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文藝賞落選作品。

 僕は24歳だった。僕は今の社会のどこにも進まない窮屈さが嫌いだった。それは窮屈な靴を履いて小指が痛くなる感覚に似ていた、誰もがインターネットで時間を消費し、かつてテレビ局が持っていた権威的なものは失われようとしていた。ある人は、ある特定の一個人の配信に没頭し、夜の貴重な4,5時間をその個人に費やしていた。それはある意味では子育てをしているような感覚だったのかもしれない。一人に自分の貴重な時間をあけわたして食事を口にもっていったり、お風呂にいれて身体をすみからすみまで洗ってあげ、布団に入ると丁寧に絵本を朗読してあげる母親のようだった。結局、僕は社会と5年距離をとった。中学や高校の友達とも連絡を一切取らず、まるで森の中で孤独に生活している仙人のような生活を目指した。それは自分から進んでしたことだ。大学の授業が苦痛で、早々に見切りをつけ、大学の図書館だけを利用する大学時代であった。バイト先で彼女をつくり、セックスの快感を味わった。別にギャンブルにハマっていたとか、ねずみ講のような小銭稼ぎにも興味はなかった。大学は四年で中退した。セックスと読書とゲーム以外の思い出がない。そんな大学生活だった。大学で友達は一人も作らなかった。そして、父が経営している測量会社になんとなく入社した。社員からは二代目社長が入ってきたぞという視線がありありと伝わってきた。僕はその視線がいやでいやで仕方なかった。本格的に仕事に携わることはなく、週に3,4回しか働かなかった。しかし、焦りもあった。

 僕は教養に感化され通常の大学生が送る学生生活から遠ざかった。家に引きこもってさまざまなジャンルの本を読んだ。それはあるときは古典文学であり、あるときは歴史、あるときは化学、あるときは数学だったりした。

 そうやって色々なジャンルの本の知識を吸収する行為は間違っていたのか僕にはわからなかった。たしかに思考の喜びを貪り食うことは僕に十分な満足感を与えはしたものの、現実的には何一つ変化は起きていなかった。結局のところ、僕は「いつまでも現実逃避していてはいけない」という答えを脳がだしているにもかかわらず大人の世界から目を背けていた。

 五年前は、哲学書や社会学の思想書を読むだけで僕は自分が高尚な人間になったと思い込み、満足して布団に入って満足感を得ていた。しかし、翌朝目覚めてみると、昨日まで感じていた精神の高揚はなくなっていた。ただ、素晴らしい本を読んだ後に感じる全能感を味わっていたにすぎなかった。



僕のところに一件の頼まれごとが舞い込んできた。父に父方の祖父の墓参りに行ってほしいといわれたのだ。16歳のときに父方の祖父が亡くなり、僕は人生ではじめて死というものに直面した。僕はそれまであまり寿命について考えることはなかったが、祖父の死去をきっかけに寿命というものを考えるようになった。そうか人生にはいつか終わりが来るんだと。高校生にとって死は身近なものではなかったし、まわりの友達が死んだという話をそれまで聞いたことがなかった。つまり、僕の人生における最初の身近な人の死だったわけだ。

 死んだ人の人生はその日でその人の紡いできた歴史がおわるということを示す。人生は永遠には続かない。まあ地球の寿命や宇宙の寿命なんかに比べたら100年弱という時間はほんの一瞬に過ぎない。でも、そんな相対的にみれば短い寿命の中で人は苦楽を味わい、また、その営みには何か哲学的な生きる意味みたいなものが含まれているのではないかと僕は勝手に想像した。時間は有限であり、その有限の中で何をするか。ある研究者だったか学者だったかの人の論文に、宇宙はある一点から誕生し膨張、限界まで膨張するとまた収縮をはじめて一点に戻る、という論文があると父から聞いたことがある。その論文の面白いところは、これまでに宇宙はその膨張と収縮を50回くらい繰り返しているのではないかと書かれていたことだ。どこから50回という数字を持ち出してきたのか僕は不思議で仕方なかった。それは一回目の可能性だってあるし、三回目の可能性だってあるし、一万回の可能性だってあるし、無限回の可能性だってあるんじゃないかと思った。最後に父が50回ってわかりやすくていいよねと笑っていたことが記憶に残っている。たしかに50回宇宙が誕生したって言われると、謎の説得感というか安心感がある。おそらく論文を書いた人は読んだ人に納得してもらいたかったのだろうと推測した。うん50回、たしかにそれくらいがちょうどいい気がする。一万回宇宙が誕生したって言われてもあまりピンとこない。絶妙な数字だと僕と父は笑いあった。

