表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/82

【3】 その怒り、制御不能

解剖室に――龍信が飛び込んできた。


まず視界に飛び込んできたのは、無惨に転がる死体の数々。

そして――チェーンソーを振り下ろす源次、その前で咆哮する怪物。


その異様な巨躯、血に染まる惨劇の光景に、龍信の背筋に冷たいものが走った。

だが――それ以上に、彼の全身を突き動かしていたのは、“怒り”だった。


龍信は、手にしていた鶴嘴(つるはし)を、静かに壁際に立てかけた。


ポケットから黒いレザーグローブを取り出す。

両手にしっかりとはめ込み、右手を顔の前にかざす。

そして――ゆっくりと拳を握った。


キュッ――。

革が手のひらに馴染む小さな音が、室内に鋭く響いた。


「若! 注意してください!!」

源次が叫ぶ。


だが龍信は、素手のまま、静かに怪物へと歩み寄る。

目は細く、鋭く。口元は真一文字。

血が煮えたぎるような沈黙をまとい――その姿はまさに、“鬼神”。


こういう時の龍信は、“完全にキレていた”。



――源次の脳裏に、遠い記憶がよぎった。


中学時代。

放課後、友人と歩いていた帰り道のことだった。


目が合った――それだけで、絡んできた三人のチンピラ。

彼らは言った。「土下座して詫びろ」と。


友人は震えながら地面に膝をつき、泣きながら頭を下げた。

だが、龍信は――詫びなかった。


「やるなら俺をやれ」と、怒鳴った。


チンピラたちは笑いながら言った。

「お前が詫びないから、こうなるんだよ」と。


そして――友人を三人がかりで、蹴り続けた。


その瞬間、龍信の中で何かが“ブツン”と切れた。


数人が止めに入ったが、意味はなかった。

彼は全員を――叩きのめした。


その日、十九歳のチンピラの一人が病院送りになり、

意識不明のまま一週間が過ぎた。


龍信は病室を訪れた。

そっと開けたドアの隙間から、ベッドの横を見つめた。

そこには、頬の痩けた年老いた母親が、黙って看病を続けていた。


龍信は、病室に入ることができなかった。

ただ、母親の横顔を、長く見つめていた――。


あの時から、龍信は一度も喧嘩をしなくなった。

それは自分の怒りが、どれだけ恐ろしいかを知ったからだ。


だが今――

あの時、チンピラたちを殴り続けていた“あの龍信”が、ここにいる。


こうなると――

もう、誰にも彼を止めることはできない。



「若っ――!」


源次の叫びが響くよりも早く――

龍信の右足が、怪物のがら空きの脇腹に深々と突き刺さった。

ドゴッ、と鈍い衝撃音。

巨体が、一歩、後退する。


チェーンソーと蹴り。

怪物は、二方向からの攻撃を受け続けるのは不利だと悟った。

距離を取ろうと後ずさる。


だが――龍信がそれを逃すはずがない。


「はぁッ!」


気合とともに踏み込む。

懐に滑り込んだ瞬間、鋭く絞り出すような右ストレートが、

怪物の左目を的確に撃ち抜いた。


ズン――と、顔が僅かに反り返る。


その光景を前に、源次は一歩後ろへ下がった。

チェーンソーを一旦下ろす。

龍信が前に立っていては、こちらは攻撃できない。

ましてや――自分の体力は、すでに風前の灯だ。


と、その時だった。

足元に、何かが光った。


「……!」


源次はしゃがみ込むと、それを拾い上げ、腹に巻いた晒の内側へと滑り込ませた。

その顔に、一瞬だけ、険しい決意が浮かぶ。


―――戦況は、龍信に託された。


パワーでは敵わない。

だが――スピードなら勝てる。


龍信は、まさに疾風のようだった。

右へステップ、フェイントをかけ、左フック!

怪物の右側頭部に、黒い拳がめり込む。

続けてもう一発! 今度はさらに深く、鋭く!


しかし――


「グォアァ――ッ!」


怪物の右腕が唸りを上げて、下から弧を描くように振り上げられた。

殺気を感じ、龍信は咄嗟に左肩を引いて回避。

刹那、スレスレで爪の軌道を躱す。


バランスが崩れる――

だが、そのまま体を捻り、反動を活かして――


「喰らえッッ!!」


渾身の右アッパーが、下から怪物の顎を撃ち抜いた!

グゴンッ、と微かに軋む音。


だが――その衝撃は、龍信自身の拳にまで跳ね返ってくる。

拳が割れるほどの痛みが走る。――が、その顔は笑っていた。


――効いているのか。

――それとも、効いてなどいないのか。


わからない。



「若ッ!!」


源次の絶叫が、怒号のように響いた。

至近距離での応酬。

それは、紙一重――いや、髪一筋の生死の境だった。


怪物が、右肘を折り畳み――そのまま、水平に振り抜く!

カッ――と、一枚だけ開いた外爪が、殺意を帯びて空気を裂いた。


龍信は即座に反応する。

スウェー――身体をのけ反らせ、紙一重で刃を躱す!


「ッらぁッ!」


反動を活かして右足を振り上げる!

肘の関節を下から蹴り上げた瞬間――


バギィィッ!!


怪物の右腕が自らの頭部へ弾かれる!

開いていた爪が、怪物の額を掠めた。

スシャッと、緑色の血が弧を描いて飛ぶ。


ギャアアアッッ!!

怪物が咆哮する。

鋭利な右腕を反射的に顔から遠ざける――


空いた。今しかない!


龍信が拳を握り締め、最後の距離を詰めようと――踏み込んだ、その時。


「ぐっ――!?」


ドグゥッ!!


怪物の左拳が、真横から突き刺さるように飛んできた。

不意打ちの一撃――

龍信は、完全に見落としていた。

鋭利な右腕ばかりに意識を奪われていたのだ。


「が……っ!」


身体が宙に浮いた。

翻筋斗(もんどり)打って、後方の壁へと――叩きつけられる。


ドグワァアアアアアン!!


建物が悲鳴を上げて揺れる。

龍信は、俯せのまま崩れ落ちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