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戦国の封獣・壱 〜信玄と鬼の眠る湖〜  作者: 霧原零時(orすっとぼけん太)
第12章 果てし戦士へレクイエムを
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【2】 命火と、黒い戦士の休息

彗が、ガスバーナーを持って走ってきた。


「彗、火を点けてくれ」

龍信が低く、しかし確かな声で言った。

息が荒く、汗に濡れた額が冷たく光っている。

浅黒い肌と無精髭、血に染まったシャツに作業服――

まるで、戦場からそのまま抜け出してきたような男だった。


彗は、駆け寄りながらポケットをごそごそと探る。

やっと取り出したオイルライターと一緒に、煙草が数本、ばらばらと床に散った。


ボンベのコックを回し、ライターをガスの噴出口に近づける。


〈ボッ……〉と、炎が灯る。

最初は頼りなく揺れていた炎が、調節弁を回すにつれ、ナイフのように鋭く、青白く――まるで殺意を帯びたように尖っていった。


「それで……そこを」龍信が顎で、足元の床を示した。


彗は一瞬きょとんとしたが、目を落とすと――そこにあったのは、一枚の鉄板。

それは、源次が持って、最初に怪物に体当たりをしたものだった。


「これ、どうすんですか……?」

「真っ赤に、焼いてくれ」


「鉄板を?」

「ああ、早くしろ」

龍信の声は、もうかすれている。

龍信の左腕からは、止めようもない鮮血が、床にぽたぽたと落ちている。

きつく腕に巻いたシャツも、すっかり赤黒く染まっていた。


龍信は壁に寄りかかり、片膝を伸ばして座っている。

右手で、残っている左腕の上を強く押さえているが、

その目は、朦朧としながらも、まだ“闘う覚悟”だけは消えていなかった。


彗は震える手で、鉄板にバーナーの刃先を当てた。

じゅう……と、金属が熱されていく。


「彗」


「はいっ」


彗は、鉄板に火を当てたまま顔を上げた。バーナーの青白い炎が、彼の頬を照らしている。


「煙草……あるか」


「あります!」

反射的に答え、バーナーを左手に持ち替えながら、右手でポケットを探る。


――が、すぐに気づいた。


「あっ、若……すみません。さっきライターを出すときに、全部外に……!」


龍信はかすかに笑った。


「それでいいよ」


目で合図する。


その視線の先――

足元に、くしゃりと潰れた煙草が数本、土と血の混ざった床に転がっていた。


彗はその一本を拾い上げ、丁寧に土をはたき落とす。

そして、そっと龍信の唇に咥えさせた。


ポケットから、まだ新品のピカピカのオイルライターを取り出す。

緊張で汗ばんだ指先で、覚えたてのトップホップ――三本の指で器用に蓋を開け、

親指で擦る。〈カチッ〉という音と共に、オレンジ色の炎が灯る。


彗は、慎重に――ほんのわずかに震える手で、龍信の煙草の先に火を近づけた。


煙草に火が移る。

ゆっくりと煙を吸い込んだ龍信は、片方の口角を持ち上げ、細く息を吐いた。


「それは……」


「えっ?」

彗が驚いて顔を上げると、龍信の視線が、自分の手元に向けられているのに気づいた。


手の中には――銀色のオイルライター。


「ああ、これっスか? 田舎の……お袋が、誕生日に送ってくれたやつです」


龍信は、ふっと目を細めた。


「……イニシャル、入りか?」


「ええ、ほら」

彗は、少し誇らしげに笑いながら、龍信の顔の前にライターを掲げて見せた。


銀色のボディに、綺麗に刻まれた文字――

『S.Y』という、小さな小さな証。


「お袋か……いいもんだな」

龍信の目元が、かすかに緩んだ。

その顔は、今にも死にそうな男には、到底見えなかった。


ほんの一瞬だけ――戦場に、時間が止まったような、穏やかな空気が流れた。

彗は、腰を少し浮かして、ライターをポケットの中へ押し込んだ。


「――静かだな」


「えっ?」


「……終わったのかな」

龍信は、仄暗い天井を見上げながら、ぽつりと呟いた。


「……だと、いいんですけどね」

彗はその横顔をじっと見つめる。滲む血の匂いと鉄の味が、肌に染みついて離れない。


龍信の腕は応急処置で縛ってあったが、止血は追いついていなかった。

このままでは、体内の血が全部流れ出して――確実に、死ぬ。


彗はその現実を想像してしまい、また、鼻の奥がつんとして涙が滲んだ。


「若……」


「ん?」


「……今のうちに、病院へ行かないと……」

“死んじゃいますよ”――その最後の言葉だけは、声がかすれて、喉の奥から出てこなかった。


彗の目は腫れ、赤く充血していた。