 当時は将来に明るい希望を持っていた僕も16歳のころには常識や分別を持つようになっていて、無垢な気持ちを心の押し入れの奥深くに仕舞ってしまっていた。そうして普通の人は人生の終わりになって、夢を探求するエネルギーがなくなってしまって後悔するのである。

 僕にとって、社会はまだまだ生まれたばかりの幼児のように未熟で無限の未来が枝分かれしているように見えた。インターネットが普及し、僕は一日の十時間以上をネットサーフィンに費やす日もあった。そこには、正確な情報と不正確な情報が入り混じってしまっていた。しかし、中学生くらいからインターネットに触れてきた経験則として、この情報はおそらく間違っているなとか、この情報はおそらく正確だなとかだとかの判断は多少なりとも判断できた。

 しかしどういうわけか、この先の未来があまり想像できなかった。とある未来予想図には、透明なチューブの中を車らしきものが通っている絵があり、車は空を飛ぶだとか、人工知能が人間の仕事のほとんどを肩代わりするだとか様々な評論家が、まとまりもなく数多くの発言をしていた。変化を好まない僕にとって、これからの社会は昭和のときのようにステレオタイプというものがないように見えて不安だった

。もちろん終身雇用なんてありえない。バブル時代が終わり、リーマンショックがあって、時代は予想のつかない方向に進もうとしていた。いつ、人工知能が人間の知識を追い越すのかわからないし、またその先の未来がどんな社会なのか検討もつかなかった。周りの男友達を見渡せば女性経験のない友達もたくさんいたし、僕には結婚願望がなく、ニュースでよく耳にする少子高齢化という陰気臭い単語も相まって、僕たちの世代の未来はネガティブなイメージがまとわりついていた。

 正直なところ、最初のうち僕は墓参りを断ろうと思っていた。もちろん祖父とはさまざまな思い出があるし、その手の話をしだししたらキリがない。

 しかし、時間の経過というのは、人をいい意味でも悪い意味でも変化させる。

 当時の僕は重度のゲーム依存症になっていた。一日10時間はゲームしないと気が収まらなかった。一日の食事は一度のみで、それもカロリーメイト二袋をつまむのみだった。

 僕は周りの人たちからどんな助言をされようとも固く心の扉を閉ざし、僕にとって救いになるはずの言葉を門前払いしていた。そのために父から墓参りに誘われても、行きたくないと、即答した。別にご先祖様に世話になったわけではないし(祖父には世話になったが)、菩提寺のあるお寺まで片道二時間もかかるから、父が墓参りに行くならまだしも、僕が行ったところで先祖も大して喜ばないだろう。

 大体、一日かけて墓参りに行くことがとても非効率的だし、そんなことをするくらいだったら、家でゲームをしていたほうがよっぽど楽しくて効率的だと思った。

 しかし、父は引き下がらなかった。お前だって父さんのあとにお寺の世話をすることになるんだし、気分転換にもいいだろうと。俺が死んだあかつきには院居士の戒名をつけてくれとか、いろいろとうるさかった

 院居士とは、いろんな諸説があるが、お寺に貢献した人とかがつけられる。もちろん、お寺の役員をしている人には足元には及ばないが、院居士の院という字を戒名をつけてもらうには大体一本が相場だというところだそうだ。普通の戒名は男性で50万、女性が40万というのが一般的な戒名の相場らしい。院をつけるには大体倍の金額、祖父に院の戒名を入れるには一本というのが筋である。ある時、祖父の生前、父がお寺の住職にずばり聞いていた「祖父に院居士をつけたいんですが、戒名だけで50万ということは、通常は倍の一本ということになりますかね?」住職は田舎のお寺ということもあって控えめに言った。「いやいや、うちのお寺は田舎のお寺なんで気持ちだけでいいですよ」「そうなんですか」

