でも、企業でもなく、自分自身に向けた独り言だった。
そのとき、横から柔らかな声が落ちてきた。
「あんた、さっき注意した人だね?」
振り向くと、一人の老人が立っていた。
淡く日焼けした肌、古びたサンダル、深い皺の奥に、まだ海の紺色を残した目。
手には火バサミ、肩には小さな麻袋。
「はい」とだけ答えると、老人は微笑んだ。
「だったら次は、あんたが拾う番だろ?」
穏やかな言い方なのに、その言葉は刃より鋭かった。
習慣でも国柄でもない、ただ「順番」の理を告げていた。
「捨てるのは一秒。拾うのは一生。だからこの街は助け合いで出来てるさ」
雄一は、ゆっくり立ち上がり、火バサミを受け取った。
老人の名は伊佐玄徳。元タクシー運転手。観光が「産業」になる前から、この街の道路を走り続け、人の出入りを風のように感じ取りながら生きてきた男だ。
十年前、玄徳は息子を交通事故で失った。観光客を乗せたバスの列に巻き込まれ、救
急車の到着は遅れた。息子の命は戻らなかっ
た。それでも彼は、社会を責めきれなかった
という。
「誰かを責めても、あいつの順番は返ってこん。だったらせめて、飛ばされた順番を拾い集めてやりたいさ」
それ以来、玄徳は街のゴミを拾い歩くようになった。誰が捨てたかではなく、「本当なら誰の番で拾われていたはずだったか」を考えながら。
商店街の前で空き缶を集める青年。コンビニの軒先で紙コップを拾うバイク便の女。浜辺でペットボトルを袋に詰める中学生たち――理由は皆ばらばらだ。小遣い稼ぎ、部活動、罪悪感、ただの癖。それでも一つだけ共通点がある。
「ゴミを捨てる者の時間は一方向。拾う者の時間は循環している」
玄徳は短くそう言った。
「順番は、回収できる」
だが本当にそうかどうか、雄一はまだ半信半疑だった。
3,「写らないものを拾う朝」
十一月、沖縄の海はまだ青い。夏の熱気を少しだけ湿らせたまま抱え、人の声は夜も潮風に乗って海まで届く。北谷の朝の浜辺は、夜とはまるで別の顔を見せていた。ネオンも笑い声も消え、砂の上にはペットボトルや吸い殻が無数に転がっている。海に還らない色だけが、波打ち際で目立っていた。
そこに、今日も一人の男が立つ。潮平海人、三十九歳。小柄で、見せるためではない筋肉と、Tシャツに残る白い塩跡。漁師だった父は海で帰らず、母も数年前に他界した。建設現場で働き口はあるが、帰る家に「ただいま」と返す声はない。
それでも、彼には毎朝の「番」がある。ゴミを拾うことだ。
大きなゴミ袋を片手に、トングで挟み、砂を払って袋に落とす。その一連の動きは、呼吸と同じリズムで身体に刻まれている。理由を尋ねられても、うまく説明できないだろう。ただ、拾うと必ず何かを考えてしまう――その重さだけが、捨てる側との違いだった。
その朝、東京から一人旅で来た川奈絵里が、同じ浜辺を歩いていた。三十六歳、広告デザイナー。人の心を動かす「コピー」を作る仕事に疲れ、感性が摩耗した気がして、ふらりと沖縄に逃げてきた。三泊四日の予定は、すでに六泊目に伸びている。
彼女の足元には、昨夜のプラカップが転がっていた。泡盛を飲みながら撮った写真の、記憶の切れ端だ。朝日を浴びる海をバックに自撮りをしようとして、絵里は無意識にカップをつま先で蹴った。画面の中に映るのは、笑う自分と青い海だけ。ゴミはフレームの外へと追い出された。
その一部始終を、海人は見ていた。
見ただけだ。憤りはない。驚きもない。島の現実から遊離した「綺麗だけを摂取する動作」を、彼は毎朝どこかで目にしている。ただその一つが、今目の前で起きただけだった。
絵里が少し離れたところで振り返り、小さくつぶやく。
「青いのにね。もったいない」
自分の言葉と自分の行為がずれていることに、本人はまだ気づいていない。それでも声には、どこか翳りがあった。
「青さは減らんよ。減るのは、こっちの気持ちさ」
海人は振り返らずに答えた。
絵里ははっと息をのむ。自分が「心を洗うために島を消費しに来た観光客」であることに、初めて気づく隙間が生まれた瞬間だった。
4,「誰かの一秒を回収する人々」
「あなたは……なんで拾うの?」
問いはまっすぐだが、答えを求めているわけではない。孤独が形を変えて口からこぼれただけの音。
「理由がないと拾えないと思う?」
強くない声なのに、その一言は核心を刺した。地元民でも活動家でもないのに、絵里はいつのまにか「加害者でも被害者でもない視点」に立たされていた。
「写るのは自分だけ。ゴミって写んないから、無かったことにしちゃう。……わたしだけ?」
「いや。あんたは“撮る側”の代表だろ。人の鏡をつくる仕事なら、ゴミだって素材になるさ」
素材。今まで一度も回収してこなかった現実の破片が、急に仕事の言葉で呼び出される。絵里は言葉を失った。
「拾ってみる?」
