【2】 断罪の爪、血の試し斬り
怪物の右腕は、三枚の爪をぴたりと閉じており、その先端は鋭く尖り、まるで巨大なドリルのようだった。
「グゥオォォォォォーーッ!」
牙をむき出しにして咆哮をあげたかと思うと、その凶悪な右腕が唸りを上げて――丹波助手めがけて振り下ろされた。
「うわあっ!」
彼は手にした折りたたみ式のパイプ椅子を盾のように構え、必死に応戦した。
けたたましい金属音とともに、パイプ椅子の脚が軋み、激しい衝撃が腕に伝わる。
部屋の隅――日向助手は、すでにへたり込んでいた。
虚ろな瞳で何かを見つめ、口元をかすかに震わせ、完全に放心状態だった。
田辺博士はというと、手にした巨大なペンチのような器具で、怪物から剥ぎ取った鋭利な平爪をしっかりと挟み込んでいた。
狙うは怪物の腹――動きの隙を見て、それを突き立てるつもりだ。
日向助手の反対側、臓物を引き抜かれ、仰向けに横たわる“もう一体の怪物”の解剖台。その背後には、麟太郎が隠れるように身をかがめていた。
震える手でカメラを構え、額には玉のような汗が滲む。。
そのレンズの奥で、〈REC〉の赤い光が、淡く、確かに点滅していた。
そこへ――
さきほどの時貞に続いて、源次が解剖室へ飛び込んできた。
「何が……っ!」
視線の先に立ちはだかる“それ”を見て、彼の足がほんの一瞬止まった。
人ひとりよりもはるかに分厚い黒い胴体、異様に隆起した両肩。
源次の体格は、現場でも“でかい”と評判だった。
だがそれでも、怪物の肩の位置は、彼の頭より高かった。
その時だった。
怪物がいきなり、大股で前進してきた。
丹波助手の顔が恐怖に歪む。。
壁際までじりじりと後ずさったが、もう逃げ場はなかった。
手にしたパイプ椅子を、一心不乱に振り回した。
怪物は、静かに一歩、後ろへ退いた。
そして――右腕を、真っ直ぐに下ろす。
次の瞬間、
〈シャーッ〉――乾いた開閉音。。
肘の付け根あたりから、一枚の平爪が音を立てて開いた。
それは腕に対して垂直に、体の外側へ――横に張り出す。
まるで、昆虫の広げた羽のようであった。
丹波助手は、狂ったようにパイプ椅子を頭上に振り上げた。
その時、怪物の右腕が弧を描き、空気ごと宙を断ち切った。
**視界が赤く染まったのは、ただ一瞬。**断末魔の声すら、上げる暇もなかった。
天井、壁、床。
一瞬で、そのすべてが、鮮血に染まった。
〈ザシャーン〉
立ち尽くしていたはずの丹波助手の足元に、振り上げたはずのパイプ椅子が落ちてきた。――その両腕とともに。
その椅子の上に、続いて落ちて来るものがあった。
それは――丹波助手の、眼鏡をしたままの生首であった。
こうなっては、さすがに丹波助手も立ち続けることは出来なかった。
そのまま膝から崩れ落ちるように、その体は自らの首の上に覆いかぶさった。
辺りには、血が滲み、ゆっくりと広がっていく。
赤は赤を飲み込み、床を這い、壁を塗り潰していった。
放心状態の日向助手が、目の前に落ちてきた生首を見て、気を失った。
〈パーン、パーン………〉
源次が慌てて、怪物の背中に発砲した。力無い、銃声であった。
*
「いまの何?」
湖畔で銃声が響いた瞬間、碧が振り返った。
「……銃声?」
龍信は応えるよりも早く、すでに駆け出していた。
碧も慌てて、その背を追う。
湖畔の静寂が、戦場の胎動へと変わりつつあった。
銃弾は当たったのか? 逸れたのか?
――それとも、体内に呑まれたのか、外殻で弾かれたのか?
源次には、もう判別がつかなかった。
ただひとつだけ確かだったのは――
「全然、効いてねえ……!」
ありったけの弾をぶち込んでも、怪物は微動だにしない。
その背中はまるで、何百年もの間、何もかもを弾き返してきた“鎧”そのものだった。
「グギィヴァォォォォォー!」
怪物は、源次へ向き直ると、凄まじい形相で、大きな口を広げて吠えた。
獣が威圧する動作に似ていた。口からは、よだれが垂れている。
そこへ――
男が走り込んできた。
それは、一本の鉄筋をズルズルと引きずる男だった。
「……教授!?」
源次が思わず声をあげた。
時貞が手にしていたのは、コンクリート建築の芯に使う、
直径15ミリ、全長2メートル、両端が重みで撓った鉄の棒。
武器というより、資材だった。
「何しに?」と源次が眉をひそめる。
「何しに、ってなんだよ」
少しムッとした顔で、時貞が構えをとる。
その手はプルプルと震え、目だけはやたらに真剣だった。
「ぼくだって……ぼくだって、生まれたときから男なんだからな!」
その言葉と共に踏み出した姿は、
**華奢な体にハーフ系の顔立ち、まるで“ファンタジー世界の小国の非力な王子様”**のようだった。
今にも風にさらわれそうである。
そして突然、きょろきょろと辺りを見渡した。
「あれ? 碧ちゃん、いない?」
「ええ、さっき外へ出て行きました」と、奥にいた麟太郎の声。
その瞬間――
時貞は、鉄筋を抱えたまま、ぺたんと肩を落とした。
見ているこちらの方が、申し訳ない気持ちになった。




