【3】 タオル一枚、白い悪魔の微笑み
龍信が、簀の子の手前で右足を上げた。
「若、あの……ちょっとだけ、お願いがあるんスけど」
彗がしゃがみ込み、そのブーツを両手で引っ張りながら言った。
「ん?」
「おれたちなんかじゃ、まともに話もしてもらえないっスから……若から、碧さんに頼んでもらえないっスか?」
「何を?」
龍信はロッカーに片手を添え、右足のブーツをぐっと引き抜いた。
その勢いで、ブーツを持っていた彗が「うわっ」と声を上げながら簀の子の外へ転がった。
「いってて……」
彗は起きあがり、尻を軽く叩きながら言った。
「おれたちと一緒に、写真撮ってもらえませんかって」
手にしたブーツを逆さにすると、砂利がカラカラと音を立ててこぼれ落ちる。
(ふーん、そういうことね? 女神にそんなお願いするなんて、いい度胸じゃない。……いいわよ、肩くらいなら抱かせてあげても♡)
湯気に包まれた碧は、肩を濡らしながらシャワーの下で微笑んだ。
目元には“勝者の余裕”と、いたずらな光がちらついていた。
「若! お願いしますよっ」と、翔太が催促するように言った。
「……考えとくわ」
龍信は気のない返事をしながら、顔を上げた。
――そのとき、耳に入ってきたのは、シャワーの音だった。
「……誰か、シャワー使ってんのか?」
龍信がぼそりと呟く。
だが、碧には――到底、返事などできるわけがなかった。
彼女は身を強張らせて、滴る湯気の向こうで息を殺していた。
その時、翔太が、抜けた左側のブーツを手にしたまま、後ろへ派手に転がった。
龍信は両足を簀の子に乗せながら、
「こんな朝っぱらから、シャワー使う奴なんかいるのか?」と、眉をひそめた。
「ええ、今どきの若いもんは、“朝シャン”とかいって毎日髪洗うんスよ」
彗が頭をかくような仕草で笑いながら、髪を洗う真似をする。
「……男が、か?」
「そッスよ! 最近の男ときたら、軟弱もんばっかっスからね」
翔太がブーツを逆さにしながら、鼻で笑った。
「おれの弟なんて、中坊のくせに朝シャンして香水つけて学校行ってますよ。キモくないっスか?」
龍信は、黙ってそのブーツの砂利を見つめながら、ふと思った。
(……アイドルと写真撮りたいって頼むのも、同じくらい軟弱なんじゃねえのか?)
「ほら、ほらっ、早く出て作業しないと、若にケツ蹴られるっスよ!」
彗が奥のシャワー室に向かって怒鳴った。
(……やめてよ、マジで……!)
碧は、声を殺して身を縮めた。
息を潜めながらも、顔が一瞬で蒼ざめていく。
「お前ら、もういいから現場戻れ」
龍信が、トランクス一枚のまま立ち上がる。
「それとも、おれのケツでも拝みたいのか?」
「いやいやいやいや!」「それはマジ勘弁ッス!」
彗と翔太は、腰を低くして手を鼻の前で振りながら後ずさる。
まるで何かのコントのように、ぺこぺことドアの外へ退場。
仕上げは――そう、「ゲッツ!」の要領で、尻から去っていった。
龍信は、トランクスを脱ぐと、腰にタオルを巻いた。
そのとき――
「ギィ……」
背後で、軋むような音を立てて、シャワー室の扉が開いた。
龍信はぴくりと肩を揺らし、顔だけそちらを振り返る。
そこに――
バスタオル姿の碧が静かに現れた。
透き通る肌を伝う水滴が、蛍光灯の光をきらりと弾いた。
湯気に霞む太ももが、わずかに揺れる。
そのまま碧は、音もなく、だが確実に一歩を踏み出した。
……まるで、狩りの主導権を握る側の動きだった。
目が合った。
……驚いて硬直したのは、龍信の方だった。
「なっ、なんで……お前、ここに……。ここは、野郎だけの……!」
突然、目の前に現れたバスタオル一枚の碧。
濡れた髪から水が滴り、白い肩と、思わず目が泳ぐほどの胸のふくらみが、タオルの端からのぞいていた。
龍信は目を逸らし、耳たぶまで真っ赤に染まる。
「どうしたの。おケツを蹴飛ばすんでしょ? わたしの」
碧はいたずらっぽく笑いながら、ゆっくりと龍信に近づく。
「ちょ、ちょっと待て。来るな……!」
龍信は二、三歩あとずさりながら、周囲をきょろきょろ見回す。
だが逃げ道はなく、頼れる仲間もいない。
――狼の目が、まるで仔犬のように泳いでいる。
「さあ、蹴ってみたら。遠慮しないで?」
そう言って、碧は後ろを向いて、尻のタオルをめくり上げる素振りをした。
龍信は、反射的に手を前に突き出して叫んだ。
「ま、待てって!」
逃げ場所を捜した。――が、どこにも逃げ場はない。
視線が泳ぎ、背中にじわりと汗が滲む。
すると、碧はくるりと前を向き直ると、
すっと無表情に近い顔つきで、龍信の立つすぐ横のロッカーの扉を開けた。
「なに、勘違いしてるのよ」
その一言には、女神の冷笑と、勝利の余裕があった。
龍信は、碧を遠まきにして、シャワー室へと向かった。
碧が、その背中に向かって、
「若ちゃん」と、薄笑いを浮かべた。
「……ん?」
「この格好で、写真撮る」
と、碧は手を後ろ髪に当てて、くるりとポーズを決めた。
「バカやろう」
龍信は赤くなった顔のまま、シャワー室のドアを音を立てて閉めた。
仮設の壁がミシリと揺れる。
碧は小さく微笑んだ。まるで鬼の首でも取ったような勝利感。
鼻歌を口ずさみながら、碧は服に着替えた。
龍信は、シャワーの蛇口をひねり、冷たい水を頭から浴びた。
男には強かった。女にも強い――そのはずだった。
だが、あれは完全に奇襲だった。
自分が構えもできぬうちに、タオル一枚の“悪い女”にふいを突かれた。
情けなくて、言葉も出なかった。
龍信は、蛇口を握り直し、水の勢いを最大にした。
顔を叩く水音が、耳の奥で彼のプライドを嘲っていた。