海人は、袋から予備のトングを一本取り出して差し出した。命令でも説教でもない。ただ波が足元をさらうような、自然な誘い。
絵里はぎこちなくそれを受け取り、自分が蹴ったカップを探し当てる。
「まだ、ここにある」
「よかった。まだあるなら、拾えるから」
挟んで、持ち上げて、袋に落とす。小さな音なのに、自分の中では大きく響いた。拾えるから安心する――そんな感覚を、彼女は初めて知った。
「こういう広告、つくればいいさ」
「……つくってみる。今度は、ちゃんと“写らないもの”も入れて」
数日後、絵里はSNSに一枚の写真を投稿した。朝の浜辺、自分の影と、小さなゴミ袋の影だけが写った写真だ。キャプションは、たった一行。
「写らないもの、拾ってみた」
その投稿がどれだけ拡散されたか、雄一も玄徳も海人も知らない。いいねの数で世界が変わるとは、誰も思っていない。
変わったのは、もっと小さな半径だ。
5,「ゴミと心の順番をめぐる物語」
バス停の下のゴミの地層は、少しずつ薄くなってきた。火バサミを持った人影が、街のあちこちでちらほら見える。浜辺では、観光客の子どもが「自分の分のゴミ」を持ち帰ろうとしている。誰かが始めた動作が、名前も知らない誰かの「番」として受け取られていく。
ある夏の夕方、あの日と同じ五十八番線のバス停に、かつての外国人男女が立っていた。今度はトランクの横に、小さなゴミ袋が結わえ付けられている。中にはマイボトルやお菓子の包み紙が入っていた。
雄一に気づいた男が、少し照れたように笑う。
「This time… our turn.」
「今回は……私たちの番ですね」
たどたどしい日本語に、雄一は素直に笑った。
「ああ。ちゃんと回ってきたな」
捨てるのは一秒。だが、飛ばされたその一秒の番は、誰かが拾えば回収できる。障害があっても、観光客でも、地元民でも関係ない。順番は、肩書きではなく「気づいた人」から始まる。
ゴミを捨てる者の時間は一方向に流れていく。だが、拾う者の時間は円を描き、街と海を何度でも撫で直す。その輪のどこかに、自分の立ち位置があると気づいたとき、人は初めて「この街の一員」として息をするのかもしれない。
You can enjoy Okinawa. But this is your turn.
沖縄を楽しんでいい。でも、今はあなたの番だ。
その一言が、怒りの翻訳ではなく、優しさの呼び鈴として届くかどうかで、この島の青さは少しずつ変わっていく。写らないものを拾い続ける名もなき手が、今日もどこかで、誰かの飛ばされた一秒をそっと回収している。
人はゴミを捨てる生き物じゃない。ただ、自分の番を見失ったときだけ、足もとにそれが「ゴミ」として現れる。番だと気づいた誰かが火バサミを握りしめた瞬間、それは少しだけ違う名前に変わる。負担でも、善意でもなく、この街に生きているという、ささやかな証拠という名前に。
だから物語は終わらない。バス停の下でも、北谷の浜辺でも、まだ誰かの「一秒」が飛ばされ続けている。そのたびに、どこかの知らない誰かが、それを拾い上げてしまう。顔も名前も知らない同士が、見えない輪になって街を支えている――その輪のどこに立つかを選ぶ権利だけは、平等に与えられている。
次の番は、もしかしたら、あなたかもしれない。 きっとね。
終わり
本作を書き終えたとき、私は「拾う」という行為の意味を、最初に思っていたよりずっと深く受け止めることになった。拾うとは、誰かの過ちを代わりに背負うことではなく、関係の途切れた“一秒”を回収し直す行為なのだと感じたからだ。
街のどこかで捨てられたものは、誰かの視界から零れ落ちた責任でもある。その零れ落ちた一瞬を、別の誰かがひょいと拾い上げる。その軽い動作の裏側に、人の営みの優しさや寂しさが静かに横たわっている。作品に登場する雄一、玄徳、海人、絵里は、決して特別な人物ではない。どこにでもいる、迷いながら生きている人たちだ。だからこそ、誰かの行動に小さく触れ、また誰かの行動を小さく動かすことができる。
沖縄の青い海や陽射しは、多くの人が求めてやって来る美しさだが、その美しさを支えているのは、観光パンフレットには載らない名もなき人たちの毎日の動作である。火ばさみを握る手、ゴミ袋をそっと結ぶ仕草、落ちている紙片に目を留める視線。そのどれもが、小さな円を描きながら、街と海を撫で直している。
人は完全ではない。誰もが知らぬ間に、誰かの「一秒」を飛ばしてしまう。それは責めるべきことではなく、気づけば拾い直せるという希望でもある。順番は奪い合うものではなく、気づいた人から静かに受け取ればいい。そんな単純な理を、この物語はそっと描きたかった。
最後まで読んでくださったあなたの時間も、私にとっては大切な“拾われた一秒”です。心より感謝申し上げます。




