【2】 防壁一枚、聞き覚えの声
碧が麟太郎に連れられてやってきたシャワー室は、プレハブ本部棟を抜けた左側――作業員たちのための仮設宿舎の建物内に設けられていた。
宿舎の扉を開けた瞬間、むわっとした空気が押し寄せてきた。
「くっさぁー。なにこれ、男の墓場?」
碧は顔をしかめて鼻をつまみ、恨めしそうに麟太郎を睨んだ。
宿舎の中は、いかにも“男だけの棲み処”だった。
二段ベッドが並び、そこかしこに脱ぎ捨てられた作業服や、コンビニ袋、そして――妙に年季の入った漫画雑誌や、なぜか表紙がめくれてる過激なグラビアなどが転がっている。
空気はよどみ、男たちの体臭が染みついていた。
高い天井と殺風景な照明が、どこか体育館のバックヤードを思わせる。
「我慢してください」
麟太郎は淡々と言って、中へ入っていく。
碧は片手で鼻をつまみ、もう片手でバッグを引きずるようにしながら、しぶしぶその後を追った。
乱雑に積まれた洗濯カゴや道具をよけながら、碧は二段ベッドの間をすり抜けるように歩いた。
そして、一番奥――シャワー室のドアを開けた。
中は簡素な造りの脱衣所になっており、壁際には衣類を入れるロッカーのようなものが並んでいた。
その手前の床には簀の子が敷かれ、さらに奥に六つのシャワールームが続いていた。
「じゃあ、外で待ってます。十五分くらいでお願いしますね」
麟太郎はそう言って、碧の大きなバッグを抱えたまま退室した。
着替えはすでに、碧がロッカーの中へ移していた。
「絶対、誰も入れないでよ!」
碧は脱衣所のドアから顔だけ出して、鼻をつまみながら念押しした。
麟太郎は後ろ姿のまま片手をひょいと挙げると、外へ出て行った。
碧は靴を脱ぎ、簀の子の上にそっと足をのせた。
服を脱いでロッカーにしまい、カチャリと鍵をかける。
ただ広いだけの、殺風景なプレハブ造りの脱衣所。
壁の薄さが気になって、なんとなく落ち着かない。
タオルを胸元に巻きつけて、碧はそっと一番奥のシャワールームのドアを開けた。
蛇口をひねると――勢いよく冷水が飛び出してきた。
「ひゃっ――!」
碧は肩をすくめて飛び上がる。水しぶきを浴びながら、蛇口を調整すると、やがて温かな湯に変わっていった。
一方その頃――
麟太郎は宿舎の出入口で、ポケットから煙草を取り出していた。火をつけようとしたところで声が飛ぶ。
「風見さん、ここでしたか。局長が呼んでます、チャンネル9の控室で」
振り向くと、テレビ局スタッフの男が立っていた。
チャンネル9の現場担当だ。
「局長が……?」
「急いで呼んでこいって。全体ミーティングまで、あと三十分切ってますから」
「……わかった。じゃあ、君、ちょっとここにいてもらえる」
そう言って麟太郎は、碧のバッグを抱えたまま慌てて走り出した。
中庭を横切り、プレハブの本部棟へと駆けていく。
そのとき――
プレハブの建物の中から、麟太郎とは入れ違いに、龍信と若い作業員ふたりが出てきた。
彼らは並んで歩きながら、作業員宿舎の出入口に向かってくる。
「うっス! ……何してるんスか? うちらの宿舎の前で」
ヘルメットを小脇に抱えたにきび顔の青年――吉田彗が、不思議そうに声をかけた。
「いや、ちょっと“ここにいろ”って言われたもんで……」
そう応えたのは、宿舎前に立っていたチャンネル9のスタッフだ。
状況が飲み込めず、やや困惑した顔で笑っている。
その横を、龍信が黙って通り過ぎる。
目は前を向いたまま、だが横目でちらりとスタッフを一瞥していた。
宿舎に入ると、龍信は迷うことなく、自分の荷物が置かれた場所へと歩いていった。
後ろでは、彗が入口そばの下駄箱の下に、ヘルメットと黒い皮手袋をガサリと放り込んでから、その背を追いかける。
「あと、何分だ?」
龍信がバッグの中から作業着を取り出しながら訊いた。
「えーと……二十五分くらいっス」
「なら、シャワーぐらいは浴びられるな。埃まみれで、気持ち悪ぃからよ」
「ええ。でも急いでくださいよ。今日は全体ミーティングに、メインスポンサーの水篠会長も来ますから」
そう言ったのは、痩せた体格で背の高い若者――森川翔太だった。
ひょろっとした身体を小さく縮めながら、気遣うような声を添える。
龍信は、着替えを手にシャワー室へ歩き出した。
彗と翔太も、その後にぴたりとついていく。
「若、白鳥碧さんとは、どこで会ったんスか?」
にきび面の彗が、ニヤニヤしながら訊いた。鼻の下がのびきっている。
「碧さん、めっちゃいい匂いしてましたよね。しかも、めちゃ綺麗っス」
と、翔太も目を細めて続ける。
龍信は脱衣所のドアを開けながら、くるりと振り返った。
「誰それ?」
それだけ言って、素っ気なく首を傾げる。
良い反応を期待していた二人は、ズコッと大げさに肩を落とした。
「さっき入り口にいたじゃないスか。白いミニワンピ着た……女神っスよ!」
翔太があわてて補足する。
「ああ、あれか。……で? あの女がどうかしたか?」
龍信はロッカーの前に立ち、革ジャンを脱ぎながら気のない声で返す。
「マジですか。若、テレビとか全然見ないっスもんね……でも、碧さんて、俺らの世代じゃマジで超ど真ん中の人気者ですよ」
彗が嘆息まじりに言いながら、龍信の作業着をロッカーに押し込む。
「お前、今いくつだっけ」
「二十っス! なったばっかっス!」
「へえ……そんなに人気あるんか。お前らの世代には」
龍信はそう言いながら、無造作に革ズボンのベルトを外した。
彗と翔太は、龍信の左右に分かれて、簀の子に腰を下ろすと、片方ずつのブーツの留め金を外した。
(ちょっと、どういうこと!?)
龍信たちの声に驚いたのは、シャワーを浴びている碧だった。
(……うそでしょ?なんで“あの男”がここにいんのよ!?)
碧はシャワーの音の向こうで、聞き覚えのある声を確かに聞いた。
しかも、なぜか見張り役の麟太郎が倒されたような展開になっている。
そのうえ、よりにもよって今の私は――
扉一枚の向こうで、素っ裸だった。