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【5】 逃げ場なき密室、嘘と真実の狭間で

―――天正元年(元亀四年)四月十二日、夜半。


三河進撃のため、長篠に陣を構えし武田軍。

その本丸へ、甲斐の間者が息を切らせて飛び込んだ。


「お屋形様っ――!」


長篠城は、寒狭(かんさ)川と大野川が合流する断崖の上に築かれた、扇状の台地にあった。藁葺(わらぶき)屋根の、質素で小さな城であった。


「何事ぞ!」

怒声を響かせたのは、武田四天王の一角――高坂昌信(こうさかまさのぶ)


その声に、板戸が音を立てて開く。

中から現れしは、夜着の上に女物の薄衣を羽織り、堂々たる口髭を湛えた男――

甲斐の虎・武田信玄その人である。


信玄は静かに板の間へと胡坐(あぐら)をかき、昌信に向き直った。


「して、諏訪の支度は整うておるか」


柔らかき物腰にてありながら、その声は部屋を包むほどの威厳を帯びていた。


「万事、滞りなく」

昌信は恭しく頭を垂れる。


「ならば、ただちに諏訪へ、マサカゲを遣わせよ」


信玄の命に呼応するように、寝間の空気が張り詰める。

赤備(あかぞな)えにして名高き山縣昌景(やまがたまさかげ)――

武田家中でも屈指の才将にして、《《諏訪の件》》は、彼に一任されていた。


「御意!」


「この信玄も、夜が明けしなれば直ちに発つ。後駆(しんがり)は、そちに預けるぞ」


「はっ、畏まりまして候!」


昌信はひと際深く一礼すると、踵を返し、音も高く階段を駆け下りていった。


______________________________________


時貞は、部屋をちらりと見渡した。

一瞬真剣な表情を見せたかと思うと、すぐに口元を緩め、何かを企むような笑みを浮かべた。


部屋の奥で麟太郎(りんたろう)が、再び録画を始めようとビデオカメラを構えかけた、その時だった。


「あんた!……あんた、あんた、あ・ん・た・ぁッ!!」


時貞の声が響き渡り、麟太郎は思わず顔を上げた。眉をひそめ、時貞を睨みつける。


「いい話があるんです。聞いてくださいよ」


「いや、いいです。聞きたくないんで」

麟太郎はピシャリと即答した。まるで興味ゼロの顔だ。


だが時貞は気にする様子もなく、続けた。


「大事なことなんですよ、あんたの生死にかかわる……いや、“精子の話”じゃなくて」


「……笑えないですよ」

完全にドン引きした麟太郎は、カメラを握ったまま一歩退いた。


「もういいです。僕は撮影で忙しいんで、あなたたちで勝手に戦っててください」

そう言い残し、田辺博士のほうに軽く手を振った。


「博士も頑張ってくださいよー」


麟太郎に不意に声をかけられた田辺博士は、渋い顔で一瞥をくれただけだった。

彼は未だ、反撃の好機をうかがっていたのだ。


「あんた、……あんた、あんた、あんたぁっ!」

それでも少しもめげない時貞が、急に声の音量を上げた。

その叫ぶような声に、麟太郎はため息をひとつつくと、諦めた顔で、


「何ですか?」と、どうでもいいように応えた。


「ほら聞きたくなったでしょ。あんた、聞きたくなったでしょ。あんた!」

「はい、はい、何ですか。聞きたくなりましたから」


「では、教えて差し上げましょう……」

と、時貞は得意げに胸を張った。


「―――あんた、いざとなったら、あの窓から逃げようと思ってますね」

「ええ。はい。逃げますとも」


「それ、無理です」

「え?」


「逃げるのは……ちょっと、できません」

と、時貞は親指と人差し指の先をチョンと近づけて、その間から目を細めて“ちょっと”のポーズを作った。


麟太郎は、やや怪訝な顔を浮かべた。

が、まだ時貞の話を本気にする気はなさそうだった。


「さっき、わたしが逃げ出したの、見てましたよね?」

「ええ。見事な尻ダッシュでした」


「その時の、わたしの様子、どうでした?」

「超格好悪かった」


あっさり答えられて、時貞はむしろ満足そうに頷いた。


「じゃあ、そんな格好悪くて臆病なわたしが、なんでまたここに戻ってきたと思います?」

麟太郎は、少しだけ眉をひそめた。

あの、ゼリーに滑って転げ回って、爆速で這い出していった時貞が――確かに、なぜ戻ってきたのだろう?


「……何でです?」


「戻ってきたんじゃないんですよ」

「……え?」


「逃げてきたんでよ」


「は?」と麟太郎が、眉間にシワを寄せた。


「……逃げてみたら、外で獄禍(こいつら)が暴れ回っていたんですよ。何体も」

「何体も……」


「こっちにはまだ一体しかいないし、運が良ければ源さんが何とかしてくれる。そう思って、こっちに“避難”してきたんですよ」


それを聞いた麟太郎の目が、ゆっくりと窓に向いた。

反射するのは、自分の蒼白な顔だけ。


……生きてるのが一匹とは限らない?


彼の背筋を、ひんやりと冷たいものが這った。



時貞は、上手くいったと思った。

勿論、作り話だが、他に生きている怪物がいないとは、時貞にも断言ができなかった。


「分かりましたか、ここが一番安全なんですよ」

と、時貞の言葉に、麟太郎は眼鏡の下の丸い目をクリクリしながら頷いている。


「……それで、何をすれば……」

麟太郎の声は、さっきとは別人のように細く震えていた。

それを見て、時貞は――にやりと笑った。


外へは逃げられないと聞いて、さっきまでの投げやりな態度は消えていた。

カメラを置いた、麟太郎の顔色が蒼かった。

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