【1】 発掘現場へ、そして迫りくる影に
黒ずくめの大男は、バイクから無言で降りると、ゆっくりとこちらへ歩き出した。
(こんな所まで追い駈けてきて、一体どういう神経してんのよ)
理解不能だった。まるで、映画のワンシーンだ。
報道車にいたスタッフたちも、ざわめき始めていた。
誰ともなく振り返り、その視線が一点に集中する。
――黒。
漆黒のライダースーツに、フルフェイスのヘルメット。
動きはゆっくりなのに、迫力は異常。周囲の喧騒が遠のいて見える。
他の男たちは依然としてバイクに跨ったまま。
だが、全員が同じようにエンジンを切り、動きを止めていた。
その沈黙すら、まるで“儀式”のようだった。
碧は、大きなバッグを片腕に抱え、泥だらけの地面を小走りに駆けた。
水たまりを器用に避けながら顔を上げると――
ちょうどプレハブの入口から、麟太郎が出てくるところだった。
その隣には、屈強な体格の大男が立っていた。
一見して、現場でただならぬ権威を持っていそうな風格だ。
碧には、それがまるで――スーパーマンに見えた。
(勝ったわね、これ)
後ろを振り返ると、黒尽くめの男が――たった一人で、堂々と歩いてくる。
ヘルメットの奥は暗く、表情は読み取れない。だが、その歩き方だけで異様な存在感を放っていた。
(……ばっかじゃないの。こっちには味方が山ほどいるんだから!)
碧は、にやりと微笑んだ。麟太郎の姿を見つけて手を振る。
麟太郎は、隣の口髭の男と話しながら、やや戸惑ったような顔でこちらを見ている。
(来るなら来なさい。今度は、ひとりじゃない!)
碧は、大きなバッグを抱えたまま、小走りでプレハブへ向かった。
水たまりを避けつつ、拳を握る。
「碧ちゃん、シャワーはあるよ!」
麟太郎が、走ってくる碧に向かって声を張った。
碧は彼の前で立ち止まり、すぐに後ろを振り返る。
黒尽くめの男は、まだ“私”に一直線に歩いてきていた。ヘルメットの奥の表情は、依然として読めない。
(なんなの、ほんとに……)
「碧ちゃん、こちらが現場の責任者の源さん」
麟太郎が横に立つ男を紹介した。
作業服の上からでもわかる分厚い胸板に、どっしりとした肩。
鼻の下には立派な口髭、眉は太く一文字――ひと目で“現場のボス”とわかる、圧のある男だ。
それでいて、小さく窪んだ目元には、どこか人の良さがにじんでいた。
碧は、男の顔を見上げて、思わず見とれる。
(こっちの方が“黒ずくめ”より、デカいし強そうじゃない)
その男――羅生門源次は、今回の発掘工事を一手に仕切る、建設会社『賀寿蓮組』の現場責任者だった。
三十六歳、小学生の双子の娘を溺愛する父親で、普段は岩手の実家で家族と暮らしている。
碧は見上げて、軽く会釈をした。
彼女の小さな顔が、源次の分厚い胸板のあたりにすっぽりと収まる。
「シャワーなら、宿舎の奥にあるから、勝手に使ってくれや。
こんな朝っぱらから使ってるやつなんか、いねえから」
源次は、そのごつい風貌に似合わない優しい口調でそう言った。
語尾に、少しだけ東北訛りが混じっている。
(……やっぱりこの人、いい人じゃない)
(しかも一番偉いってことは、一番強いってことよ!)
碧は心の中でガッツポーズを決めた。
この人が「やれ」と言えば、若い作業員たちが全員走ってくるはず――そう思うだけで、心強さが胸に広がる。
「あの男が……」
そう言って、碧は後ろを振り返った。
黒尽くめの男は、もうすぐそこまで歩いてきていた。
歩きながら、顎紐に指をかけて、ヘルメットを外そうとしている。
(……いよいよ来たわね。完全に臨戦体制じゃない)
だけど――こっちには髭のスーパーマンがいる。
味方も大勢。さあ、来るなら来なさい!
碧は麟太郎の背中の陰に回りながら、源次の方へ視線を向けた。
……と。
(え? なになに?)
さっきまで“守護神”だったはずの源次が――
なんと、黒ずくめの男に向かって、……ぺこりと頭を下げたのだ。
(えええぇぇぇ!? 逆じゃん!? なんでそっちが下がるの!?)
「若、間に合いましたね」
源次が頭を上げて、にこやかに言った。
(――若?)
