【5】 知性の牙と戦意を失わぬ者たち
龍信がゆっくりと振り返った。
怪物は、わずか先でじっと立ち止まっていた。
動かない。ただ、金色の片目だけがこちらを睨んでいた。
龍信は、入り口に立て掛けてある鶴嘴を握った。
そこへ――
にきび面の彗が、ひょいと顔を出した。
採集室の中程で、怪物がこちらをじっと見ている。
彗は、その視線をまともに受けながら、口をパクパクさせている。
……だが、声は出ていない。
室内の照明は落ちていたが、非常灯と外のライトが差し込んでおり、思ったほど暗くはなかった。
「どうした」
龍信が、ドア越しに彗へ問いかけた。
「今……セ、セメントを流し込んでます」
彗は、目を逸らさぬまま、小声で答えた。
龍信は、小さく頷いた。
「お前、何持って来たんだ?」
龍信が怪訝な声で訊いた。
「えっ、あ、いや……」
彗は咄嗟に手に持っていた物を足元に隠し、目を泳がせた。
彼はガスボンベを引きずり、
その手には――
鉄骨を切断する工業用のバーナーが握られていた。
だが、怪物を目の当たりにした瞬間、戦意を喪失した。
いくら炎を噴けるバーナーでも、接近しなければ意味がない。
怪物は腕が長い。そんな距離に“自分が行ける”わけがなかった。
(……よく、あんな化け物と戦っているな)
彗は、龍信と源次を見て、信じられない顔をした。
「若!」
「ん?」
源次の声に、龍信が顔を向けた。
「こいつの弱点は、脇の下と目ェです!
俺が上からチェーンソーを振り下ろしますから――
腕が上がった瞬間、どっちか狙えるほうを、鶴嘴で突き刺してください!」
龍信を向いている怪物に、一拍の間もなく、源次が怪物の側面から斬りかかる。
ギャリギャリギャリッ! 火花と轟音が宙を裂く。
怪物は唸りを上げて振り向き、反射的に爪のある右腕を上げて防御した。
その刹那――!
龍信が、全力で振り抜いた鶴嘴を、がら空きの顔面へ水平に叩き込んだ!
〈グシャッッ〉
鈍く潰れたような音がして、暗闇の中――何か硬い破片がいくつも飛び散った。
鶴嘴の先端が、怪物の顔面の奥深くまでめり込んでいた。
「……やったッ!!」
後ろで、彗が両拳を握ってガッツポーズ。
完封したピッチャーのような顔で、うなずきまくっている。
――だが、怪物は倒れない。
源次のチェーンソーも、まだ右腕の強固な爪に阻まれていた。
――何かが、おかしい。
「くっ……うぉぉぉ……!」
龍信が腰を引き、綱引きのような姿勢で唸っている。
どうやら、怪物に突き刺した鶴嘴が、抜けないらしい。
彗は、恐る恐る壁際を遠回りして、怪物の顔が見える位置まで回り込んだ。
――そして、絶句した。
「え、ええええぇぇぇぇ……!?」
信じられない、という顔で目を見開く。
龍信の鶴嘴は――怪物の口に突き刺さっていたのだ。
そう、あの一撃を、怪物は自ら顔を上げ、歯で受け止めたのだ。
残った左目を潰されることは、自分にとって“死”を意味する。
それを、怪物は理解していた。
だからこそ、ギリギリの瞬間に、口を開けてガードしたのだ。
まるで――それが当然かのように。
今、鶴嘴は上下の歯の奥に喰い込んでいる。
さっき飛び散ったのは、どうやら――怪物の**折れた前歯(牙)**だったらしい。
怪物は、爪と腕だけでなく――
相当に高い知能を持っているようであった。
怪物の金色の片目が、静かに動いた。
――龍信を見ている。
鶴嘴を咥えたままの怪物に対し、龍信は必死に引き抜こうと力を込めていた。
だが、びくともしない。
まるで、鋼の鉤にでも挟まれたかのように、鶴嘴は怪物の奥歯に噛み込まれていた。
そして、怪物は“見切った”。
――この男は、もう攻撃できない。
ゆっくりと、怪物は顔を横に向けた。
音もなく。冷たい、狩人のように。
“弱った者”から潰す――
源次は肋骨を折られ、呼吸は乱れ、足元もおぼつかない。
それが、この怪物の“理性”だった。
――うるさい蝿を一匹ずつ、確実に叩き潰す。
怪物は、右腕で源次のチェーンソーを受け流しながら、左腕を突き出した。
〈ドスンッ!〉
金属が潰れる、重い音が響いた。
源次の腹に巻かれた、軽トラックのドアの鉄板が、鈍く凹んだ。
次の瞬間――
チェーンソーを持ったまま、源次の大きな体が、宙に浮いた。
一拍遅れて、壁へと叩きつけられる。
〈ゴッ!〉
「う……ぐっ!」
倒れ込んだ源次の息が、鋭く乱れた。
龍信は鶴嘴を握ったまま、怪物の怪力に引きずられた。
力一杯に引いてみたが、鶴嘴は抜けない。
(……ダメか)
龍信は潔く手を放した。
代わりに、足元に転がる鉄板に目を留める。
――テーブルの天板だ。
龍信はそれを両手で掴むと、音を立てて持ち上げた。
重い。だが、盾にはなる。
怪物は、ちらりと龍信を一瞥した。
だが、すぐに顔を背ける。
――狙いは、源次。
鶴嘴を咥えたまま、怪物は壁際へと歩を進めた。
ふらつく源次を、逃がす気などない。
「ゼェ……ゼェ……」
源次の呼吸は、もう限界に近かった。
壁にもたれて立ち上がったものの、今にも崩れ落ちそうだ。
両腕はだらりと垂れ、まるでボクシングのノーガード。
足元に落ちたチェーンソーを拾う体力も、残されていなかった。