 結局、父は住職さんに80万の院居士代を払って、東京の一泊の宿泊代としてプライベートで15万渡したということだ。お布施として一本入れてしまうと、すべてお寺にお金を入れないといけないから、そこは父も気をきかせて、プライベートで15万渡したというわけだ。父は僕が墓参りに行きたくないと何度も言ってもなかなか引き下がらなかった。お前は長男なんだから、いずれうちの栃木の墓を世話することになる。長子としての役割をぜひとも受け入れてくれと言った。

 結局、僕は父の頼みを断れなかった。別に父方の先祖に敬虔な気持ちがあったわけでもない。ただ、僕ももう成人していたし、あるいはそういう役割は順番にまわってくるものかもしれないと不思議に思いを馳せるだけだった。

 次の日から、不思議と気持ちを入れ替えて先祖のことを考え始めた。脈々と受け継がれてきた父方の遺伝子。どこかで一度でも子供が途絶えれば、今の僕は存在しないことになる。それってよく考えたら不思議なことだ。先祖の中にもさまざまな先祖がいたことだろう。中にはそこそこの財を成した先祖がいて、中にはあまりぱっとしない生涯を過ごした先祖もいたことだろう。だが、それぞれの先祖が一様に子孫を残していった。子をなすということがどういう困難を伴うことなのか、独身の僕にはあまりピンとこなかったが、おそらく、それぞれの先祖に、それぞれの苦楽があったことだろう。人間は遺伝子の乗り物であると、どこかの有名な人が言った言葉だが、果たして子孫を残すことに一体、どれくらいの意味があるのだろう。ジークはアルミンに人類とは子孫を残すことだと言った。まったくその通りだと思う。世界の人口は爆発的に増え、おそらく世界にあるべき許容標準を超えてしまっている。あるアフリカの少女は16歳にして、30から40歳も年上の男との間に子を産まされ母親になる。それも羊一頭と交換するという条件で少女は子を産まされる。まあそれは極端な例ではあるが、その少女のテレビを観たときには胸が痛くなったものだ。昭和初期にあったお見合いがちょうど一番健全な時代であったように思う。成人したら、あまり歳の変わらない娘を親がお見合いで決めて結婚し子供をつくる。アフリカの16歳の少女のことと比べれば、ずいぶん健全なことだと思う。お見合い結婚をしてともに人生の苦楽を共にしていく、その形式がもっとも社会のありかたとしては良かったんじゃないかと思う。

 そんなことを考えながら僕は墓参りの日を迎えた。




 朝シャワーを浴びて、あごにクリームをぬり伸びたひげをきれいに剃った。黒スーツに身を包み準備を整えた。その日はもう心の準備もできていた。これから僕は一人で栃木に行き墓参りをする。父から堅苦しい恰好をする必要はないと言われていたが、あえてスーツで行くことに決めた。僕なりの先祖への尊敬の念というものだ。

 家を出て、車に乗り込む。僕は運転は得意だ。一度、休憩をはさみながらだが10時間愛知まで運転したこともある。

 車に乗り込むとブルートュースを起動させ、スマートフォンと同期させて好きなお笑い芸人の深夜ラジオを流す。

 自宅がある千葉から栃木まで片道100キロある。高速を使っても二時間から二時間半の長丁場だ。

 車を走らせタバコに火をつける。今日は雲がちらほら見えたがほとんど快晴だった。道は混むこともなく高速に乗った。高速の運転は退屈だ。圏央道は栃木に向かって一車線しかなく前に遅いトラックがいるため60キロ以上のスピードが出せなかった。僕はひどくイライラした。高速なんて100キロ以上でかっ飛ばしたい。

 僕はタバコに火がついてるにもかかわらず車の窓を閉めた。そうすると車内に煙が充満するが、目が痛くなるまでは我慢する。そうして車内に煙が充満すると、車外の騒音を聞かなくて済む。ラジオパーソナリティーが今週あったおもしろ話をし、相方がサンドバックにされている。そんな毎週の惰性ラジオを聴いているとあっという間に高速を降りた。深夜ラジオが二時間放送だから、運転をはじめて二時間経ったことになる。グーグルマップでもあと18分となっていたから、もうすぐお寺に到着する。

 そうだ仏花をどこかのコンビニで買わなくちゃ。まあ、お寺の近くのコンビニでいいだろう。あそこ一体は大きなお寺が周辺に三件あり、そこのコンビニには絶対仏花が売っている。

 案の定、菩提寺を曲がるところの交差点のコンビニに仏花が売っていた。最後の一つだった。あぶない、あぶない。


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