碧は麟太郎の背中で、思わず首をかしげた。
訳が分からず、碧はひょいと顔だけ出して、麟太郎の横から様子をうかがう。
麟太郎は、背後にぴったりと張りつく碧を、困ったような顔で見返していた。
そのとき、黒ずくめの男が、ヘルメットを取りながら、ぶっきらぼうに口を開く。
「悪い、ちと遅れた。……準備、もう済んでるか?」
その声には、妙な威圧も芝居がかった調子もなかった。
「ええ、全て終わってます」
源次が、まるで上司に報告するように、きっちりとした口調で応じる。
(えっ……なにこの自然なやり取り……)
さっきまで源次の後ろに隠れていた碧は、完全に置いてきぼりだった。
黒尽くめの男は、無言のままヘルメットを脱いだ。
その男は、凛々しい狼のような瞳をもっていた。
ごつい手でオールバックの長髪をかき上げる。
額には汗がにじみ、二、三日剃っていない無精髭がごわついていた。
浅黒い肌。堀の深い骨格。
見る者を睨みつけるようなその顔に、碧は――ほんのわずか、息をのんだ。
(……うそでしょ。なんでこんな映画に出てくるみたいな顔の男が現場に……?)
碧は混乱していた。さっきまでただの不審者扱いだった男が、いま目の前で、“組織の中心人物”として立っている。
(このギャップ、なんなのよ……!)
そのとき、プレハブの建物の中から、作業服を着た若い男たちが二人、駆け出してきた。
「若。お帰りなさい!」
二人は立ち止まると、ぴしりと背筋を伸ばして頭を下げる。
(若……? また“若”?)
碧の眉がぴくりと動く。
そのまま、麟太郎の後ろから顔を覗かせるようにして、ポツリと呟いた。
「あんた……いったい誰なの?」
黒ずくめの男が、ようやく碧の方を見た。
フルフェイスの奥にあった視線が、まっすぐ碧をとらえる。
「やっぱり、あんただったか。……白い服だったから、そうじゃないかと」
男はそれだけ言うと、片手で軽くヘルメットを放り投げた。
傍にいた若い作業員が、慣れた様子でそれをノールックでキャッチし、脇に抱え込む。
「あなた、仕返しに来たんじゃないの。仲間、たくさん連れて……」
碧の声には、まだ警戒の色が残っていた。
だが――
「はっはっはっ!」
男は、腹の底から笑い声を響かせた。
その笑いは、脅しでも怒りでもなく、ただただ心底おかしそうだった。
「……何がおかしいのよ」
碧は、大真面目な顔のまま問いかけた。
その目は真剣で、まだ警戒を解いていない。
麟太郎と源次は、話の流れについていけず、顔を見合わせている。
黒ずくめの男は、肩を揺らして笑いながら、ゆっくりと黒い革の手袋を外した。
つり上がっていた狼のような目は、笑いとともに柔らかくなり、今はまるで犬のような優しさを湛えている。
「この人……いったい誰なんですか?」
碧は返答を渋る男にしびれを切らし、横に立つ大男――源次へ目を向けた。
源次は一拍置き、碧に向かってにやりと笑った。
「うちの若頭だけど、何か?」
その口ぶりには、まるで頼もしい身内を紹介するようだった。
「若頭?」
碧の声がわずかに裏返る。
「ええ、賀寿蓮組の二代目――龍信さんっスけど」
と、ヘルメットを受け取ったにきび面の若い作業員が、ちょっと誇らしげに胸を張って言った。
その黒ずくめの男こそ――
建設会社『賀寿蓮組』社長・賀寿蓮貞臣の長男にして、次代を担う若頭。
名を賀寿蓮 龍信。二十七歳である。
源次は補佐役として、龍信の面倒を任されていた。
「じゃあ……あそこでバイクに乗ってるの、暴走族じゃないの?」
碧が、不審そうに龍信の背後を指差す。
龍信は、首だけでちらりと後ろを振り返り、笑った。
「暴走族? ああ……あれは、俺を送ってきてくれた仲間たちさ」
そう言うと、バイクには目もくれず――
龍信は、背中を向けたまま、右手の拳を、静かに天に突き上げた。
その瞬間。
ズドンッ。
地面が鳴った。
轟音。咆哮。空気が震える。
龍信の背後で、十数台のバイクが一斉にエンジンを唸らせた。
鋼鉄の咆哮が轟き、スロットルが火を噴くように吹かれる。
鉄の馬たちは、次々に華麗なUターンを決めると――
爆音を引き連れて、国道へと走り出した。
怒涛の如く。鮮やかに。
一台残らず、すべてが走り去っていった。
*
「若、お知り合いだったんですかい?」
と、源次が不思議そうな顔で、碧と龍信を交互に見た。
龍信は、頭をかきながら、
「ああ、ちょっと来る途中で……一緒に来た健太が、ついな」
そう言って、ちらりと碧の方を見やる。
「もう、いいわよっ!」
碧はぷんすかしながら麟太郎の袖を引っ張り、バサッとバッグを肩にかけて、建物の中へとずかずか入っていった。
ぽかんと見送った源次の後ろから――
「若、何かあったっスか?」
にきび顔の横にいた、のっぽの作業員が首をかしげて聞いた。
龍信は困ったような顔をして、首を横に振った。