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【1】 夏空に、史上最も報われない恋

水篠会長と一条常務に軽く挨拶を済ませると、時貞はにこにこと上機嫌で駐車場に出てきた。

顔を上げれば、空はすっかり夏の色に染まっている。眩しげに目を細めながら、隣を歩く一織が問いかけた。


「……何か、いいことでもあったの?」


時貞は振り向きざまに言った。


「これから恋人に会いに行くから。車で送ってくれ」


弾むような声だった。


「……え?」


思わず一織が足を止める。意外な答えに、戸惑いを隠せなかった。


「また、そんな冗談を」


「嘘じゃないよ。もう、ずっと昔から……憧れてたんだ」


時貞の顔には、ふざけた様子は見えなかった。本気とも冗談ともつかない、どこか夢見るような表情だった。


一織は、胸の奥に、いままで感じたことのない不思議な感情を抱いていた。

いつもクールで知的な時貞が、これ程まで浮かれているのを、今までに見た事が無かった。


「今日、初めて会うんだよ」


そんな一織の複雑な気持ちなど気にも留めず、時貞はさらりと言った。


「どうしたの?」


後ろから追いついてきた碧が、二人の様子を見て首をかしげるように声をかけた。


同時に――


「碧さん、足……もう大丈夫っスか?」


源次の隣を歩いていた翔太が、照れくさそうに頬を赤らめながら小さな声で尋ねた。


「うん、大丈夫」


碧は明るく応じると、くるりと一織の方へ向き直り、


「で、何があったの?」


と、じっと覗き込むように聞いた。


一織は困ったように肩をすくめて言った。


「《《こいつ》》が、恋人に会いに行くから、私に車で送ってほしいっていうの」


「こいつぅ……」


年長の時貞がジト目で睨み返す。


「だって、そうでしょう。四郎にとって、私は何なの? 

あなたの保護者じゃないんだからね?

行きたいなら、自分で切符買って電車で行けばいいでしょ!」


一織は少しカッとなったようにまくし立てた。


そんな彼女を前に、時貞はまばたきをひとつしてから、あっけらかんと言った。


「……何を怒ってるんだよ。僕が会いに行きたいって言ったのは――信玄だよ」


「……えっ?」


「昔から憧れてたんだ。戦国時代の、信長とか謙信とか、そういう武将にさ。ビデオで見るのもいいけど……本物が見たくてね」


「本物って……武田信玄のこと?」


「そ、信玄の“首”。どこにあるんだろうな、田辺研究所とかに保管されてたりするのかなって」


そう言って、時貞は少年のような瞳で、碧の方を見た。


「えっ? でも……信玄の首って、あの時以来、行方不明なんじゃなかった? 一織ちゃん、知ってる?」


碧が振り返って尋ねると、一織は首を横に振った。


「ううん、私も聞いてない」


すると――少し前を歩いていた源次が、立ち止まり、あっさりと言った。


「首なら、行方不明じゃねぇぞ。……あの怪物が、飲み込んでた」


その一言に、時貞は文字通り、固まった。


「……え?」


足を止め、瞬きも忘れたような顔で源次を見つめる。


「飲み込んだって……あの怪物が? そ、そんな……うそ……。な、なんで……」


ショックで声はうわずり、時貞の目からは――焦点がすっと抜け落ちた。

そのまま、半ば放心したように、彼はその場に立ち尽くしていた。


そのとき――


「信長の命令が、まだ生きてたのかもね」


碧がふとつぶやく。声はどこか遠く、風に溶けるように儚かった。


「……でも、持ち帰ったところで、渡す相手はもう――何百年も前、時の狭間に置き去りにされたままで……」


その言葉に宿る、わずかな寂しさ。


「何だか……切ない話だぞい」


一織が、優しく笑みを浮かべながら言う。しかしその目には、どこか静かな哀しみが揺れていた。


だが――もっと切なくて、もっと悲しい男が、ここにいた。


時貞だった。


入院中から、ずっと楽しみにしていた「信玄との対面」。

それはまるで、遠い憧れの存在に手を伸ばすような、純粋でひたむきな夢だった。


――だがその夢は、音を立てて崩れた。

粉々に、無惨に、木っ端微塵に。


しかし、その信玄の首を、ふっ飛ばしたのは、誰でもない――さっき、《《こいつと呼ばれた》》、この男であった。


時貞は、持って行き場のない虚しさを胸に抱えたまま、肩を落として俯いた。

一織には、かける言葉が――見つからなかった。

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