【3】 止まったはずの鼓動、そしてその目が
薄暗い部屋の中――
源次はすぐに立ち上がり、足元に注意を払いつつ、時貞のもとへ駆け寄った。
その身体を抱き起こすと、左わき腹が裂けており、そこから血が静かに滲み出している。
源次は、時貞の腕を自分の肩に回すと、身体を引きずるようにして、倒れている日向助手の方へ向かった。
(教授……あんた、こんな軽い身体で、まったく無茶なことを……)
心の中で呟く声は、怒りと心配と尊敬が入り混じったものだった。
一方、麟太郎は、ふらりと立ち上がると――怪物に目を向けた。
部屋の照明は落ちていて、非常灯の緑色の光だけが、ぼんやりと揺れていた。
怪物の体からは、白い湯気のような煙が立ちのぼり、かすかに燻るのが見えた。
天井から垂れる鎖に全体重を預け、まるでブランコのように、ゆらり、ゆらりと揺れていた。
重たく垂れ下がった両腕。深く俯いた顔。
背を丸めたその姿は――まるで“考え込む巨人”のようで、不気味さと哀れさが入り混じっていた。
右目に突き刺さった鉄筋の先端は床に届いており、顔の位置は胸の前――その異様な姿勢に、麟太郎は無意識に息を呑む。
彼はそっと、テーブルの上に置かれていたビデオカメラに手を伸ばし、それを持ち上げた。
源次は、気絶して倒れている日向助手の肩を掴むと、荒々しく引き起こした。
その顔は真っ青で、目も口も虚ろに開いたまま、生気のかけらもない。
「……起きろ」
囁くような声で言った次の瞬間――
〈パシーン!〉
鋭い平手打ちが、助手の頬を叩きつけた。
乾いた音が、静まり返った部屋に痛々しく響く。
日向助手は、ハッと目を見開き、荒い息を吐きながら周囲を見回す。
そして――
「ぎゃあああああっ!!」
うっすら灯る非常灯の下、血塗れの床、黒煙をあげる怪物、倒れた仲間たち……その光景に、日向助手は悲鳴を上げた。
すぐさま、もう一発、頬を平手で打った。
「落ち着け! 終わった! もう終わったんだ!
……それより、教授の手当てを――頼む!」
そう言って、源次は時貞のシャツをめくり上げた。
傷は胸から腹にかけて大きく裂けていたが、思ったほど深くはない。
怪物の爪が閉じていたおかげで、致命傷には至らなかった。
とはいえ、血は止まらずに滲み出している。
源次は目の前にうつ伏せで倒れていた丹波助手のシャツを躊躇なく引きちぎり、
「これで、早く!」と怒鳴る。
普段は冷静な源次の声に、わずかな焦りがにじんでいた。
「死んじまうぞ、教授がッ!」
肩をがっしりと揺すられ、ようやく日向助手の目に正気が戻る。
手渡された布切れを握りしめると、震える手で時貞の腹に巻き付け始めた。
その手はまだ、小刻みに震えていた。
「風見さん、作業員宿舎へ行って、みんなを起こして。警察にも連絡を――!」
源次の声に、テーブルの陰でビデオカメラを点検していた麟太郎が顔を上げた。
「……冗談じゃない」
「……え?」
「冗談じゃないですよ。外にはまだ、あの化け物がウジャウジャいるんでしょ? ここにいたほうが、よっぽど安全ですって」
「何だと……!」
「宿舎の誰かが、もうとっくに警察に通報してるはずです。俺が行くまでもないでしょ」
麟太郎の冷めた口調が、静まりかけていた空気に水を差す。
その言葉を聞いた瞬間――
源次が、すっと立ち上がった。
額からは一筋の血が流れている。先ほど、怪物に弾き飛ばされて頭を打った傷だ。
それでも表情は痛みよりも、怒りに満ちていた。
まるで鬼のような顔で、無言のままゆっくりと麟太郎に歩み寄っていく。
そして――
「バカヤロウッ!!」
怒鳴り声とともに、源次の腕が振り抜かれた。
麟太郎の手から、カメラが弾き飛ばされる。
カメラは壁に激突すると、哀れな音を上げ、レンズはひしゃげ、内部の基盤やパーツがパラパラと床へこぼれ落ちた。
「な、何すんですか……!」
麟太郎が呆然と声を漏らす間もなく、
源次は彼の襟首をつかみ上げ、荒々しく引き寄せる。
「早く救急車を呼ばないと、教授が死んじまうぞ! いい加減にしろ!!」
目の前の怒気に満ちた源次に、麟太郎は完全に言葉を失った。
その時――
背後から、微かに響いた。
〈ジャリ……〉
鎖が軋む、金属同士の擦れる音。
源次が、ゆっくりと振り返る。
麟太郎も、源次の肩越しに、そっとその先を覗き込んだ。
部屋の中央。
怪物は相変わらず、鎖に絡まったまま、頭を垂れ、目を閉じて小さく揺れていた。
「どうしても行かないなら……怪物が来る前に、おれがこの手で……」
源次が低く言いかけた瞬間、
「わ、わ……分かりましたよッ」
襟首を締め上げられた麟太郎が、苦しげに息を吐きながら、必死に答えた。
――その時だった。
部屋の中央、ほの暗い鎖の下で。
ぶらさがる怪物の顔――その“目”が、ゆっくりと……開きかけた。
そして、垂れ下がった左手。
その指先が――ほんのわずかに、ピクリと、動いた。
「おれは、あれにガソリンをかけて燃やす。
……だから、あんたは早く――警察と救急車を呼んでくれ」
源次はそう言うと、親指で背後を指し示した。
日向助手は、ちぎったワイシャツの袖や布切れを使い、時貞の胸から腹にかけて、応急処置のように巻き付けていく。
傷口を押さえるように、晒のようにきつく――必死に、縛った。
時貞は、それでも目を閉じたまま、微かに呼吸を繰り返すだけだった。
日向助手の両手はまだ震えていた。
けれど、それでもさっきよりは――ほんのわずかに、落ち着きを取り戻していた。
彼女は、ゆっくりと薄暗い部屋の中を見渡した。
すぐ先に――丹波助手がいた。
首のない胴体に、まるで人形のような自分の“顔”を抱えさせるようにして、崩れ落ちている。
さらに奥――腹に大きな穴を開けて、床に倒れている田辺博士の姿が目に入る。
……そのすぐそば。
蛍光緑の非常灯が、かすかに何かを照らしている。
それは、鎖に吊るされたままの怪物の下肢だった。
ただ吊られているだけなのに、まるで“そこに在る”だけで、空気が違った。
日向助手の視線が、その足からゆっくりと上に移動する。
太もも。腰。背中。肩。
そして――
「きゃあぁぁぁーっ!!」
次の瞬間、日向助手が鋭く悲鳴を上げた。
源次が反応して振り返り、彼女の視線の先を追う。
麟太郎も反射的にそちらを覗き込む。
部屋の中央――首無しの背中を向けていた“大きなそれ”が、
ギギ……ギギ……と音を立てながら、ゆっくりと――立ち上がった。
右肩に絡まった鎖を、左手で掴むと、次の瞬間――
〈ガツンッ!〉
力任せに引きちぎった。
天井が震え、鉄板がきしみ、空気がびりつく。
「げ、げぇぇぇぇっ……!」
麟太郎が顔を引きつらせながら、首を大きく左右に振った。
それはもはや、言葉ではなかった。




