【3】 獣の袋と保存された断末魔
作業現場の片隅で、仮設トイレのドアが、きい……と音を立てて開いた。
中から現れたのは、晒を巻いた分厚い胸板に作業ズボンを履いた、源次だった。
冷えた夜気が微かに肌を撫でる。
見上げれば、昨日の雨が嘘のように、諏訪湖の空には満天の星が広がっていた。
さざ波ひとつない漆黒の水面に、膨らんだような丸い月がぼんやりと揺れている。
彼はひとつあくびを噛み殺すと、作業員宿舎の裏手を回り、湖畔に引き上げられた五百年前の石箱へ向かおうとした。
――その時だった。
足元で、何かを踏んだ。
「……ん?」
ぐらりと体勢を崩し、よろけながら前のめりに転びかける。
とっさに足元を見ると、暗がりの中に、黒くて丸い何かが転がっていた。
それは……石のようにも見える。
源次は、反射的につま先でそれを転がした。
地下足袋越しに、妙に生温く、弾力のある感触が伝わってくる。
ころん、とひと回り。月明かりが、その“裏側”を照らし出した。
――そこには、顔があった!
石だと思っていたものが――人間の頭だった。
目も口もかすかに開いたまま、潰れたような表情がそこにある。
「うぇっ……!」
彼は叫び声を飲み込み、無意識に後ずさった。
だがその足が、何かに引っかかり、もんどりうって尻から倒れ込む。
――グチャ。
尻の下で、厭な音がした。
躓いた辺りを見渡すと、二つの影が横たわっていた。
「二つ?」
源次は恐々と尻の下に手をやった。
鷲掴みにしたのは、人間の頭髪だった。
「……っ!」
慌てて跳ね起きた。
足元の二つの影――それは警官の制服を着た胴体だった。
そして、その二つの胴体には――首が無かった。
その腰のホルスターに、拳銃があった。
彼は膝をついて手を伸ばし、拳銃を抜き取ろうとした。
だが、ホルスターは革紐で厳重に留められている。
なかなか外れない。
この暗がりに、二人の警官を容易く惨殺した何者かが潜んでいる。
――源次はかなり焦っていた。
*
「保存袋?……なるほど、そういう事か」と、田辺博士がおもむろに呟いた。
人工的な爪と、頭の後ろにあるコネクター。―――それらが、この生首と、田辺博士の頭の中で、やっと結びついたようであった。
「この怪物は、もしかしたら、……歴史の捕獲者だったんじゃないかな」
博士の言葉に、誰もが何かを言いかけて、結局、言葉を飲み込んだ。
それはあまりにも突飛で、しかし――ぞっとするほど“納得できてしまう”仮説だった。
「……捕獲者って?」
カメラのファインダーから顔を上げた麟太郎が、思わず問い返す。
「人間は、“学ぶ”生き物だ。そして同時に、“記録する”生き物でもある」
博士は、何かを見つめるように言葉を継ぐ。
「記録……って、思い出を、ビデオのように?」
「そうだ。“生きたビデオ”。」
「じゃあ……首じゃなくて、脳が目的だったってことですか?」
丹波助手が低くつぶやいた。
その声には、確信と、わずかな戦慄が混ざっていた。
〈ガシャーン!〉――その瞬間だった。
隣の採集室から、テーブルでもひっくり返したような激しい衝撃音が響いた。
それに続いて、男の悲鳴がこだました。
〈ガシャーン! ガシャーン!〉
連続する破砕音――壁をぶち破るような音とともに、建物全体が揺れる。
「な、何だ!?」
誰かが叫ぶ間もなく――
……次の瞬間、ぴたりと音が止まった。
室内には、耳鳴りのような沈黙だけが、残された。
静まり返った室内で――三人は、無言のまま顔を見合わせた。
少し離れた場所では、日向助手が怯えた目で、採集室へと通じる出入口をじっと見つめている。
「……何があったんだ?」
田辺博士が低く問いかけ、丹波助手に視線を送る。
丹波はわずかに首をひねりながら、困惑した表情で答えた。
「……分かりません。音の方向は……たしかに、採集室ですが……」
麟太郎は、出入口の方へビデオカメラを向けていた。
部屋中に、異様な気配が満ちている。息苦しいほどの沈黙――緊張が張り詰める。
そのときだった。
カメラのファインダーいっぱいに、黒い巨大な影が――突如、飛び込んできた。
あまりに至近距離だった。
麟太郎は、思わずカメラから顔を上げ、そして、凍りついた。
そこに立っていたのは――
黒くて、異様に大きな、あの『怪物』だった。
まるで仁王像のように仁王立ちし、
開かれた目の奥では、小さな瞳が、金色にギラリと光っていた。
とっさに麟太郎は、後ろのテーブルへ視線を投げた。
腹を裂かれ、両腕を切断された怪物は――確かに、まだそこに横たわっていた。
「じゃあ……二匹、いるのか?」
そう呟きながら顔を前に戻した、その瞬間。
「ギョェーッ!!」
――背後で、牛の首を絞めたような、かすれた悲鳴が響いた。
日向助手だった。酸欠の金魚のように口をパクパクさせ、ブルブルと震える指で、前方を指している。
その先に視線を向けて、麟太郎も息を呑んだ。
顔から血の気が引いていく――
そこには、黒い怪物が、左手で“人間の頭部”を鷲掴みにしていた。
ぐったりと揺れているのは、林の生首だった。
目を見開き、口からは血の泡を噴き、首の断面からは、まだ鮮血がぽたぽたと滴っている。
そして次の瞬間――
「グギャォォォォォー!!」
巨大な怪物が、テーブルの上に横たわる仲間を見つけ、
獣じみた咆哮を上げた。
その牙は、むき出しで――怒りと悲しみを剥き出しにしていた。
*
―――京の都を荒らし回った“鬼”とは、何者だったのか?
―――武田の領内を徘徊していた、“巨大な首なし武者”とは?
―――織田信長が、比叡山の穴の中で見たものとは?
―――“悪魔に心を売った”とされる信長が、比叡山の僧たちを皆殺しにした――その真意とは?
時貞の考察は、いよいよ最終段階に入っていた。
パソコンへの入力も順調で、画面には次々と調査結果と仮説が打ち込まれていく。
横では、一織がテーブルに突っ伏したまま、静かな寝息を立てていた。
そのとき――
採集室の方から、何かが激しく倒れるような大きな音が響いた。
時貞は、ハッとして顔を上げ、椅子から立ち上がった。




