【2】 命火と、黒い戦士の休息
彗が、ガスバーナーを持って走ってきた。
「彗、火を点けてくれ」
龍信が低く、しかし確かな声で言った。
息が荒く、汗に濡れた額が冷たく光っている。
浅黒い肌と無精髭、血に染まったシャツに作業服――
まるで、戦場からそのまま抜け出してきたような男だった。
彗は、駆け寄りながらポケットをごそごそと探る。
やっと取り出したオイルライターと一緒に、煙草が数本、ばらばらと床に散った。
ボンベのコックを回し、ライターをガスの噴出口に近づける。
〈ボッ……〉と、炎が灯る。
最初は頼りなく揺れていた炎が、調節弁を回すにつれ、ナイフのように鋭く、青白く――まるで殺意を帯びたように尖っていった。
「それで……そこを」龍信が顎で、足元の床を示した。
彗は一瞬きょとんとしたが、目を落とすと――そこにあったのは、一枚の鉄板。
それは、源次が持って、最初に怪物に体当たりをしたものだった。
「これ、どうすんですか……?」
「真っ赤に、焼いてくれ」
「鉄板を?」
「ああ、早くしろ」
龍信の声は、もうかすれている。
龍信の左腕からは、止めようもない鮮血が、床にぽたぽたと落ちている。
きつく腕に巻いたシャツも、すっかり赤黒く染まっていた。
龍信は壁に寄りかかり、片膝を伸ばして座っている。
右手で、残っている左腕の上を強く押さえているが、
その目は、朦朧としながらも、まだ“闘う覚悟”だけは消えていなかった。
彗は震える手で、鉄板にバーナーの刃先を当てた。
じゅう……と、金属が熱されていく。
「彗」
「はいっ」
彗は、鉄板に火を当てたまま顔を上げた。バーナーの青白い炎が、彼の頬を照らしている。
「煙草……あるか」
「あります!」
反射的に答え、バーナーを左手に持ち替えながら、右手でポケットを探る。
――が、すぐに気づいた。
「あっ、若……すみません。さっきライターを出すときに、全部外に……!」
龍信はかすかに笑った。
「それでいいよ」
目で合図する。
その視線の先――
足元に、くしゃりと潰れた煙草が数本、土と血の混ざった床に転がっていた。
彗はその一本を拾い上げ、丁寧に土をはたき落とす。
そして、そっと龍信の唇に咥えさせた。
ポケットから、まだ新品のピカピカのオイルライターを取り出す。
緊張で汗ばんだ指先で、覚えたてのトップホップ――三本の指で器用に蓋を開け、
親指で擦る。〈カチッ〉という音と共に、オレンジ色の炎が灯る。
彗は、慎重に――ほんのわずかに震える手で、龍信の煙草の先に火を近づけた。
煙草に火が移る。
ゆっくりと煙を吸い込んだ龍信は、片方の口角を持ち上げ、細く息を吐いた。
「それは……」
「えっ?」
彗が驚いて顔を上げると、龍信の視線が、自分の手元に向けられているのに気づいた。
手の中には――銀色のオイルライター。
「ああ、これっスか? 田舎の……お袋が、誕生日に送ってくれたやつです」
龍信は、ふっと目を細めた。
「……イニシャル、入りか?」
「ええ、ほら」
彗は、少し誇らしげに笑いながら、龍信の顔の前にライターを掲げて見せた。
銀色のボディに、綺麗に刻まれた文字――
『S.Y』という、小さな小さな証。
「お袋か……いいもんだな」
龍信の目元が、かすかに緩んだ。
その顔は、今にも死にそうな男には、到底見えなかった。
ほんの一瞬だけ――戦場に、時間が止まったような、穏やかな空気が流れた。
彗は、腰を少し浮かして、ライターをポケットの中へ押し込んだ。
「――静かだな」
「えっ?」
「……終わったのかな」
龍信は、仄暗い天井を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「……だと、いいんですけどね」
彗はその横顔をじっと見つめる。滲む血の匂いと鉄の味が、肌に染みついて離れない。
龍信の腕は応急処置で縛ってあったが、止血は追いついていなかった。
このままでは、体内の血が全部流れ出して――確実に、死ぬ。
彗はその現実を想像してしまい、また、鼻の奥がつんとして涙が滲んだ。
「若……」
「ん?」
「……今のうちに、病院へ行かないと……」
“死んじゃいますよ”――その最後の言葉だけは、声がかすれて、喉の奥から出てこなかった。
彗の目は腫れ、赤く充血していた。
もう間近に迫っている死を、この人は感じている。―――彗にはそう見えた。