もう間近に迫っている死を、この人は感じている。―――彗にはそう見えた。


「なんでこんな時に……鉄板なんか焼くんスか? これを怪物に……押し付ける気なんスか?」


彗は、震える声で言った。ガスバーナーを握る手が、細かく揺れていた。


「分からないか」

龍信が、壁に寄りかかったまま、ゆっくりと彗の方へ顔を向けた。


「わかんねぇッスよ」


「腹減ったな。まだ夕飯食って無かったわ。……卵かキャベツ、何かねぇか?」


「何言ってんスか! 冗談じゃないッスよ……! ぼくは、ぼくはまだ……若を失いたくないんスよ……!」


堪えきれずに、彗の声が涙まじりになった。


「彗」


「……はい」


「心配すんな。おれは、死なねぇよ」

龍信の声は、低く静かだった。


「おれが今まで、やられっぱなしで終わったこと、あったか? おれの左腕――高ぇ代償だったって、あの怪物(馬鹿タレ)に後悔させるまでは、……死ねるわけねぇだろ」

彼は、彗を見て微笑んだ。


「なんで、そんな顔で笑えるんスか……!」

彗は声を詰まらせ、大きく首を横に振った。

涙がぽたぽたと床に落ち、顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。


「――そろそろだな」


「えっ……」


龍信の言葉に、彗がはっとして鉄板を見ると、中央が赤々と、まるで地獄の門のように灼けていた。

彗は涙を手の甲で拭い、震える息を整えた。


龍信は、くわえていた煙草をゆっくりと吐き捨てた。

地面に跳ねて、火種が飛んだ。


「彗、お前の破れたシャツを……もうちょっと破ってくれ」


「シャツっスか?」

彗は首を傾げつつも、左手で勢いよくシャツを引き裂いた。もう袖も裾もボロボロだ。


「それを……おれの口に詰めてくれ」


「は?」

一瞬、聞き間違いかと思った。


「……口っスか?」


「ああ」


「でも、めっちゃ臭いっスよ。おれ、三日も風呂入ってないんスよ……」

それでも龍信は微動だにせず、目だけで「早く」と訴えた。


「若、……そんなに腹減ってんスか」


「……ああ、さっさと」


観念したように、彗は破れ布を丸め、龍信の口に押し込んだ。

その時――龍信の口の中で、彗の淡い汗が広がった。


「た……ごが……いんじゃ、さき……をや……しかねえな」


龍信の言葉は、口を布で塞がれていて、モゴモゴとしか聞こえなかった。


「……え? な、なんスか?」


(たまごがないんじゃ、先に肉を焼くしかねぇな)


――脳内で自動補完されてしまった彗は、意味がまったく分からず、戸惑った顔で見上げた。


「え、どういう意味っスかそれ!? ……え? えっ!?」


彗の声が裏返る。次の瞬間。


龍信は、灼熱の鉄板へ――自らの左肩から、崩れ落ちるように伸し掛かった。


〈ジュゥウゥーーーーッ!!〉

焼けた肉の音が、部屋中に響き渡る。

鼻を突く焦げた肉の匂いが、嗅覚を激しく刺した。


龍信は、左腕の断面を鉄板に押し当てていた。

激痛と熱に、意識が飛びそうになるのを必死にこらえ、口内のシャツを奥歯でギリギリと噛みしめる。


「わ、若あああああっ!!」

彗が叫び、両腕で彼を支えるように抱き起こした。


焼け焦げた肉の縁からは、もう血は流れていなかった。

血の色は、すでに炭の色へと変わっていた。


「若……! だ、大丈夫っスか!?」


龍信は目を開けなかった。


彗は、龍信の口の中に詰めた自分のシャツをそっと引き抜いた。

そして、彼を再び壁に凭れさせるように座らせた。

――彼の長い前髪が乱れ、俯く額にかかる。

その横顔は、獣のように精悍で、どこか静かな哀愁さえ漂わせていた。


「少し……寝かせてくれ」


「……はい」


「彗っ」


「はいっ」


「……風呂、入れよ」

それだけ言うと、龍信はズルズルと身体を傾け、地面へと崩れ落ちた。


彗は、脇にあった作業服を丸め、そっと龍信の頭の下に置いた。

――束の間の、黒い戦士の休息だった。


彗は、龍信の叫び声を一度も聞かなかった。

「凄い人だ」――その想いが、全身を駆け抜け、鳥肌がぞわりと逆立った。

そして彗の中で、これまで眠っていた“何か”が音を立てて目を覚ました。


立ち上がる。

目線の先には、壁に突き刺さったままの戦士の鶴嘴つるはし


両腕に力を込めて、彗はそれを引き抜いた。

ギィ、と金属が軋む音が響く。


その瞳はもう、かつての彗のものではなかった。

龍信の魂が乗り移ったかのように――彼の目は、戦う狼のそれに変わっていた。

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