【1】 歴史の扉の前、二人の不協和音
碧が宿舎を出ると、チャンネル9の担当者が出入口に立ち、煙草をふかしていた。
彼女は不思議そうに一瞥をくれながら、その横を通り過ぎ、中庭を抜けて、チャンネル9用に用意された控室へと向かう。
プレハブの建物に入ると、目の前に広がっていたのは――
ガランとした、まるでガレージのような採取スペースだった。
その中央には、ぽっかりと大きな正方形の穴が掘られている。
深さは二メートルを超え、四方には落下防止のロープが張られていた。
やがてこの場所に、石箱の中から取り出した“七・五〇メートル四方の内箱”が運び込まれ、設置されることになっている。
……碧は一度足を止め、奥を見渡した。
左横には“解剖室”と書かれた扉。四角い穴の先には、四つの蛇口が並んだ洗い場。
右手の壁沿いには細い通路が続き、ドアが四つ並んでいる。
その手前から順に――チャンネル9の〈報道控室〉、〈水篠物産控室〉、〈古代生物研究室〉、
そして一番奥が、今回“諏訪湖の沈没石箱”を発見した神童時貞教授の〈歴史考古学調査室〉である。
*
碧はチャンネル9の控室のドアを開け、中へ入った。
部屋は十二帖ほどの、縦長の長方形。奥の壁には大きな窓があり、中庭越しに諏訪湖が見渡せた。
その窓際の椅子には、麟太郎とチャンネル9の局長が向かい合って座り、何やら話し込んでいるところだった。
碧は局長の姿に気づくと、軽く会釈をした。
麟太郎がこちらに顔を向け、目で「少し待って」と合図を送る。
ドア脇には、碧の大きなバッグが置かれていた。彼女はそれを持ち上げ、入り口近くの椅子に腰を下ろす。
しばらくして、局長が席を立ち、部屋を出ていった。碧は立ち上がって、丁寧に挨拶をした。
すると麟太郎が、紙の束を差し出した。台本と、今後のスケジュール表が綴じられている。
「これ、一通り目を通しておいてください」
そうひと言添えると、麟太郎もそのまま部屋を後にした。
少しして、全体ミーティングが始まった。時刻は、ちょうど七時。
チャンネル9からは、麟太郎と碧が出席。
工事担当の賀寿蓮組からは、源次と龍信の姿もある。
研究者チームも何名か参加していたが――
今回の発見者である歴史考古学者・神童時貞教授と、助手の牧瀬一織の姿は見えなかった。
さらに、メインスポンサー・水篠物産の会長水篠大蔵、チャンネル9の常務取締役一条義春ら、各方面のキーパーソンたちも顔を揃える。
各代表者だけで、およそ五十名――
さながら開会式を前にした“舞台裏の幕開け”であった。
リハーサルと段取りが一通り終わったのは、八時四十五分を回った頃だった。
時計を見た碧は、小さく息を吐く。
九時からは、中庭でセレモニーが始まる。
いわば“運動会の開会式”のようなものだ。
碧と麟太郎も、中庭へと出てきた。
すでに外は、他局の報道陣や一般見学者でごった返していた。林の中にまで人垣ができ、湖の上空では、各局のヘリコプターが低く旋回を続けている。
麟太郎は、中央の前方にカメラを設置した。
段取りとしては、メインスポンサーである水篠会長の挨拶の前に、碧がカメラに向かって“これから行う内容”を説明することになっている。
碧は手にした台本にざっと目を通し、要点を頭に叩き込んだ。
九時ちょうど。
どんよりした空を突き破るように、派手な花火が打ち上がり、セレモニーが開始された。
麟太郎のカメラが回り始める。
市長や県内の著名人たちが次々と挨拶に立ち、会場のあちこちでフラッシュが閃いた。
続いて、水篠会長の挨拶が始まる。
碧はマイクを手に、スタンバイの姿勢をとった。
その直前――
麟太郎からは、「うちの一条常務のスピーチの時だけは、絶対に前に出るな」と、局長からの厳命を伝えられていた。
麟太郎が合図を送ってきた。
碧はマイクを手に持ち直し、一歩前に出て話し始めた。
「こんにちは。レポーターの白鳥碧です。私は今、全世界が注目する諏訪湖に来ています。
いよいよ、湖底に沈む“500年前の巨大な石箱”の引き上げ作業が始まろうとしています」
言葉に力を込めながら、碧は視線をカメラに据える。
「この石箱は、三か月前に発見されたもので、表面には武田家の家紋が確認されています。
果たして中から出てくるのは……信玄の隠し財宝か、それとも巨大な棺なのか――」
一拍置き、碧は静かに言葉を結ぶ。
「私たちは、いままさに――永遠に語り継がれる“新たな歴史の扉”を、開こうとしています。
その箱が、まもなく湖底から、その全貌を現すのです」
碧が語り終えると、麟太郎はカメラをゆっくりと諏訪湖へ向けてパンし、撮影を止めた。
「OK!」
輪を作った指を掲げる麟太郎に、碧は片目をつぶって応えた。
「……まあ、こんなもんでしょ」
マイクのコードを手早くまとめながら、碧はひとりごとのように呟いた。
その背後では、まだセレモニーの挨拶が続いていた。
「これから僕は、うちの常務の挨拶と、引き上げ作業の模様をカメラに収めます。
その間に、碧ちゃんは学者さんたちに挨拶してきてください。午後のインタビューに出てもらう予定なんで」
麟太郎が淡々と告げる。
「……学者とか教授って、わたし苦手なのよね」
碧はぶつぶつ言いながら、ブレザーを羽織り、眉間にシワを寄せた。
麟太郎は黙って機材を片付け続けている。
「だって、気難しいし。人間嫌いな人、多そうだし……」
「お願いします」
マイクを受け取りながら、麟太郎はそっけなく言った。
碧は腕を組んで、じとっと睨む。動かない。
麟太郎は、はぁっとため息をひとつつくと、碧の目の前まで歩いて来る。
「ほんと、頼みますよ……!怒らせたら、僕の首が飛びますから。
特に――神童教授だけは、絶対に……マジで勘弁してください」
麟太郎は深々と頭を下げた。
「もう、しょうがないわねぇ」
碧は、薄くなりかけた頭頂部を見つめ、心の中で小さくつぶやいた。
(……ああ、あなたも苦労してるんだねぇ)
そうして観念したようにため息をつき、人垣を避けるように、建物の方へ歩き出す。
横目で見ると、まだ水篠会長の長い挨拶は続いていた。