「なんでこんな時に……鉄板なんか焼くんスか? これを怪物に……押し付ける気なんスか?」
彗は、震える声で言った。ガスバーナーを握る手が、細かく揺れていた。
「分からないか」
龍信が、壁に寄りかかったまま、ゆっくりと彗の方へ顔を向けた。
「わかんねぇッスよ」
「腹減ったな。まだ夕飯食って無かったわ。……卵かキャベツ、何かねぇか?」
「何言ってんスか! 冗談じゃないッスよ……! ぼくは、ぼくはまだ……若を失いたくないんスよ……!」
堪えきれずに、彗の声が涙まじりになった。
「彗」
「……はい」
「心配すんな。おれは、死なねぇよ」
龍信の声は、低く静かだった。
「おれが今まで、やられっぱなしで終わったこと、あったか? おれの左腕――高ぇ代償だったって、あの怪物に後悔させるまでは、……死ねるわけねぇだろ」
彼は、彗を見て微笑んだ。
「なんで、そんな顔で笑えるんスか……!」
彗は声を詰まらせ、大きく首を横に振った。
涙がぽたぽたと床に落ち、顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
「――そろそろだな」
「えっ……」
龍信の言葉に、彗がはっとして鉄板を見ると、中央が赤々と、まるで地獄の門のように灼けていた。
彗は涙を手の甲で拭い、震える息を整えた。
龍信は、くわえていた煙草をゆっくりと吐き捨てた。
地面に跳ねて、火種が飛んだ。
「彗、お前の破れたシャツを……もうちょっと破ってくれ」
「シャツっスか?」
彗は首を傾げつつも、左手で勢いよくシャツを引き裂いた。もう袖も裾もボロボロだ。
「それを……おれの口に詰めてくれ」
「は?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
「……口っスか?」
「ああ」
「でも、めっちゃ臭いっスよ。おれ、三日も風呂入ってないんスよ……」
それでも龍信は微動だにせず、目だけで「早く」と訴えた。
「若、……そんなに腹減ってんスか」
「……ああ、さっさと」
観念したように、彗は破れ布を丸め、龍信の口に押し込んだ。
その時――龍信の口の中で、彗の淡い汗が広がった。
「た……ごが……いんじゃ、さき……をや……しかねえな」
龍信の言葉は、口を布で塞がれていて、モゴモゴとしか聞こえなかった。
「……え? な、なんスか?」
(たまごがないんじゃ、先に肉を焼くしかねぇな)
――脳内で自動補完されてしまった彗は、意味がまったく分からず、戸惑った顔で見上げた。
「え、どういう意味っスかそれ!? ……え? えっ!?」
彗の声が裏返る。次の瞬間。
龍信は、灼熱の鉄板へ――自らの左肩から、崩れ落ちるように伸し掛かった。
〈ジュゥウゥーーーーッ!!〉
焼けた肉の音が、部屋中に響き渡る。
鼻を突く焦げた肉の匂いが、嗅覚を激しく刺した。
龍信は、左腕の断面を鉄板に押し当てていた。
激痛と熱に、意識が飛びそうになるのを必死にこらえ、口内のシャツを奥歯でギリギリと噛みしめる。
「わ、若あああああっ!!」
彗が叫び、両腕で彼を支えるように抱き起こした。
焼け焦げた肉の縁からは、もう血は流れていなかった。
血の色は、すでに炭の色へと変わっていた。
「若……! だ、大丈夫っスか!?」
龍信は目を開けなかった。
彗は、龍信の口の中に詰めた自分のシャツをそっと引き抜いた。
そして、彼を再び壁に凭れさせるように座らせた。
――彼の長い前髪が乱れ、俯く額にかかる。
その横顔は、獣のように精悍で、どこか静かな哀愁さえ漂わせていた。
「少し……寝かせてくれ」
「……はい」
「彗っ」
「はいっ」
「……風呂、入れよ」
それだけ言うと、龍信はズルズルと身体を傾け、地面へと崩れ落ちた。
彗は、脇にあった作業服を丸め、そっと龍信の頭の下に置いた。
――束の間の、黒い戦士の休息だった。
彗は、龍信の叫び声を一度も聞かなかった。
「凄い人だ」――その想いが、全身を駆け抜け、鳥肌がぞわりと逆立った。
そして彗の中で、これまで眠っていた“何か”が音を立てて目を覚ました。
立ち上がる。
目線の先には、壁に突き刺さったままの戦士の鶴嘴。
両腕に力を込めて、彗はそれを引き抜いた。
ギィ、と金属が軋む音が響く。
その瞳はもう、かつての彗のものではなかった。
龍信の魂が乗り移ったかのように――彼の目は、戦う狼のそれに変わっていた。




