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戦国の封獣・壱 〜信玄と鬼の眠る湖〜  作者: 霧原零時
第2章 鉄の悍馬に跨る黒い戦士
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【3】 タオル一枚、白い悪魔の微笑み

龍信が、簀の子の手前で右足を上げた。


「若、あの……ちょっとだけ、お願いがあるんスけど」


彗がしゃがみ込み、そのブーツを両手で引っ張りながら言った。


「ん?」


「おれたちなんかじゃ、まともに話もしてもらえないっスから……若から、碧さんに頼んでもらえないっスか?」


「何を?」


龍信はロッカーに片手を添え、右足のブーツをぐっと引き抜いた。

その勢いで、ブーツを持っていた彗が「うわっ」と声を上げながら簀の子の外へ転がった。


「いってて……」


彗は起きあがり、尻を軽く叩きながら言った。


「おれたちと一緒に、写真撮ってもらえませんかって」


手にしたブーツを逆さにすると、砂利がカラカラと音を立ててこぼれ落ちる。


(ふーん、そういうことね? 女神にそんなお願いするなんて、いい度胸じゃない。……いいわよ、肩くらいなら抱かせてあげても♡)

湯気に包まれた碧は、肩を濡らしながらシャワーの下で微笑んだ。

目元には“勝者の余裕”と、いたずらな光がちらついていた。


「若! お願いしますよっ」と、翔太が催促するように言った。


「……考えとくわ」

龍信は気のない返事をしながら、顔を上げた。


――そのとき、耳に入ってきたのは、シャワーの音だった。


「……誰か、シャワー使ってんのか?」


龍信がぼそりと呟く。


だが、碧には――到底、返事などできるわけがなかった。

彼女は身を強張らせて、滴る湯気の向こうで息を殺していた。


その時、翔太が、抜けた左側のブーツを手にしたまま、後ろへ派手に転がった。


龍信は両足を簀の子に乗せながら、

「こんな朝っぱらから、シャワー使う奴なんかいるのか?」と、眉をひそめた。


「ええ、今どきの若いもんは、“朝シャン”とかいって毎日髪洗うんスよ」

彗が頭をかくような仕草で笑いながら、髪を洗う真似をする。


「……男が、か?」


「そッスよ! 最近の男ときたら、軟弱もんばっかっスからね」

翔太がブーツを逆さにしながら、鼻で笑った。

「おれの弟なんて、中坊のくせに朝シャンして香水つけて学校行ってますよ。キモくないっスか?」


龍信は、黙ってそのブーツの砂利を見つめながら、ふと思った。

(……アイドルと写真撮りたいって頼むのも、同じくらい軟弱なんじゃねえのか?)


「ほら、ほらっ、早く出て作業しないと、若にケツ蹴られるっスよ!」

彗が奥のシャワー室に向かって怒鳴った。


(……やめてよ、マジで……!)

碧は、声を殺して身を縮めた。

息を潜めながらも、顔が一瞬で蒼ざめていく。


「お前ら、もういいから現場戻れ」

龍信が、トランクス一枚のまま立ち上がる。

「それとも、おれのケツでも拝みたいのか?」


「いやいやいやいや!」「それはマジ勘弁ッス!」


彗と翔太は、腰を低くして手を鼻の前で振りながら後ずさる。

まるで何かのコントのように、ぺこぺことドアの外へ退場。

仕上げは――そう、「ゲッツ!」の要領で、尻から去っていった。



龍信は、トランクスを脱ぐと、腰にタオルを巻いた。

そのとき――


「ギィ……」


背後で、軋むような音を立てて、シャワー室の扉が開いた。

龍信はぴくりと肩を揺らし、顔だけそちらを振り返る。


そこに――


バスタオル姿の碧が静かに現れた。


透き通る肌を伝う水滴が、蛍光灯の光をきらりと弾いた。

湯気に霞む太ももが、わずかに揺れる。

そのまま碧は、音もなく、だが確実に一歩を踏み出した。

……まるで、狩りの主導権を握る側の動きだった。


目が合った。


……驚いて硬直したのは、龍信の方だった。


「なっ、なんで……お前、ここに……。ここは、野郎だけの……!」


突然、目の前に現れたバスタオル一枚の碧。

濡れた髪から水が滴り、白い肩と、思わず目が泳ぐほどの胸のふくらみが、タオルの端からのぞいていた。


龍信は目を逸らし、耳たぶまで真っ赤に染まる。


「どうしたの。おケツを蹴飛ばすんでしょ? わたしの」


碧はいたずらっぽく笑いながら、ゆっくりと龍信に近づく。


「ちょ、ちょっと待て。来るな……!」


龍信は二、三歩あとずさりながら、周囲をきょろきょろ見回す。

だが逃げ道はなく、頼れる仲間もいない。


――狼の目が、まるで仔犬のように泳いでいる。


「さあ、蹴ってみたら。遠慮しないで?」


そう言って、碧は後ろを向いて、尻のタオルをめくり上げる素振りをした。


龍信は、反射的に手を前に突き出して叫んだ。


「ま、待てって!」


逃げ場所を捜した。――が、どこにも逃げ場はない。

視線が泳ぎ、背中にじわりと汗が滲む。


すると、碧はくるりと前を向き直ると、

すっと無表情に近い顔つきで、龍信の立つすぐ横のロッカーの扉を開けた。


「なに、勘違いしてるのよ」


その一言には、女神の冷笑と、勝利の余裕があった。


龍信は、碧を遠まきにして、シャワー室へと向かった。

碧が、その背中に向かって、

「若ちゃん」と、薄笑いを浮かべた。


「……ん?」


「この格好で、写真撮る」


と、碧は手を後ろ髪に当てて、くるりとポーズを決めた。


「バカやろう」


龍信は赤くなった顔のまま、シャワー室のドアを音を立てて閉めた。

仮設の壁がミシリと揺れる。


碧は小さく微笑んだ。まるで鬼の首でも取ったような勝利感。

鼻歌を口ずさみながら、碧は服に着替えた。


龍信は、シャワーの蛇口をひねり、冷たい水を頭から浴びた。

男には強かった。女にも強い――そのはずだった。


だが、あれは完全に奇襲だった。

自分が構えもできぬうちに、タオル一枚の“悪い(やつ)”にふいを突かれた。


情けなくて、言葉も出なかった。


龍信は、蛇口を握り直し、水の勢いを最大にした。

顔を叩く水音が、耳の奥で彼のプライドを(あざけ)っていた。

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